私たちの国籍は天に ― 2026年08月23日
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
キリストにある者の損得 ― 2026年08月16日
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
世の光として輝くために ― 2026年08月09日
いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
ピリピ人への手紙 2章16節
私たちの人生には、受験や就職、結婚といった人生を左右する大切な出来事、「節目」があります。このような節目を越えたあとに本番が始まります。クリスチャンになるという経験は、人生の節目の中でも格別ですが、その後の本番はどのように生きるのでしょうか。ピリピ人への手紙2章12~16節から3つのポイントで学びます。
1.救いを達成するよう努める(12節)
クリスチャンにとって「救い」とは、過去ではなく現在進行形の出来事です。私たちは毎日救いを体験しています。救いを達成するとは、罪の刑罰からの救い(過去)を感謝して受け取り、イエスさまの再臨の時に罪や悪から完全に救われる(未来)ことに希望を持ちながら、現実の生活で、私たちの外と内から攻めてくる罪の力から、神さまが救ってくださる(現在)ことを願い、救いを体験するということです。パウロは「恐れおののいて」救いを達成するように言いましたが、私たちは罪に対する自らの無力さを自覚しながら、弱さの中に神さまに働いていただくことを信じます。救いの達成に努めるとは、神さまの助けを常に頂きながら、神さまの臨在と守りを味わい続けることです。
2.志を立てさせ、事を行わせてくださる(13~14節)
「働いて」、「行わせる」はエネルゲインという動詞が使われています。これはエネルギーの原語です。聖霊なる神さまは目には見えないけれど、私たちの心に力を持って働かれます。聖霊は私たちの志や心の願いに働きかけ、神のみこころを実現してくださいます。14節には「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」と勧められています。神さまがみこころによって、私たちに与えてくださった志や願いに対して、つぶやかずに従順さをもって実行することが大切です。
3.世の光として輝くために(15~16節)
16節の世の光とは、暗い世界の中で星のように輝くという意味を持ちます。私たちは世の光になりたいと願いつつも、自らの現実を見る時に失望することがあります。しかし、クリスチャンは、既に救いを頂いていて、いのちのことば(みことば)を持っています。私たちはイエスさまの光を映しながら、たとえ小さい光であっても世の光として、与えられた場所で輝き続けるのです。神さまは私たち一人ひとりが世の光として輝くことを願っておられます。その目的はイエスさまの福音を証しし、神さまのみこころを地上で行うことです。
この新しい週もみことばに励まされ、救いの達成に努めつつ、与えられた志や願いを実行し、世の光として歩んでいきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 2章16節
私たちの人生には、受験や就職、結婚といった人生を左右する大切な出来事、「節目」があります。このような節目を越えたあとに本番が始まります。クリスチャンになるという経験は、人生の節目の中でも格別ですが、その後の本番はどのように生きるのでしょうか。ピリピ人への手紙2章12~16節から3つのポイントで学びます。
1.救いを達成するよう努める(12節)
クリスチャンにとって「救い」とは、過去ではなく現在進行形の出来事です。私たちは毎日救いを体験しています。救いを達成するとは、罪の刑罰からの救い(過去)を感謝して受け取り、イエスさまの再臨の時に罪や悪から完全に救われる(未来)ことに希望を持ちながら、現実の生活で、私たちの外と内から攻めてくる罪の力から、神さまが救ってくださる(現在)ことを願い、救いを体験するということです。パウロは「恐れおののいて」救いを達成するように言いましたが、私たちは罪に対する自らの無力さを自覚しながら、弱さの中に神さまに働いていただくことを信じます。救いの達成に努めるとは、神さまの助けを常に頂きながら、神さまの臨在と守りを味わい続けることです。
2.志を立てさせ、事を行わせてくださる(13~14節)
「働いて」、「行わせる」はエネルゲインという動詞が使われています。これはエネルギーの原語です。聖霊なる神さまは目には見えないけれど、私たちの心に力を持って働かれます。聖霊は私たちの志や心の願いに働きかけ、神のみこころを実現してくださいます。14節には「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」と勧められています。神さまがみこころによって、私たちに与えてくださった志や願いに対して、つぶやかずに従順さをもって実行することが大切です。
3.世の光として輝くために(15~16節)
16節の世の光とは、暗い世界の中で星のように輝くという意味を持ちます。私たちは世の光になりたいと願いつつも、自らの現実を見る時に失望することがあります。しかし、クリスチャンは、既に救いを頂いていて、いのちのことば(みことば)を持っています。私たちはイエスさまの光を映しながら、たとえ小さい光であっても世の光として、与えられた場所で輝き続けるのです。神さまは私たち一人ひとりが世の光として輝くことを願っておられます。その目的はイエスさまの福音を証しし、神さまのみこころを地上で行うことです。
この新しい週もみことばに励まされ、救いの達成に努めつつ、与えられた志や願いを実行し、世の光として歩んでいきましょう。
(笠川路人)
生きることはキリスト ― 2026年08月02日
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
ピリピ人への手紙 1章21節
ローマの獄中にあったパウロは、エパフロデトと共に献金を送ってくれたピリピの教会に手紙を書きました。パウロの感謝と喜びにあふれたピリピ人への手紙は、喜びの手紙とも呼ばれ、その中でパウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(1章21節)と告白します。「生きることはキリスト」とは何を意味するのか、そしてパウロはなぜ、「死ぬことは益です」と言い切るのか、21節のみことばを学びます。
1 生きることはキリスト
パウロの生涯はただ一点に集中していました。それはイエス・キリストというお方です。キリストを信じる者は、キリストが私のうちに生き(ガラテヤ人への手紙2章20節)、キリストと共に生き、キリストのために生きます。キリストが人生の中心にあります。しかし、私たちの課題は、キリストでないものが人生の中心に来てしまうことです。私たちは生きるために一生懸命に何かを行い、心の願望を何かで埋めようとします。いつの間にか私の人生とキリストの間に様々なものが入り込み、キリストが見えなくなることがあります。「生きることはキリスト」とは、キリストとの関係を優先順位第一位にすることです。目に見える結果や人の評価ではなく、私たちの心がイエスさまと一つにされているか、近くにあるかどうかが大切です。そのような人生はキリストの豊かさを体験する歩みとなります。イエス・キリストを信じる者には聖霊なる神さまが心の中に住んでくださり、愛と喜びと平安で心を満たしてくださり、御霊の実が私たちの人生に豊かに結ばれていくのです。
2 死ぬことは益です
「死ぬことは益です」と聞くと、なぜ益なのかと思う人が多いでしょう。ここでパウロは救われた者が持っている究極の価値観を告白しています。パウロは、死ぬこととは、自らが生涯追い求め続けてきた方を得る瞬間だと理解していました。死を越えた先には(イエスさまとお会いする)確実な約束があり、しかもそれは自分が心から望んでいるものだということです。しかし一方で、パウロは自分自身が生きる理由についての確信を24~26節で記しています。パウロが生きることは、ピリピのクリスチャンのために必要であり、再び教会に訪問して、彼らの信仰を励ますことができると。パウロのこの姿勢は、まさにクリスチャンである私たちが目標とすべき歩みです。生きることはキリスト(のように生きる)ことであり、死ぬことに対しても、キリストにある希望を持つ人生です。
この新しい週も、「生きることはキリスト、死ぬことは益です」と告白したパウロの信仰を覚えながら、希望を持って歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 1章21節
ローマの獄中にあったパウロは、エパフロデトと共に献金を送ってくれたピリピの教会に手紙を書きました。パウロの感謝と喜びにあふれたピリピ人への手紙は、喜びの手紙とも呼ばれ、その中でパウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(1章21節)と告白します。「生きることはキリスト」とは何を意味するのか、そしてパウロはなぜ、「死ぬことは益です」と言い切るのか、21節のみことばを学びます。
1 生きることはキリスト
パウロの生涯はただ一点に集中していました。それはイエス・キリストというお方です。キリストを信じる者は、キリストが私のうちに生き(ガラテヤ人への手紙2章20節)、キリストと共に生き、キリストのために生きます。キリストが人生の中心にあります。しかし、私たちの課題は、キリストでないものが人生の中心に来てしまうことです。私たちは生きるために一生懸命に何かを行い、心の願望を何かで埋めようとします。いつの間にか私の人生とキリストの間に様々なものが入り込み、キリストが見えなくなることがあります。「生きることはキリスト」とは、キリストとの関係を優先順位第一位にすることです。目に見える結果や人の評価ではなく、私たちの心がイエスさまと一つにされているか、近くにあるかどうかが大切です。そのような人生はキリストの豊かさを体験する歩みとなります。イエス・キリストを信じる者には聖霊なる神さまが心の中に住んでくださり、愛と喜びと平安で心を満たしてくださり、御霊の実が私たちの人生に豊かに結ばれていくのです。
2 死ぬことは益です
「死ぬことは益です」と聞くと、なぜ益なのかと思う人が多いでしょう。ここでパウロは救われた者が持っている究極の価値観を告白しています。パウロは、死ぬこととは、自らが生涯追い求め続けてきた方を得る瞬間だと理解していました。死を越えた先には(イエスさまとお会いする)確実な約束があり、しかもそれは自分が心から望んでいるものだということです。しかし一方で、パウロは自分自身が生きる理由についての確信を24~26節で記しています。パウロが生きることは、ピリピのクリスチャンのために必要であり、再び教会に訪問して、彼らの信仰を励ますことができると。パウロのこの姿勢は、まさにクリスチャンである私たちが目標とすべき歩みです。生きることはキリスト(のように生きる)ことであり、死ぬことに対しても、キリストにある希望を持つ人生です。
この新しい週も、「生きることはキリスト、死ぬことは益です」と告白したパウロの信仰を覚えながら、希望を持って歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
上に立つ権威 ― 2026年07月26日
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。
ローマ人への手紙 13章1節
上に立つ権威とは、今日で言えば行政・立法・司法を含む広い意味での政府関係者を指します。3〜7節の文脈から、支配者、剣を帯びる者、徴税者として言い換えられています(テトスへの手紙3章:1節、ペテロへの手紙第一2章13~14節参照)。
政府関係者の権威に従うべき理由は、その権威が神によって立てられているからです(箴言8章:15節、ヨハネの福音書19章:11節参照)。ここで重要なことは、従う相手は政府関係者「個人」ではなく、その人に与えられた「権威」だという区別です。個人的な悪用・乱用には従う必要はなく、むしろ抵抗すべきです(使徒の働き5章29節、ダニエル書3章、6章)。 包丁は料理にも殺人にも使えるように、権威自体は悪ではなく、悪用する人間が問題なのです。よって、権威の目的を理解し、正しく関わることが重要です。この区別と神さまの目的を理解すると、ローマ人への手紙13章は受け入れやすくなり、感謝の気持ちを持つまでになります。
ローマ人への手紙13章からは神さまが政府の権威を立てた2つの目的を読み取ることができます。第一に、悪を行う者を公正に罰することです(4節)。個人的な復讐だと、結局、悪に悪を返すという悪循環になってしまうので、公正な第三者としての裁きが必要です。政府が武力を持ち、使えるのはそのためです。 第二に、税制を運用することを通して、国民の生活を向上させることです(6節)。いずれの目的も政府関係者個人の益ではなく、国民が正義、安全、福祉を享受するためにあります。
最後に、適用として2つのことを考えてみましょう。第一に、神さまに感謝しつつ政府の存在を認めることです。政府関係者が神さまから与えられた権威を理解し、職務を忠実に果たせるように祈り、選挙の時に、国民の益のために働く政治家を選ぶことも大切です。第二に、政治の分野に積極的に関わることです。立てられた目的を実現できるよう、正当な政府関係者に協力し、従います。その目的を見失った政府関係者には愛と知恵をもって声を上げます。また、4節・6節で政府関係者が「神のしもべ」「神の公僕」と呼ばれているように、政治分野は尊い働きなので、正義を実現し、安全と福祉を向上させる賜物が与えられたら、政治の分野で活躍することを真剣に祈り検討しましょう。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙 13章1節
上に立つ権威とは、今日で言えば行政・立法・司法を含む広い意味での政府関係者を指します。3〜7節の文脈から、支配者、剣を帯びる者、徴税者として言い換えられています(テトスへの手紙3章:1節、ペテロへの手紙第一2章13~14節参照)。
政府関係者の権威に従うべき理由は、その権威が神によって立てられているからです(箴言8章:15節、ヨハネの福音書19章:11節参照)。ここで重要なことは、従う相手は政府関係者「個人」ではなく、その人に与えられた「権威」だという区別です。個人的な悪用・乱用には従う必要はなく、むしろ抵抗すべきです(使徒の働き5章29節、ダニエル書3章、6章)。 包丁は料理にも殺人にも使えるように、権威自体は悪ではなく、悪用する人間が問題なのです。よって、権威の目的を理解し、正しく関わることが重要です。この区別と神さまの目的を理解すると、ローマ人への手紙13章は受け入れやすくなり、感謝の気持ちを持つまでになります。
ローマ人への手紙13章からは神さまが政府の権威を立てた2つの目的を読み取ることができます。第一に、悪を行う者を公正に罰することです(4節)。個人的な復讐だと、結局、悪に悪を返すという悪循環になってしまうので、公正な第三者としての裁きが必要です。政府が武力を持ち、使えるのはそのためです。 第二に、税制を運用することを通して、国民の生活を向上させることです(6節)。いずれの目的も政府関係者個人の益ではなく、国民が正義、安全、福祉を享受するためにあります。
最後に、適用として2つのことを考えてみましょう。第一に、神さまに感謝しつつ政府の存在を認めることです。政府関係者が神さまから与えられた権威を理解し、職務を忠実に果たせるように祈り、選挙の時に、国民の益のために働く政治家を選ぶことも大切です。第二に、政治の分野に積極的に関わることです。立てられた目的を実現できるよう、正当な政府関係者に協力し、従います。その目的を見失った政府関係者には愛と知恵をもって声を上げます。また、4節・6節で政府関係者が「神のしもべ」「神の公僕」と呼ばれているように、政治分野は尊い働きなので、正義を実現し、安全と福祉を向上させる賜物が与えられたら、政治の分野で活躍することを真剣に祈り検討しましょう。 (ハレファ・スルヤ)
キリストのうちにあるなら ― 2026年07月19日
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コリント人への手紙第二 5章17節
現代は、いつも古いものが過ぎ去り、新しいものに入れ替わる時代と言えるでしょう。技術は社会や生活を変えていきますが、神さまは私たちの心を変えてくださるお方です。使徒パウロはコリント人への手紙第二5章において、私たちの心、内側が新しく造られ、古いものが過ぎ去ることについて教えています。
1.キリストのうちにあるなら(17節)
この「うちにある」という言葉は、「中にいる」とか「一体になる」という意味を持ちます。私たちは、知り合いの家に訪問して長い時間を一緒に過ごすと、その人のことばや考え方が記憶に残ることがあります。「キリストのうちにある」とは、イエス・キリストを信じて、その教えとことばに従って生きていくことです。「新しく造られた者です」という表現は、「新しい創造があります」とも訳すことができます。罪に支配されていた過去の自分は過ぎ去り、神の子としての新しい人生、永遠のいのちの希望に生きる者とされます。さらに、物事の見方や考え方も新しく変えられます。時に過去の古い自分が出てくることもあり、過ぎ去っていないと感じる時もあるでしょう。しかし、神さまの視点からみると、私たちはすでに、古いものが過ぎ去り、新しい創造、新しいいのちの中に生きる存在です。何よりも神さまは「もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ書43章25節) と宣言してくださるお方です。
2 和解の務めに生きる
イエスさまを信じ、受け入れる時に、私たちは神さまとの関係が回復されます。罪とは的外れとも言いますが、本当の神さまが分からず、神さまとの関係が損なわれた状態です。しかし、イエスさまの十字架の贖いと罪の赦しは、私たちと和解をするために、神さまが先に手を差し伸べてくださった行為です。この神さまとの和解を体験した者が、本当の意味で、人間関係においても和解を進めることができます。罪を赦された者だから、他人の罪を赦すことができるのです。それは自分の力ではなく、聖霊なる神さまの助けと力に委ねて実現します。もし、私たちが先に赦すことができるなら、和解のための環境が整えられていきます。
今週もキリストのうちにあり、新しく造られた者として、神さまが与えてくださる和解の務めに歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
コリント人への手紙第二 5章17節
現代は、いつも古いものが過ぎ去り、新しいものに入れ替わる時代と言えるでしょう。技術は社会や生活を変えていきますが、神さまは私たちの心を変えてくださるお方です。使徒パウロはコリント人への手紙第二5章において、私たちの心、内側が新しく造られ、古いものが過ぎ去ることについて教えています。
1.キリストのうちにあるなら(17節)
この「うちにある」という言葉は、「中にいる」とか「一体になる」という意味を持ちます。私たちは、知り合いの家に訪問して長い時間を一緒に過ごすと、その人のことばや考え方が記憶に残ることがあります。「キリストのうちにある」とは、イエス・キリストを信じて、その教えとことばに従って生きていくことです。「新しく造られた者です」という表現は、「新しい創造があります」とも訳すことができます。罪に支配されていた過去の自分は過ぎ去り、神の子としての新しい人生、永遠のいのちの希望に生きる者とされます。さらに、物事の見方や考え方も新しく変えられます。時に過去の古い自分が出てくることもあり、過ぎ去っていないと感じる時もあるでしょう。しかし、神さまの視点からみると、私たちはすでに、古いものが過ぎ去り、新しい創造、新しいいのちの中に生きる存在です。何よりも神さまは「もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ書43章25節) と宣言してくださるお方です。
2 和解の務めに生きる
イエスさまを信じ、受け入れる時に、私たちは神さまとの関係が回復されます。罪とは的外れとも言いますが、本当の神さまが分からず、神さまとの関係が損なわれた状態です。しかし、イエスさまの十字架の贖いと罪の赦しは、私たちと和解をするために、神さまが先に手を差し伸べてくださった行為です。この神さまとの和解を体験した者が、本当の意味で、人間関係においても和解を進めることができます。罪を赦された者だから、他人の罪を赦すことができるのです。それは自分の力ではなく、聖霊なる神さまの助けと力に委ねて実現します。もし、私たちが先に赦すことができるなら、和解のための環境が整えられていきます。
今週もキリストのうちにあり、新しく造られた者として、神さまが与えてくださる和解の務めに歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
いのちの泉が湧く心 ― 2026年07月12日
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれから湧く。 箴言4章23節
箴言は「知恵のことば」という意味を持ち、私たちがどう生きたら良いのかについて、知恵の宝が数多く書かれています。箴言4章23節のみことばから、どうしたら「いのちの泉」が私たちの心から湧くのかを2つのポイントで学びます。
1.あなたの心を見守る
23節の前半では、あなたの心を見守りなさいと命じられています。見守るとは、保護する、気を配る、お世話をするという意味です。心とは私たちの思考と感情と意志の三つの働きの源となるものです。ですから、私たちは自分の心を最優先で見守り、気を配る必要があります。しかし、この社会では「心」よりも、しばしば結果や成果が優先され、心が置き去りにされることがあります。その結果、心の中に不安やストレスが溜まると、怒りや失望が生まれ、現実逃避や自己卑下といった間違った行動をしてしまうことがあります。しかし、神さまに助けを求めるならば、神さまは私たちの心に語りかけ、癒し、愛と平安で満たしてくださいます。信仰とは私たちの心の中のすべてを知っておられ、最善へと導かれる神さまに心を委ねていくことです。
2.いのちの泉が湧く心
23節の後半の「いのちの泉はこれから湧く」とは、心が人生におけるすべての行動の源となるという意味です。イエスさまは心といのちの泉の関係について教えています。サマリアの町で出会った女性に、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)と教えられました。イエスさまを信じた彼女は心が変えられ、彼女の証言によって多くの人がイエスさまを信じました。さらにイエスさまは言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書7章38節)
イエスさまを信じる者は、すべての罪が赦され、神さまとの関係を回復し、聖霊なる神さまが心の中に住まれます。どんな時も聖霊が心に愛を注ぎ続けてくださり、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。
イエスさまはあなたの心に生ける水の川が流れ出て欲しいと願っておられます。私たちの心にいのちの泉が湧くことを願い、愛する家族、身近な一人ひとりを潤し、励まし、いのちを与える者とさせていただきましょう。 (笠川路人)
いのちの泉はこれから湧く。 箴言4章23節
箴言は「知恵のことば」という意味を持ち、私たちがどう生きたら良いのかについて、知恵の宝が数多く書かれています。箴言4章23節のみことばから、どうしたら「いのちの泉」が私たちの心から湧くのかを2つのポイントで学びます。
1.あなたの心を見守る
23節の前半では、あなたの心を見守りなさいと命じられています。見守るとは、保護する、気を配る、お世話をするという意味です。心とは私たちの思考と感情と意志の三つの働きの源となるものです。ですから、私たちは自分の心を最優先で見守り、気を配る必要があります。しかし、この社会では「心」よりも、しばしば結果や成果が優先され、心が置き去りにされることがあります。その結果、心の中に不安やストレスが溜まると、怒りや失望が生まれ、現実逃避や自己卑下といった間違った行動をしてしまうことがあります。しかし、神さまに助けを求めるならば、神さまは私たちの心に語りかけ、癒し、愛と平安で満たしてくださいます。信仰とは私たちの心の中のすべてを知っておられ、最善へと導かれる神さまに心を委ねていくことです。
2.いのちの泉が湧く心
23節の後半の「いのちの泉はこれから湧く」とは、心が人生におけるすべての行動の源となるという意味です。イエスさまは心といのちの泉の関係について教えています。サマリアの町で出会った女性に、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)と教えられました。イエスさまを信じた彼女は心が変えられ、彼女の証言によって多くの人がイエスさまを信じました。さらにイエスさまは言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書7章38節)
イエスさまを信じる者は、すべての罪が赦され、神さまとの関係を回復し、聖霊なる神さまが心の中に住まれます。どんな時も聖霊が心に愛を注ぎ続けてくださり、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。
イエスさまはあなたの心に生ける水の川が流れ出て欲しいと願っておられます。私たちの心にいのちの泉が湧くことを願い、愛する家族、身近な一人ひとりを潤し、励まし、いのちを与える者とさせていただきましょう。 (笠川路人)
悪に打ち勝つ ― 2026年07月05日
悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ローマ人への手紙12章21節
人生の中で他者から悪を仕掛けられたとき、私たちはどのように向き合うべきでしょうか。ローマ人への手紙12章17〜21節が示す3つの禁止の勧めから、悪に打ち勝つ姿勢を解説します。
第一に、悪に悪を返してはいけないということです(17節)。人間は悪いことをされると、本能的に同等以上の悪を返そうとします。しかし、聖書は、悪を働いた相手を含むすべての人に対して良いことを行い、できる限り平和を保つよう命じています。悪に悪を返さないためには、自分が持つ体力や経済力、知力を報復のために使わない、という決意が必要です。
次に、自分で復讐してはいけないということです(19節)。復讐は神さまの領域であり、神に委ねるべきです。人間が個人的に手を下すべきではありません。神からの復讐は基本的に神さまのしもべである警察や裁判所といった公的な統治機関に任されている(ローマ人への手紙13章1、4節)ので、犯罪などの悪に対しては、警察に通報するなど、正義の追求を公的機関に委ねることが、具体的な「神さまへの委ね」となります。個人的な無視や意地悪による報復をすることで一時的な満足感は得られるかもしれません。しかし、怒りや憎しみによって、エネルギーを消耗し、束縛されるのです。復讐できても復讐せず、十字架の上で敵の赦しを祈り、自らを父なる神さまに委ねられたイエスさまを模範にする歩みをしたいものです。
第三に、悪に負けてはいけないということです(21節)。私たちが本当に戦うべき相手は、人や組織ではなく、その背後にある暗闇の支配者であるサタンと悪霊たちです(エペソ人への手紙6章12節)。悪に悪で応じてしまえば悪が増殖し、サタンの望み通りに悪に負けることになります。悪という毒に対抗するには、善という解毒剤が必要です。敵に善を返すことは、相手が良心を痛めて行っている悪を止めさせ(頭上の炭火)、悪の連鎖を断ち切る道を開きます。
悪に悪を返さず、復讐を神様に委ね、善をもって悪に勝つことは決して簡単ではありません。しかし、そのように選択し続けることで、悪の悪循環は断ち切られ、平和が実現され、悪に打ち勝つことへと導かれるのです。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙12章21節
人生の中で他者から悪を仕掛けられたとき、私たちはどのように向き合うべきでしょうか。ローマ人への手紙12章17〜21節が示す3つの禁止の勧めから、悪に打ち勝つ姿勢を解説します。
第一に、悪に悪を返してはいけないということです(17節)。人間は悪いことをされると、本能的に同等以上の悪を返そうとします。しかし、聖書は、悪を働いた相手を含むすべての人に対して良いことを行い、できる限り平和を保つよう命じています。悪に悪を返さないためには、自分が持つ体力や経済力、知力を報復のために使わない、という決意が必要です。
次に、自分で復讐してはいけないということです(19節)。復讐は神さまの領域であり、神に委ねるべきです。人間が個人的に手を下すべきではありません。神からの復讐は基本的に神さまのしもべである警察や裁判所といった公的な統治機関に任されている(ローマ人への手紙13章1、4節)ので、犯罪などの悪に対しては、警察に通報するなど、正義の追求を公的機関に委ねることが、具体的な「神さまへの委ね」となります。個人的な無視や意地悪による報復をすることで一時的な満足感は得られるかもしれません。しかし、怒りや憎しみによって、エネルギーを消耗し、束縛されるのです。復讐できても復讐せず、十字架の上で敵の赦しを祈り、自らを父なる神さまに委ねられたイエスさまを模範にする歩みをしたいものです。
第三に、悪に負けてはいけないということです(21節)。私たちが本当に戦うべき相手は、人や組織ではなく、その背後にある暗闇の支配者であるサタンと悪霊たちです(エペソ人への手紙6章12節)。悪に悪で応じてしまえば悪が増殖し、サタンの望み通りに悪に負けることになります。悪という毒に対抗するには、善という解毒剤が必要です。敵に善を返すことは、相手が良心を痛めて行っている悪を止めさせ(頭上の炭火)、悪の連鎖を断ち切る道を開きます。
悪に悪を返さず、復讐を神様に委ね、善をもって悪に勝つことは決して簡単ではありません。しかし、そのように選択し続けることで、悪の悪循環は断ち切られ、平和が実現され、悪に打ち勝つことへと導かれるのです。 (ハレファ・スルヤ)
あなたは私たちの父 ― 2026年06月28日
まことに、あなたは私たちの父です。たとえ、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」。
イザヤ書 63章16節
教会では毎年6月の三週目に父の日の特別礼拝を持ち、お父さま方に日頃の感謝を表し、祝福を祈ります。父親になるというのは簡単なことではありません。父親は家族を支え、家族を守るという社会的責任を負っています。ですから、お父さんたちには励ましが必要です。イザヤ書63章のみことばを通して、2つのポイントで、私たちの父である神さまのご性質から学び、励ましを頂きます。
1.たぎる思いとあわれみを持つ(15節)
神さまは「たぎる思いとあわれみ」を持っておられる方です。たぎる(滾る)とは、「お湯が激しく沸騰する、または感情・情熱が内側から激しくわきあがる状態」を意味します。神さまのたぎる思いとは、愛する思いから来る、抑えきれない熱い思いが腹の底からこみ上げる思いです。大切な子どもだから、苦しんでいるのを見ると辛くなる。たぎるほどに愛したいと思う、それが父なる神さまの愛です。さらに、「あわれみ」(ヘブル語でラヘム)という言葉には、深い愛、思いやりに満ちたやさしさが含まれています。この神さまのたぎる思いとあわれみを受け取る時、私たちは神さまの恵み深さ、愛とそのご配慮を体験します。
2.私たちの父、私たちの贖い主(16節)
預言者イザヤは、「あなたは私たちの父です。」、そして「あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」」と宣言します。贖いとは、身近な家族や親戚が困難や危険にあった時に、そこから救い出すという意味を持ちます。神さまは、私たちの人生を贖い、買い戻してくださるお方です。罪の中に苦しむ私たちを、決して見過ごすことはせずに、ひとり子であるイエス・キリストを地上に送られました。最後には、イエスさまの十字架の死によって、私たちの罪・咎のすべてを赦し、贖ってくださいました。イエスさまを救い主として信じる者は、罪が赦され、神さまとの関係が回復し、永遠のいのちと神の子としての歩みが与えられます。
私たちには「あなたは私たちの父」と呼べる、父なる神さまがおられる。その神さまの子どもとしての幸いな人生を共に歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
イザヤ書 63章16節
教会では毎年6月の三週目に父の日の特別礼拝を持ち、お父さま方に日頃の感謝を表し、祝福を祈ります。父親になるというのは簡単なことではありません。父親は家族を支え、家族を守るという社会的責任を負っています。ですから、お父さんたちには励ましが必要です。イザヤ書63章のみことばを通して、2つのポイントで、私たちの父である神さまのご性質から学び、励ましを頂きます。
1.たぎる思いとあわれみを持つ(15節)
神さまは「たぎる思いとあわれみ」を持っておられる方です。たぎる(滾る)とは、「お湯が激しく沸騰する、または感情・情熱が内側から激しくわきあがる状態」を意味します。神さまのたぎる思いとは、愛する思いから来る、抑えきれない熱い思いが腹の底からこみ上げる思いです。大切な子どもだから、苦しんでいるのを見ると辛くなる。たぎるほどに愛したいと思う、それが父なる神さまの愛です。さらに、「あわれみ」(ヘブル語でラヘム)という言葉には、深い愛、思いやりに満ちたやさしさが含まれています。この神さまのたぎる思いとあわれみを受け取る時、私たちは神さまの恵み深さ、愛とそのご配慮を体験します。
2.私たちの父、私たちの贖い主(16節)
預言者イザヤは、「あなたは私たちの父です。」、そして「あなたの御名は、とこしえから「私たちの贖い主」」と宣言します。贖いとは、身近な家族や親戚が困難や危険にあった時に、そこから救い出すという意味を持ちます。神さまは、私たちの人生を贖い、買い戻してくださるお方です。罪の中に苦しむ私たちを、決して見過ごすことはせずに、ひとり子であるイエス・キリストを地上に送られました。最後には、イエスさまの十字架の死によって、私たちの罪・咎のすべてを赦し、贖ってくださいました。イエスさまを救い主として信じる者は、罪が赦され、神さまとの関係が回復し、永遠のいのちと神の子としての歩みが与えられます。
私たちには「あなたは私たちの父」と呼べる、父なる神さまがおられる。その神さまの子どもとしての幸いな人生を共に歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
ともに喜び、ともに泣く ― 2026年06月21日
喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。
ローマ人への手紙12章15〜16節
教会には様々な人が集まっており、それぞれ異なる個性や意見があるのは当然です。聖書が勧める「互いに一つ心になる」とは、全員がロボットのように同じ意見になることではなく、多様な音が重なり合って美しい音楽が生まれるような調和(ハーモニー)を作り出すことを意味しています。違いを上手に組み合わせる努力が求められているのです。
聖書は、ハーモニーを生み出すために喜んでいる者とともに喜ぶことを教えます。しかし、他人の喜びを心からともに喜ぶという感情が自然に湧かない時は、その人のために祈ることから始めるのがお勧めです。祈るうちに、相手の喜びを自分のことのように思えるようになります。また、悲しむ人に寄り添い、ともに泣くことも大切です。安心して悲しみを分かち合える深い信頼関係のある共同体を築くために、まずは自分から進んで周りの喜びや悲しみに寄り添うことが重要です。
こうした歩みを妨げる最大の要因は思い上がり(高慢)です。人は承認欲求を満たすために他人を見下したり、嫉妬から他人の喜びを妬んだりしてしまいます。聖書はこの思い上がりが人間の罪の本質であると暗示し、すべての人間が罪人であると教えています(創世記3章3節、ローマ人への手紙3章23節)。
しかし、イエス・キリストは最も高い天から地上に来られ、人々とともに喜び、ともに泣き、十字架の苦難を受けてくださいました。このイエスさまの恵みによって罪が赦されていることを覚える時、私たちは自分の知恵や成功が神から与えられたものであると気づき、思い上がりから解放されます。
簡単ではありませんが、教会にいる多様な人々と交わり続けることで、ともに喜び、ともに泣き、互いに一つ心になる共同体をぜひ味わっていきましょう。
(ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙12章15〜16節
教会には様々な人が集まっており、それぞれ異なる個性や意見があるのは当然です。聖書が勧める「互いに一つ心になる」とは、全員がロボットのように同じ意見になることではなく、多様な音が重なり合って美しい音楽が生まれるような調和(ハーモニー)を作り出すことを意味しています。違いを上手に組み合わせる努力が求められているのです。
聖書は、ハーモニーを生み出すために喜んでいる者とともに喜ぶことを教えます。しかし、他人の喜びを心からともに喜ぶという感情が自然に湧かない時は、その人のために祈ることから始めるのがお勧めです。祈るうちに、相手の喜びを自分のことのように思えるようになります。また、悲しむ人に寄り添い、ともに泣くことも大切です。安心して悲しみを分かち合える深い信頼関係のある共同体を築くために、まずは自分から進んで周りの喜びや悲しみに寄り添うことが重要です。
こうした歩みを妨げる最大の要因は思い上がり(高慢)です。人は承認欲求を満たすために他人を見下したり、嫉妬から他人の喜びを妬んだりしてしまいます。聖書はこの思い上がりが人間の罪の本質であると暗示し、すべての人間が罪人であると教えています(創世記3章3節、ローマ人への手紙3章23節)。
しかし、イエス・キリストは最も高い天から地上に来られ、人々とともに喜び、ともに泣き、十字架の苦難を受けてくださいました。このイエスさまの恵みによって罪が赦されていることを覚える時、私たちは自分の知恵や成功が神から与えられたものであると気づき、思い上がりから解放されます。
簡単ではありませんが、教会にいる多様な人々と交わり続けることで、ともに喜び、ともに泣き、互いに一つ心になる共同体をぜひ味わっていきましょう。
(ハレファ・スルヤ)
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