20130901 愛は高ぶらず、謙遜です2013年09月01日

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」                コリント人への手紙第一13章4節

 私たちは自分のことを自慢したがります。うぬぼれ屋です。ねたみは他の人のものを欲しがることですが、自慢するとは自分が持っているもので他の人をねたませることです。自慢し高慢な人は神様を含めて他の人を低くして、自分を高く引き上げているのです。愛は、たとえ成功したとしても自分のことを自慢しないことです。
 マタイの福音書を書いたマタイは、自分が書いた福音書の中で、自分のことを取税人マタイと繰り返し記しています。当時、ユダヤでは取税人は最も人々から嫌われた職業のひとつでした。当時ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれ、取税人はその手先となり、同胞から過酷な税を脅しゆすり取り、私腹を肥やしていたのです。マタイが自分のことを取税人マタイと記しているのは自ら高ぶらず、謙遜になるためであったのです。また神様の恵みがどれほど豊かなものであるかを、マタイの人生の変化を通して示したかったからだと言えます。
 世界宣教の父と言われたウイリアム・カーレーは言語学者で、34の言語の聖書翻訳に関わったと言われています。彼は貧しいイギリスの家庭で生まれ、若い頃、靴直しの仕事をしていました。その後、インドで宣教師として働いていた時、彼の貧しい生い立ちを軽蔑されたことがありました。ある夕食会でひとりの紳士が彼に「以前のあなたの職業は靴作りだったそうですね。」と聞かれたとき、彼は「閣下、いいえ、違います。私は単なる靴修理人にすぎませんでした。」と答えたそうです。
 さて、私たちはどうしたら自慢せずに高慢にならず、謙遜になれるのでしょうか。それは私たちの思いの中にキリスト様を第一におくことです。心の中にキリスト様を第一におく人は決して自慢することはありません。また私たちの会話の主題がいつもキリスト様であるようにすることです。なぜならばキリスト様が最も価値のあるすばらしいお方だからです。

20130908 だまし取る人が与える人へ2013年09月08日

「ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、」
マタイの福音書10章3節

 イエス様の12弟子のひとりであったマタイは、マタイの福音書を記したゆえによく知られるようになりました。彼は上記の聖書箇所にあえて「取税人マタイ」と記して、かつての職業が何であったかをはっきりと述べています。本来なら、取税人という汚名を自分自身から取り払いたいと願っても不思議ではありません。なぜなら取税人という職業はユダヤの人々に嫌われ、軽蔑されていたからです。当時、取税人は同胞を裏切り、ローマ政府の手先になり、ローマ帝国の権威とその強大な軍事力を後ろ盾にして好き放題に、同胞から強引に税金を取り立て、自らも私腹を肥やしていました。ですから取税人はローマ政府の役人や兵士たち以上にユダヤの人々から嫌われていました。
 このような取税人であったマタイが収税所で仕事をしていたとき、イエス様が彼をご覧になり、「わたしについて来なさい」と声をかけられました。彼はただちにその声に応答し、仕事を放り出して、イエス様に従ったのです。そのあと、マタイは罪人とレッテルを貼られたかつての仲間たちを自宅に招いて食事を提供し、イエス様を彼らに紹介したのです。マタイはイエス様からいただいた大いなる救いの恵みを仲間だった人々にも受け取って欲しいと願ったのです。
 さて、マタイから3つのことを学ぶことができます。第一に、彼が信仰の人であったことです。彼はイエス様の召しを受けた時、収税所の仕事を辞めました。彼は勇気をもって経済的犠牲を払いイエス様に従ったのです。第二に、彼は謙遜な人でした。自分のことを「取税人マタイ」と記し、どのような所から救い出されて来たかをいつも思い出し、また、そのような自分を救い出したイエス様の恵みがいかにすばらしいものかを証したのです。第三に、彼は憐れみ深い人でした。彼は自分に与えられたイエス様の大いなる救いの恵を、罪人として軽蔑されていた仲間たちに分かち与えたいと願ったのです。

20130915 孤独にどのように対処するべきか2013年09月15日

「あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。」
テモテへの第二の手紙4章9節

 伝道者パウロは愛弟子テモテに手紙を書き、何とかして、早く彼のところに来て欲しいと伝えました。この時パウロは孤独だったからです。孤独であることは、私たちのいろいろな経験の中でもっともつらく悲しいものの一つではないでしょうか。偉大な伝道者パウロもテモテの来訪を「何とかして、早く」と強く求めるほどに、孤独を感じていました。私たちはどのような時に孤独を感じ、寂しさを覚えるのでしょうか。
 第一に、私たちは人生の節目に立つ時孤独を感じるものです。この時パウロは人生の第四コーナーを回り、最後の走り場に直面していました。今までとは違った人生のステージに立つ時、私たちはみな孤独を感じるものです。第二に、人々との関係を失うときです。愛する人の死に直面する時、また退職して職場の人々との関係を失う時、私たちは孤独を感じます。パウロの場合、今まで共に働いていた親しい人々が彼のもとから離反して行ったことです。私たちは批判されたり、拒絶されることを通しても孤独を感じます。
 ではどのようにすれば孤独に対処することができるのでしょうか。第一に、神様の臨在を覚えることです。パウロはこう言っています。「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」と。たとえだれも自分の側に立つ人がいなくても、神様は私たちの側を離れず、見捨てず、いつもともにいてくださるのです。第二に、パウロは投獄という孤独な体験を、ただ嘆き悲しむ時として無駄に過ごさなかったことです。むしろ貴重な時として、多くの人々のために祈り、聖書を学ぶと時として用いたことです。新約聖書のパウロの手紙のいくつかはこの獄中から書かれ、今日まで多くの人々に励ましと重要な真理を提供し続けているのです。パウロの偉大さは、孤独な状況に置かれていても、自己憐憫に陥ることなく、他の人の必要のために仕えるという彼の人生の大切な目的を見失わないことでした。

20130922 イエスを裏切ったユダ2013年09月22日

「熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」
                         マタイの福音書10章4節

 イエス様を裏切ったイスカリオテ・ユダはいつも聖書を読む者にとって気にかかる存在です。彼はイエス様を銀貨30枚でユダヤ当局に売り渡し、十字架の死に追いやった張本人です。彼は聖書の中で最も罪深い人だと言われています。私たちの驚きはイエス様が彼を12使徒のひとりに選んだことです。使徒たちとは、イエス様の福音宣教の働きを引き継ぎ、世に広め、イエス様の教会の礎を築く大切な働きを委ねられた人々です。そのひとりであったユダがイエス様を裏切る人になったのです。
 多くの弟子たちが途中でイエス様から離れて行ってしまったにもかかわらず、ユダは十字架の直前までイエス様とともに歩みました。弟子たちの中でだれ一人、ユダがイエス様を裏切ることを考える人はいなかったのです。むしろ彼は仲間たちから信頼されていてイエス様一行の会計を任されていたのです。彼はうわべで見る限り、敬虔な弟子であり、他の人たちから信頼される人物だったのです。しかし彼は仲間の弟子たちを完璧に欺いていた真の偽善者でした。彼は3年以上もイエス様とともに歩み、イエス様の教えを聞きながら、実は何一つ学ぶことは無かったのです。彼は自分の罪を認めず、悔い改めることもせず、イエス様から与えられた救いを自分のものとして受け入れることも無かったのです。彼はイエス様に従うことを通して大きな利益を得ることを願っていたのです。それが叶わないと知ったとき、ユダはイエス様を売り渡したのです。
 ユダの名前は12使徒のリストの最後に出て来ます。それは彼とイエス様との関係を表しているのです。彼は12人の中でイエス様との関係が一番薄かったのです。また他の弟子たちとも深い関係を結ぶことが無かったのです。ユダがペテロのようにイエス様に質問したという記事は聖書に記されていません。彼はほとんど自分の思いを口に出すことは無かったのです。彼はイエス様にも仲間たちにも真実な自分の心を分かち合うことができなかったのです。

20130929 祈りの大切さ2013年09月29日

「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」          マタイの福音書14章23節

 イエス様の公生涯は3年半という短いものでした。福音記者たちは、イエス様が多くの時間を祈りに費やしていたことを報告しています。イエス様は朝早く、まだ暗いうちに一人でさびしい所に行き祈られました。ときには夜を徹して祈ることもありました。オリーブ山はイエス様がよく出かけられた祈りの場所でした。
 イエス様に従う私たちは、イエス様が祈ったように祈る必要があります。祈りは神様との交わりです。神様との豊かな交わりを、私たちもイエス様のように体験する必要があります。
 聖書は祈りの力と重要性についてたくさん教えています。祈りは私たちの人生に正しい視点を教え、私たちの人生を変える大きな力があります。ヤコブの手紙に「義人の祈りは働くと大きな力があります」とあります。アブラハムのしもべは主人に命じられて、主人の息子イサクのために嫁を求めて出かけました。彼が祈ると、リベカが水がめを肩に載せて出てきました。また、ヤコブは兄エサウとの再会を前にして、神様と祈りをもって格闘しました。ヤコブの祈りは、20年間エサウが抱いてきた彼への復しゅう心を変えさせたのでした。さらに、モーセはアマレク人との戦いで、神様に助けを求めて祈ったとき、勝利することができました。不妊の女性であったハンナが主の前に心を注ぎ出して祈り続けたとき、息子サムエルが与えられました。サムエルはやがてイスラエルの偉大な霊的指導者になったのです。アッシリヤの大軍がイスラエルに侵入してきたとき、預言者イザヤとヒゼキヤ王が神様に祈ったとき、12時間で185,000人のアッシリヤ人が打ち負かされました。さらに預言者エリヤが祈ったとき、3年間イスラエルに雨が降りませんでした。しかし、エリヤが雨のために祈ると、雨が降り始めたのでした。
 これらは聖書の中に記されている祈りの答えについての一部の事例にすぎません。祈りには、私たちの人生を変える力があります。