20140706 「ほんとうに?」という惑わし2014年07月06日

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」                      創世記3章1節

上記の聖書は、野の獣の中で一番狡猾であった蛇が、女に言ったことばです。そして今もこの問いは、聖書が語る神さまを信じ、聖書を神のことばと信じている私たちに向けられます。「神(さま)は、ほんとうに言われたのか」と。
この問いは、真に狡猾な問いかけです。人は、真実なる神さまに似せて造られたからこそ、真実を求める性質がありますが、蛇はそこにつけいり「神は、ほんとうに言われたのですか」と「神さまの真実性」を惑わそうとしています。
新約聖書マタイの福音書4章に記されているイエスさまに対する悪魔からの試みも同じ傾向があります。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(マタイ4章3節)、「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい」(マタイ4章6節)と、2回も「あなたが(ほんとうに)神の子なら…」と試みています。
ではこのような悪魔からの狡猾な問いかけに対して、私たちはどのように対処したら良いのでしょうか。創世記3章に記されている女の失敗と、マタイの福音書4章に記されているイエスさまの成功から何が見えてくるでしょうか。まず女は蛇のことばを信頼し、行動しているのに対して、イエスさまは、神のみことばに信頼し、行動しませんでした。悪魔から「ほんとうに?」とささやきかけられ、確かめてみようと行動する時、それはすでに神さまのことばより、悪魔のささやきに信頼を置いているからこそ、悪魔の思いに巻き込まれてしまいます。
ですから私たちは、「神さまのことば」(聖書)のみを信じます。茨木聖書教会という教会名に「聖書」ということばが入れられているのもその信仰の現れです。この週も、この月も、悪魔のささやきに惑わされることないように、益々神さまのことばにしっかりと根差して歩ませていただきましょう。

20140713 「あなたは、どこにいるのか」と探しておられる神さま2014年07月13日

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」                     創世記3章9~10節

上記の聖書箇所は、人が罪を犯してしまった後、神さまが人に掛けられた最初のおことばです。「あなたは、どこにいるのか」。そしてそれに対する人の反応は「恐れて、隠れた」でした。
私たちが、今も「自分はどこから来て、どこに居て、どこに向かって行くのか」、そのようなことを考えるのは、創世記の時代から語られ続けている「あなたは、どこにいるのか」という神さまの声が、あなたにも届いているからでしょう。そしてその時、その声を避け、その声から身を隠そうとするのは、神さまを恐れているからです。これがアダムの時代から変わっていない罪をもつ人間の姿です。聖書に「悪者は追う者もないのに逃げる」(箴言28章1節)とあるように、神さまは私を裁くのではないか、神さまは私を罰するのではないかと思うからこそ、恐れて身を隠すのです。
しかし、神さまは、私たちを愛するために、私たちを助けるために、私たちを支えるために、私たちを励ますためにあなたを探しておられるのです。そのために愛するひとり子さえも犠牲にして、あなたを助ける準備をしておられるのです。
ですから神さまからの「あなたは、どこにいるのか」との声を聞いた時には、素直に、正直に「私は、今こんな悲しみの中にいます」「こんな不安の中にいます」「このような憎しみを持って生きています」「不安です」「寂しいです」と打ち明けることです。そうするならば神さまは、必ずそのような私たちを愛し、助け、支え、励ましてくださいます。必ずです。
ぜひあなたも恐れないで神さまの元に近づきましょう。神さまはあなたのことを待っておられます。

20140720 イエスさまを受け入れる時…2014年07月20日

そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
                         創世記3章23~24節

上記の聖書箇所には、「人を…追い出された」「人を追放して」と罪を犯してしまった人と神さまとの断絶が記されています。
この日以来、神さまに似せて造られた人間は、神さまを求め、神さまを探し、神さまの元へ帰りたいと願いながらも、そこにたどり着くことのできない日々を過ごしてきました。そして、ついには神さまに代わる存在を造り出し、それを神とすることで、なんとか心を満たそうとしてきたのです。ある者は、神さまの造られた壮大な自然を神として、また神さまが造られた生きものを神とし、また権力ある存在を、知恵ある人を、そして技術や、お金を、神とし、まことの神さま不在でできた心の穴を埋めようとしてきました。けれどもまことの神さまが抜けてできた穴を埋めることができるのは、やはりまことの神さまだけです。
私たちが、イエスさまと出会い、イエスさまを心の中に受け入れることで覚える、心の安堵感、心の安らぎ、そして落ち着きの原点は、まさにエデンの園を追放された時から私たちの中に存在する神さま不在による心の穴にぴったりと、イエスさまがはまるからです。
あなたが、これまでの人生の中で感じてきた、何かが足りない、心が満たされない、何かしっくりこない、そのような欠乏感、喪失感、違和感はイエスさまを受け入れる時に不思議と消えていきます。あなたも心の内にイエスさまを受け入れませんか。物が欠乏しても、健康が脅かされても、変わることのない、心の満たし、心の安らぎが、ここにはあります。ぜひ「私の心にイエスさまお入りください」と祈りましょう。そうすればイエスさまは、あなたの心の内に入って、心の穴を埋めてくださいます。

20140727 より良いものを神さまに2014年07月27日

ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。       創世記4章3~5節

なぜ「主はアベルのささげ物に目を留め」、「カインのささげ物に目を留められなかった」のでしょうか。神さまは「地の作物」より「羊」を好まれるお方なのでしょうか。この問いへの答えは、読み手の想像の中で考えるのではなく、聖書から読み取るべきです。聖書には、よく読むと「主はアベルとそのささげ物とに目を留められ」「カインとそのささげ物には目を留められなかった」とあります。ここにはっきりと「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」と、「献げる人」と「献げた物」とを区別した表現が見られます。つまり神さまは、「献げ物」に目が向けられたのではなく、「献げる人」に目を向けられたのです。
アベルは、神さまへの献げ物を、まず羊の中から初子を選び、その初子の中からさらに最上のものを選んでいます。一方カインは「地の作物から主へのささげ物を」とだけ記されているのみです。この表現の違いから、アベルは神さまのためにより良いものを献げようとしていた姿勢が読み取れますが、カインは適当に選んでいるように読めてしまいます。神さまの目は、まさにその「献げる人」の心に、思いに目が向けられ、カインとアベルに対する対応の違いが生じたのです。
さて私たちも、人と比較してより良いものをという視点ではなく、神さまと私との間で常にアベルのようにより良いものを献げようとしているでしょうか。神さまは今も、その献げる人の心に目を留めてくださいます。ですから礼拝の中で献げる「祈り」「賛美」「献金」についても、カインのように適当なものとならないように、常にマンネリ化と戦いながら、アベルのようにより良いものを意識しながら献げていきましょう。