20131103 信仰は試されて成長する2013年11月03日

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」      ヤコブの手紙1章2~3節

 私たちの信仰は体のトレーニングにたとえられます。毎日規則的に運動をすることによって体はきたえられ、丈夫になります。それを怠ると、筋肉が衰え、体が弱くなり、病気にかかりやすくなります。それと同じように信仰も訓練されて強くなり、成長するのです。神様は私たちの信仰を試されます。私たちの信仰は試されて成長するのです。では神様はどのように私たちの信仰を試されるのでしょうか。
 それは困難を通してです。神様は言われます。「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」(イザヤ書48章10節)と。精錬とは高温の炉の中に金属を入れて、その金属の中から不純物を取り出す作業のことです。信仰も悩みの炉と言われる試練や困難などによって、整えられ成長させられていくのです。銀を細工する専門家が、「どうしたら銀が純粋なものになったことがわかりますか。」と質問されたことがありました。そのとき、彼は「銀の中に私自身が映し出されるようになったときです。」と答えました。同じように、私たちも私たち自身からイエス様が映し出されるまでに整えられる必要があります。
 私たちが毎日直面しているすべての出来事は、偶然に起きていることではありません。たとえ悪いことであっても、神様の許しの中で起きていることなのです。もちろん神様が私たちに悪いことを計画していると言うのではありません。私たちが知るべきことは、たとえ悪いことが起きても、神様は私たちの成長のためにそれらを用いてくださるのです。私たちの信仰が試されるのは平穏なときではなく、困難に直面したときです。あなたは今どんな困難に直面していますか。神様があなたの信仰を試されていることを知っているでしょうか。たとえ困難な状況であっても、あなたは神様が助けてくださることを知って神様をほめたたえているでしょうか。

20131110 目的を明確にする2013年11月10日

「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。『異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい。』」  マタイの福音書10章5~6節

 イエス様は12人弟子を第一回目の短期宣教に派遣しました。そのとき、豊かな実を結ぶ働き人となるためにいくつかの原則を教えられました。そのひとつは、奉仕において目的を明確にすることです。イエス様は彼らに異邦人の道に行ってはいけないと、さらにサマリヤ人の町に入ってもいけないと命じられました。そしてイスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさいと命じられたのです。この宣教旅行において、同胞のユダヤ人伝道に集中し、異邦人やサマリヤ人への伝道を制限されたのです。なぜイエス様はユダヤの国内に限定し、ユダヤ人だけに伝道しなさいと命じられたのでしょうか。
 その理由は、宣教において置かれた状況の中で目的を明確にすることでした。12人の弟子たちは初めて福音を宣べ伝える働きに遣わされたのです。それまで福音宣教はイエス様だけがしておられました。もちろんイエス様のお心は全世界の人々が福音を聞き、信じて救われることです。しかし福音を全世界に届かせるためには、まず弟子たちが神様の選びの民であるユダヤ人に宣べ伝えることから始めることが必要だったのです。弟子たちのほとんどは田舎のガリラヤ出身であり、多くは漁師たちでした。彼らが直ちにサマリヤ人や異邦人という異なる文化を持つ人々に伝道することは無謀なことだったのです。だからイエス様は訓練のために、同胞のユダヤ人に限定して彼らを派遣したのです。
 このイエス様の教えは私たちにも適用できるのです。私たちも一気に大きな目標を掲げて奉仕に取り組みがちです。そうではなくて、今おかれている現状の中で目的を明確にして奉仕する必要があるのです。

20131117 信仰は待つことを通して培われる2013年11月17日

「主はアブラムに仰せられた。『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」     創世記12章1~2節

 神様は私たちの信仰を試されます。信仰は試されてはじめて大きく成長することができるからです。信仰の試練は私たちに対する神様のご配慮といえます。私たちが試みられているとき、背後には神様の大きな愛があることを覚えたいものです。
さて、神様はどのような方法を用いて私たちの信仰を試されるのでしょうか。それはしばしば待つことを通してです。上記の聖書箇所に、アブラハムの例が記されています。アブラハムは75歳で人生の大きな転機を迎えました。神様は彼に住み慣れた故郷を離れ、神様が示す地に旅立ちなさいと命じられたのです。またこの命令には祝福の約束が伴っていました。それは不妊の女であった妻サラを通して子が与えられ、その子孫が大いなる国民となるというものでした。アブラハムは神様の命令に従って旅立ち、やがて約束の地に着きました。
しかし、問題は約束の子どもがなかなか与えられないことでした。あるとき、しびれを切らせたアブラハムとサラは、奴隷女のハガルを通して子どもを授かろうと試みたのでした。しかし神様は「それは違う」と言われたのです。あくまでもサラを通して子を与えると言われたのです。アブラハム夫妻が子を授かることがもはや不可能と思えたときに、神様は約束の子の誕生を伝えたのです。そのとき、ふたりはそんなことが起こり得るはずはないと思ったことでしょうが、やがてサラはイサクと名づけられた子を抱くことになったのでした。
神様は遅延という手段を用いて、私たちの信仰を試され、鍛えられるのです。神様の約束はしばしばすぐに実現しません。神様が「待て」と言われたなら、私たちは神様の最善の時があることを信じ、神様への信頼と自らの忍耐深さが培われていることを覚えましょう。

20131124 問題の中にあっても平安を保つ2013年11月24日

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」                  イザヤ書26章3節

 私たちの人生は問題の連続です。昔、留学でアメリカのシカゴに滞在していたとき、ミシガン湖の湖畔でぼーっと空を眺めていたことがありました。そのとき、シカゴ郊外のオヘア空港に着陸するために、飛行機が次から次に飛来してくる様子に驚きました。雲の間から一機現れ、頭上を通過して行ったかと思うと、また一機現れて通過していったのです。次から次に途切れることがありませんでした。まさに私たちの人生にもこのように問題が生じるのです。一つの問題が収まったと思ったら、また次の問題がやってくるのです。私たちの人生において問題がなくなることは決して無いのです。ですから、どんなに問題が絶え間なくやってきても、平安を得ることを私たちは学ばなければならないのです。
 なぜこれほどこの世界に問題が満ち溢れているのでしょうか。その理由はまず、人の罪のゆえです。聖書は最初の人アダムが罪を犯したためにこの世界に罪が入ったと語っています。私たちは罪がある不完全な世界に生きています。人は罪のゆえに間違いを犯し、その結果周りの人々は苦しみを受けることになるのです。次に、聖書は私たちの敵について語っています。私たちの敵であるサタンは私たちの人生を台無しにしようと私たちを絶えず試みているのです。そして、私たち自身の愚かな判断、選択によって問題を引き起こしてしまうのです。さらに、だれの責任でもないことで私たちは問題を持つことがあります。神様はときとしてそのことを許されるのです。
 上記の聖書箇所で、神様は数々の問題があっても平安をもつことができる秘訣を教えてくださっています。ここにある「志の堅固な者」とは、神様に信頼し、いつも神様に心を向けている人のことです。神様はそのような人を何の心配もないように守ってくださると教えているのです。たとえ、思い通りにならないことがあっても、私たちを愛し、心配し、配慮をしてくださっている神様に信頼することです。神様は、神様に信頼する者にすべての必要を満たしてくださるお方だからです。