20131006 どんなときにも祈りなさい2013年10月06日

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」                 エペソ人への手紙6章18節

 私たちクリスチャンにとって神様に祈ることほど大切なものはありません。上記の聖書箇所でパウロは「どんなときにも御霊によって祈りなさい」とエペソのクリスチャンたちを励ましています。なぜかというと、私たちは絶えず試みの中に置かれているからです。イエス様も「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」と言われました。祈りは試みに打ち勝つ力です。また、この世にあって試みに打ち勝つ秘訣です。私たちは試みの中にあって必ず疲れを覚えるものです。そして弱くなり、失望し、戦いをやめてしまいます。しかし、もし祈るなら、私たちは神様が私たちのために用意しておられるあらゆる祝福に与かることができるのです。
 さて、試みに打ち勝つ祈りとはどのような祈りなのでしょうか。上記の聖書箇所に、「すべての祈りと願いを用いて」、また「どんなときにも御霊によって」、さらに「絶えず目を覚ましていて」とあります。祈りは時間を決めて祈るものではありません。絶えず祈る祈りとは、いつも神様を意識して生きることです。決まった時間だけするのではなく、いつでも、どこででも、何をしていても、絶えず神様を意識することです。それは私たちが全生活おいて神様と親しく交わることです。私たちが体験すること、見ることすべてが祈りになることです。親しい友に体験したことを分かち合うように、絶えず神様に分かち合うことです。もし誘惑されたなら、すぐにその誘惑が祈りになります。「主よ、あなたは私が今通っているところをご存知です。どうか私を助けてください。」と祈るのです。もし何か良いことを見たなら、「神様、あなたはすべての良いことの源です。私はあなたに感謝します。」と祈るのです。私たちはすべての事が祈りになることを学ぶ必要があります。

20131013 私たちの思うところを越えて働く神様2013年10月13日

「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、」    エペソ人への手紙3章20節

 私たちは時として思いも及ばない神様の働きを経験することがあります。上記の聖書箇所にあるように、神様は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、私たちの祈りに答えてくださるお方です。エリシャと預言者の仲間の妻との出来事はその良い例です。預言者の仲間の妻がエリシャのもとにやって来て叫びました。「あなたのしもべである私の夫が死にました。ご存じのように、あなたのしもべは主を恐れておりました。ところが、貸主が来て、私のふたりの子どもを自分の奴隷にしようとしております。」そのとき、エリシャは「何をしてあげようか。家にどんな物があるか。」と尋ねました。その妻は「油のつぼ一つしかありません。」と答えました。エリシャは「隣人たちみなから器を借りて来なさい。そしてあなたの油のつぼから油を注ぎなさい。」と命じました。妻は言われた通りに、隣人たちからすべての器を借りて来て自分の油のつぼから注ぎ始めました。すると、すべての器に油が満たされるという奇蹟が起こりました。エリシャは妻に「その油を売り、負債を返済しなさい。そしてその残りで、あなたとあなたの子どもたちは暮らしていけます。」と言いました。この出来事は、私たちの思うところ、願うところを越えて働かれる神様の働きを現しています。
 もう一つの良い例は、初代教会の大伝道者パウロのローマ行きです。彼は「私はローマを見なければならない。」と言いました。それはローマ見物をするためではありません。ローマ帝国の首都ローマで伝道したかったのです。パウロは、巨大な闘技場コロッセウムで伝道集会を開催し、多くの人々に福音を宣べ伝えるという夢を描いていたのではないでしょうか。しかし神様のなさることは不思議です。パウロの願うところを越えて神様は働かれたのです。驚くことに、パウロは囚人としてローマに行くことになったのです。パウロは獄中において、彼を監視するローマ皇帝直属の親衛隊に福音を伝えることができたのです。

20131020 誠実であること2013年10月20日

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」                 ガラテヤ人への手紙6章1節

 旧約聖書の箴言に次のようなことばがあります。「正しい答えをする者は、そのくちびるに口づけされる」(24章26節)、「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」(27章5節)私たちが健全な人間関係をもちたいと願うなら、誠実さが必要であることをこれらの聖書箇所は教えています。身近な友の中に真実を語ってくれる人がいることは大切なことです。率直に語ってくれる人がいないなら、その人はとても可哀そうな人だと言えます。人はだれでも、自分では見えない部分を持っているのです。私たちが成長するために、自分では気付けないところを指摘してくれる友をもつ必要があります。
 私たちはみな弱さを持った人間です。いろいろな意見をもち、ぶつかり合うこともしばしばです。しかしぶつかり合いを避けていてはより深い関係を築き上げていくことはできません。実は、深い関係はしばしば争いや問題を通して生まれてくるからです。夫婦として何十年共に生活してきていても、真実を語ることを恐れている場合があります。自分が好きなこと、嫌いなこと、また変わる必要があることについて怖くて相手に言えないとするならば、それでは真実な、深い関係を築き上げることはできないのです。
 上記の聖書箇所に、「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」とあります。率直さとは何でも言うこと、また行うことではありません。他の人を正すとき、自分も同じ過ちを犯すものであることを前提にして相手を思い、気遣って話すことです。誠実さ、率直さは、互いに時間をかけて知り合い、近づき、関わり合う中で築き上げられていくものです。私たちはみな批判されることを嫌います。まず自分自身が人々からの批判に対して開かれた心をもつことです。そうすることによって相手は私たちの批判を受け入れることができるのです。

20121027 神様によって召されるとは2013年10月27日

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、、、」          ヨハネの福音書15章16節

 私たちが奉仕において豊かな実を結ぶためには、神様によって召されていることを確信する必要があります。私たちクリスチャンはみな神様の奉仕者ですが、それはボランティアではありません。「はい」と言って、自分から手を挙げて、その奉仕に就いているのではありません。もしボランティアで奉仕していると考えているなら、その働きは決して実を結ぶものになりません。なぜなら、あくまでも自分の意思で、自分のやり方で奉仕をやり遂げようとすることになるからです。私たちが神様のために働くとき、必ず試みがあるものです。困難に直面したり、嫌な思いをしたり、継続することが難しい状況に追い込まれたりするものです。そのとき、なぜその奉仕をしているのか、私たちの動機が試されることになります。ボランティアでは長続きしないのです。
 私は信仰をもったとき、宣教師の勧めをいただいて、「聖書を人生の土台にして自分の人生をやってみよう」と自分で信仰を決断したと考えていました。しかしすぐに信仰生活に困難を覚え、行き詰まりを感じるようになりました。そのとき、上記の聖書箇所が私に示され、私の考えは一変させられました。自分で神様を選んでいたと思っていましたが、実は、イエス様によって選ばれていたことが分かったのです。自分の力で何とか奉仕の生活をしようとするのではなく、肩の力を抜いて、選んでくださった神様にすべてを任せようと思ったのです。神様が私を選んで召してくださったことを思い、選んでくださった神様にすべての責任があるのだから、自分の弱さ、足りなさにくよくよせずに、自分ができるところで奉仕をさせていただければ良いのだと悟ったのです。私たちはいろいろな奉仕に与かっていますが、神様によってその奉仕に召されていることを確信したいと思います。