福音宣教の壁を越える ― 2026年10月18日
ところが、彼らの中にキプロス人とクレネ人が何人かいて、アンティオキアに来ると、ギリシア語を話す人たちにも語りかけ、主イエスの福音を宣べ伝えた。
使徒の働き 11章20節
アンティオキア教会は伝道する教会であり、福音宣教の壁を越えていった教会でした。20節の「ところが、」から始まるギリシア人への宣教とバルナバの伝道の働き。アンティオキア教会の福音宣教から二つのポイントで学びます。
1.アンティオキア教会が越えた壁とは(19~21節)
なぜ、弟子たちはユダヤ人以外にみことばを語らなかったのでしょうか。当時のユダヤ人とギリシア人の間には、宗教的背景から考え方、生活スタイルまで、大きな違いがありました。ユダヤ人の弟子たちにとって、救われたギリシア人が教会の中に入ってきて、兄弟姉妹と呼び合って共に助け合って生きることは想像できなかったでしょう。自分が慣れ親しんだ宗教的価値観や習慣を変えることに、大きな心理的な壁があったと想像できます。しかし、キプロス人とクレネ人の幾人かはギリシア人の知り合いや友人にイエスさまの福音を伝えずにはいられませんでした。「主イエスの」とありますが、メシア(救い主)という概念を持たないギリシア人に、彼らは主(主人、族長、リーダーという意味)であるイエスさまを紹介しました。壁を越えていった彼らの上に神さまの御手が働かれ、多くの人が救われました。福音宣教の壁とは何でしょうか。実は壁は私たちの心の中にあるのではないでしょうか。
2.聖霊と信仰に満ちたバルナバの働き(21~24節)
ひとりの人がイエスさまへの信仰に導かれ、成長するために神さまは人を用いられます。福音を伝える側も壁を越える必要がありますが、実はイエスさまを求める人々、そして信じた人々も次々と壁に当たるので、励ましが必要です。バルナバは救われたギリシア人に、「いつも主にとどまっているように」と励まします。バルナバは「立派な人物、信仰と聖霊に満たされている人」であり、彼の内にイエス・キリストがおられました。励ます人は、相手の存在そのものを喜び、大丈夫だよと受け止める人です。私たちの信仰の歩みにおいても、励まし、祈り、そして導いてくれる人がいました。ですから、私たちも信仰と聖霊に満たされて、バルナバのような奉仕をさせていただきたいと願います。教会に来られるお一人おひとりを神の恵みとして受け取り、バルナバのように関わっていきたいと思います。 (笠川路人)
使徒の働き 11章20節
アンティオキア教会は伝道する教会であり、福音宣教の壁を越えていった教会でした。20節の「ところが、」から始まるギリシア人への宣教とバルナバの伝道の働き。アンティオキア教会の福音宣教から二つのポイントで学びます。
1.アンティオキア教会が越えた壁とは(19~21節)
なぜ、弟子たちはユダヤ人以外にみことばを語らなかったのでしょうか。当時のユダヤ人とギリシア人の間には、宗教的背景から考え方、生活スタイルまで、大きな違いがありました。ユダヤ人の弟子たちにとって、救われたギリシア人が教会の中に入ってきて、兄弟姉妹と呼び合って共に助け合って生きることは想像できなかったでしょう。自分が慣れ親しんだ宗教的価値観や習慣を変えることに、大きな心理的な壁があったと想像できます。しかし、キプロス人とクレネ人の幾人かはギリシア人の知り合いや友人にイエスさまの福音を伝えずにはいられませんでした。「主イエスの」とありますが、メシア(救い主)という概念を持たないギリシア人に、彼らは主(主人、族長、リーダーという意味)であるイエスさまを紹介しました。壁を越えていった彼らの上に神さまの御手が働かれ、多くの人が救われました。福音宣教の壁とは何でしょうか。実は壁は私たちの心の中にあるのではないでしょうか。
2.聖霊と信仰に満ちたバルナバの働き(21~24節)
ひとりの人がイエスさまへの信仰に導かれ、成長するために神さまは人を用いられます。福音を伝える側も壁を越える必要がありますが、実はイエスさまを求める人々、そして信じた人々も次々と壁に当たるので、励ましが必要です。バルナバは救われたギリシア人に、「いつも主にとどまっているように」と励まします。バルナバは「立派な人物、信仰と聖霊に満たされている人」であり、彼の内にイエス・キリストがおられました。励ます人は、相手の存在そのものを喜び、大丈夫だよと受け止める人です。私たちの信仰の歩みにおいても、励まし、祈り、そして導いてくれる人がいました。ですから、私たちも信仰と聖霊に満たされて、バルナバのような奉仕をさせていただきたいと願います。教会に来られるお一人おひとりを神の恵みとして受け取り、バルナバのように関わっていきたいと思います。 (笠川路人)
アンティオキア教会を目指して ― 2026年10月18日
そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。
使徒の働き 11章21節
1983年、神さまは茨木聖書教会の初代日本人牧師である吉持章先生に「アンテオケ的センター教会」を目指すというビジョンを与えられました。ビジョンとは、「将来実現したい理想の未来像」です。それから教会はアンティオキア教会をモデルとして宣教を進め、3つの教会開拓と彩都での開拓、30名以上の献身者(教師配偶者を含む)を送り出し、海外宣教師を送り出すという祝福を受けてきました。今回は私たちの教会がビジョンとするアンティオキア教会の注目すべき二つの特徴について学ばせていただきます。
1.主の御手が彼らとともにあった(21節)
キプロス人とクレネ人の何人かから始まった伝道を通して大勢の人が救われました。「主の御手」という表現は、神さまの働きや奇跡のわざとして旧約聖書で度々登場します。今まで誰もやらなかったギリシア人への伝道を行ったときに主の御手が働かれました。私たちはいつも自分の手を動かすことばかりに気を使います。しかし、アンティオキア教会のように主の御手が働く教会、主の御手を感じる教会として歩ませていただきたいと思います。
2.神の恵みを見て喜んだ(23節)
アンティオキアに派遣されたバルナバは到着するやいなや、神の恵みを見て喜びました。まさか救われるはずがないと思っていた人々が大勢、イエスさまを信じている。そして変えられつつある。バルナバは救われた人々を励まし、彼によって大勢の人たちが主に導かれました(24節)。バルナバが見た恵みとは何でしょうか。それは、神さまが私たちを愛し、救いを与えてくださるという事実です。ですから、私たち一人ひとりの存在自体が神の恵みそのものです。兄弟姉妹を見る時に、神の恵みを見るのです。教会に来られるお一人おひとりを神さまの恵みとして歓迎し、救いに導かれたお一人おひとりを神の恵みとして喜び、神の恵みにあふれるアンティオキア教会を目指しましょう。
これから5回にわたってアンティオキア教会から学びます。次回以降、アンティオキア教会に関係する「伝道」、「教育」、「支援」、「派遣」、「護教」の5つのテーマを取り上げます。使徒の働きを通して、アンティオキア教会からともに学ばせていただきましょう。
(笠川路人)
使徒の働き 11章21節
1983年、神さまは茨木聖書教会の初代日本人牧師である吉持章先生に「アンテオケ的センター教会」を目指すというビジョンを与えられました。ビジョンとは、「将来実現したい理想の未来像」です。それから教会はアンティオキア教会をモデルとして宣教を進め、3つの教会開拓と彩都での開拓、30名以上の献身者(教師配偶者を含む)を送り出し、海外宣教師を送り出すという祝福を受けてきました。今回は私たちの教会がビジョンとするアンティオキア教会の注目すべき二つの特徴について学ばせていただきます。
1.主の御手が彼らとともにあった(21節)
キプロス人とクレネ人の何人かから始まった伝道を通して大勢の人が救われました。「主の御手」という表現は、神さまの働きや奇跡のわざとして旧約聖書で度々登場します。今まで誰もやらなかったギリシア人への伝道を行ったときに主の御手が働かれました。私たちはいつも自分の手を動かすことばかりに気を使います。しかし、アンティオキア教会のように主の御手が働く教会、主の御手を感じる教会として歩ませていただきたいと思います。
2.神の恵みを見て喜んだ(23節)
アンティオキアに派遣されたバルナバは到着するやいなや、神の恵みを見て喜びました。まさか救われるはずがないと思っていた人々が大勢、イエスさまを信じている。そして変えられつつある。バルナバは救われた人々を励まし、彼によって大勢の人たちが主に導かれました(24節)。バルナバが見た恵みとは何でしょうか。それは、神さまが私たちを愛し、救いを与えてくださるという事実です。ですから、私たち一人ひとりの存在自体が神の恵みそのものです。兄弟姉妹を見る時に、神の恵みを見るのです。教会に来られるお一人おひとりを神さまの恵みとして歓迎し、救いに導かれたお一人おひとりを神の恵みとして喜び、神の恵みにあふれるアンティオキア教会を目指しましょう。
これから5回にわたってアンティオキア教会から学びます。次回以降、アンティオキア教会に関係する「伝道」、「教育」、「支援」、「派遣」、「護教」の5つのテーマを取り上げます。使徒の働きを通して、アンティオキア教会からともに学ばせていただきましょう。
(笠川路人)
涙をぬぐわれる神 ― 2026年10月04日
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録 21章4節
ヨハネの黙示録21章には、神さまがすべての涙をぬぐい取ってくださるという、最高の慰めのことばが記されています。クリスチャンの究極の希望は、イエスさまがこの世界に再び来られ、新しい天と新しい地が造られる時にあります。
1.新しい天と新しい地(1~2節)
ヨハネの黙示録には、この世界の終末(終わり)に起こる大患難時代を経て、イエス・キリストが再臨される預言が書かれています。最後の審判においてサタンが滅ぼされます。神さまは悪に満ちた世界をいつまでも放置されず、聖なる、素晴らしい世界へと造り変えられます。新しい天と新しい地では、新しいエルサレムが、天から降って来ます。それは私たちが生きるこの地そのものが回復され、天と結び合わされるということです。
2.ともに住み、ともにおられる神(3節)
新しい天と新しい地において、神さまは人々とともに住まわれます。ある英語訳の聖書は、「神さまが私たちのご近所に引っ越してこられた」と訳しています。創世記1~2章において、人がエデンの園で神さまと直接交わっていた関係が回復されます。「人々は神の民となる」の民は複数形なので、新しいエルサレムを構成するのは多民族からなる共同体です。古(いにしえ)の聖徒たち、天に送った大切な方々と再会し、ともに神の民として生きるのです。
3.涙をことごとくぬぐわれる神(4節)
神さまは、私たちのすべての涙を覚えておられるお方です。人前で流す涙であれ、誰にも見られず一人で流す涙であれ、私たちが流すすべての涙をことごとくぬぐい取ってくださるという約束です。「もはや死はなく」とあるように、死に対する完全な勝利が成し遂げられ、これまで私たち人間を苦しめてきたさまざまな災いや苦しみは、もはや存在しません。神さまの愛と喜びと平安に満ちあふれた、新しい天と新しい地において、私たちは神さまとともに永遠に生きる存在となります。
クリスチャンにとって毎週の礼拝は、やがて来る新しい天と新しい地の前味とも言えます。なぜなら、神さまをほめたたえることは天における生活の中心だからです。永遠の希望を待ち望みながら、神さまの慰めと励ましを頂き、今、私たちに与えられている地上の生涯をともに歩んでいきましょう。 (笠川路人)
ヨハネの黙示録 21章4節
ヨハネの黙示録21章には、神さまがすべての涙をぬぐい取ってくださるという、最高の慰めのことばが記されています。クリスチャンの究極の希望は、イエスさまがこの世界に再び来られ、新しい天と新しい地が造られる時にあります。
1.新しい天と新しい地(1~2節)
ヨハネの黙示録には、この世界の終末(終わり)に起こる大患難時代を経て、イエス・キリストが再臨される預言が書かれています。最後の審判においてサタンが滅ぼされます。神さまは悪に満ちた世界をいつまでも放置されず、聖なる、素晴らしい世界へと造り変えられます。新しい天と新しい地では、新しいエルサレムが、天から降って来ます。それは私たちが生きるこの地そのものが回復され、天と結び合わされるということです。
2.ともに住み、ともにおられる神(3節)
新しい天と新しい地において、神さまは人々とともに住まわれます。ある英語訳の聖書は、「神さまが私たちのご近所に引っ越してこられた」と訳しています。創世記1~2章において、人がエデンの園で神さまと直接交わっていた関係が回復されます。「人々は神の民となる」の民は複数形なので、新しいエルサレムを構成するのは多民族からなる共同体です。古(いにしえ)の聖徒たち、天に送った大切な方々と再会し、ともに神の民として生きるのです。
3.涙をことごとくぬぐわれる神(4節)
神さまは、私たちのすべての涙を覚えておられるお方です。人前で流す涙であれ、誰にも見られず一人で流す涙であれ、私たちが流すすべての涙をことごとくぬぐい取ってくださるという約束です。「もはや死はなく」とあるように、死に対する完全な勝利が成し遂げられ、これまで私たち人間を苦しめてきたさまざまな災いや苦しみは、もはや存在しません。神さまの愛と喜びと平安に満ちあふれた、新しい天と新しい地において、私たちは神さまとともに永遠に生きる存在となります。
クリスチャンにとって毎週の礼拝は、やがて来る新しい天と新しい地の前味とも言えます。なぜなら、神さまをほめたたえることは天における生活の中心だからです。永遠の希望を待ち望みながら、神さまの慰めと励ましを頂き、今、私たちに与えられている地上の生涯をともに歩んでいきましょう。 (笠川路人)
昼らしい生き方 ― 2026年09月27日
夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。
ローマ人への手紙13章12節
11節の「あなたがたは、今がどのような時であるか知っています」にある「時」は、ギリシア語の時計的な時間(クロノス)ではなく、決定的なタイミング(カイロス)を意味します。私たちは時計的な時間だけでなく、今、何をすべきタイミングか、ということも知りたいものです。歳を重ねて病や弱さを抱える時期も、祈りや証し、次世代への支援など「今だからこそできること」を見い出す大切なカイロスとなります。
11節には「救いは信じた時よりも近付いている」ともありますが、私たちの救いには、キリストの十字架によって「既に」与えられた側面と、再臨の時に全うされる「未だ」の側面があります。救いにおいて「既に、しかし未だ」という今の時代は、昼らしい品位のある生き方をし、闇のわざを脱ぎ捨てるべき時(カイロス)なのです。
昼らしい生き方の第一歩は「霊的な眠りから覚める」ことです。霊的に眠っている人は日時の経過(クロノス)しか見えず、礼拝や時間の持つ神聖な意味を軽視しがちです。それに対し、目覚めている人は一瞬一瞬を神さまの恵みを得る貴重な機会として受け止めます。さらに、光の武具を身に着ける、すなわち「主イエス・キリストを着る」ことが求められます。日常の歩みの中で「イエスさまならどうされるだろうか」と問いかけ、そのみこころに従うことです。自分自身を主の守りと御手の中に委ねることが、霊的な戦いにおける最大の備えとなります。
闇のわざとして13節では遊興と泥酔、淫乱と好色、そして争いとねたみが挙げられています。これらのことは「欲望を満たそうと、肉に心を用いて」いる状態だと14節で説明されています。必要な欲求は悪ではありませんが、肥大化した欲である「欲望」を「必要なもの」と錯覚してしまうことがあり注意が必要です。欲望に流されず、神さまの前に立ち止まり、みことばに照らして正していくことが大切です。
古代の神学者であり思想家であるアウグスティヌスも、放蕩の末にこのローマ人への手紙13章13〜14節のみことばによって霊的な眠りから覚まされ、人生が根本から変えられました。今という時を自覚し、キリストを着て、光の子として昼らしい生き方を目指して歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙13章12節
11節の「あなたがたは、今がどのような時であるか知っています」にある「時」は、ギリシア語の時計的な時間(クロノス)ではなく、決定的なタイミング(カイロス)を意味します。私たちは時計的な時間だけでなく、今、何をすべきタイミングか、ということも知りたいものです。歳を重ねて病や弱さを抱える時期も、祈りや証し、次世代への支援など「今だからこそできること」を見い出す大切なカイロスとなります。
11節には「救いは信じた時よりも近付いている」ともありますが、私たちの救いには、キリストの十字架によって「既に」与えられた側面と、再臨の時に全うされる「未だ」の側面があります。救いにおいて「既に、しかし未だ」という今の時代は、昼らしい品位のある生き方をし、闇のわざを脱ぎ捨てるべき時(カイロス)なのです。
昼らしい生き方の第一歩は「霊的な眠りから覚める」ことです。霊的に眠っている人は日時の経過(クロノス)しか見えず、礼拝や時間の持つ神聖な意味を軽視しがちです。それに対し、目覚めている人は一瞬一瞬を神さまの恵みを得る貴重な機会として受け止めます。さらに、光の武具を身に着ける、すなわち「主イエス・キリストを着る」ことが求められます。日常の歩みの中で「イエスさまならどうされるだろうか」と問いかけ、そのみこころに従うことです。自分自身を主の守りと御手の中に委ねることが、霊的な戦いにおける最大の備えとなります。
闇のわざとして13節では遊興と泥酔、淫乱と好色、そして争いとねたみが挙げられています。これらのことは「欲望を満たそうと、肉に心を用いて」いる状態だと14節で説明されています。必要な欲求は悪ではありませんが、肥大化した欲である「欲望」を「必要なもの」と錯覚してしまうことがあり注意が必要です。欲望に流されず、神さまの前に立ち止まり、みことばに照らして正していくことが大切です。
古代の神学者であり思想家であるアウグスティヌスも、放蕩の末にこのローマ人への手紙13章13〜14節のみことばによって霊的な眠りから覚まされ、人生が根本から変えられました。今という時を自覚し、キリストを着て、光の子として昼らしい生き方を目指して歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
まだ息があります ― 2026年09月20日
息のあるものはみな 主をほめたたえよ。
ハレルヤ。 詩篇 150篇6節
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
「御座に着いておられる方と子羊に、
賛美と誉れと栄光と力が
世々限りなくあるように。」 ヨハネの黙示録 5章13節
1.生と死の間を生きる(個人的終末)
私たちは普段、自分が「息をしている(生きている)」ことを意識せずに暮らしています。しかし、病や非日常、あるいは死の影を意識するとき、かえって自らのいのちを身に沁みて実感します。人間は死に向かう弱く小さな存在だからこそ、いま生きている自らの命をいとおしみ、大切にし始めるのです。
圧倒的で壮大な神のみことばの前に立つときも同じです。自らの小ささと自らが死にゆく存在であることを痛感させられます。しかしその時、自らを形造った神の息吹と御霊を感じ、生かされているいのちの実感を味わうのです。自らの死を意識する地平から、生かされている恵みを知る「個人的終末」の視点において、息のある私たちは神を賛美する存在となります。
2.みんな賛美(一般的終末)
さらに、この限られたいのちは、虚しく終わるわけではありません。詩篇全巻をしめくくる「アーメン」という祈りから、最後の150篇で「ハレルヤ」という賛美で、詩篇全篇が締めくくられるように、私たちの祈りは、神の栄光へと導かれます。それは、自ら息を吐き切り十字架で死なれた主イエス・キリストが、死を打ち破って復活され、永遠のいのちをもたらされたからです。キリストを通して、死にむかうしかない私たちは、死を突き抜けて、神の栄光へと至ります。
そして、この「ハレルヤ」という賛美は、私一人の祈りや死(個人的終末)にとどまりません。それは全世界、天と地のすべての被造物が共に神をほめたたえる「一般的終末」の完成へと広がっていきます。「息のあるもの」とは、人間を含むすべての被造物のことです。
私たちはまだ終わりの日に到達しておらず、今も息をしています。だからこそ、すべての造られたものが御座に着く方と子羊を賛美する栄光の「終わりの日」を待ち望みつつ、今日という日を「アーメン」と祈り歩むのです。私たちの祈りは、やがて全被造物による「ハレルヤ」の賛美へと変えられます。
(くずは聖書教会 廣坂洋行師)
ハレルヤ。 詩篇 150篇6節
また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。
「御座に着いておられる方と子羊に、
賛美と誉れと栄光と力が
世々限りなくあるように。」 ヨハネの黙示録 5章13節
1.生と死の間を生きる(個人的終末)
私たちは普段、自分が「息をしている(生きている)」ことを意識せずに暮らしています。しかし、病や非日常、あるいは死の影を意識するとき、かえって自らのいのちを身に沁みて実感します。人間は死に向かう弱く小さな存在だからこそ、いま生きている自らの命をいとおしみ、大切にし始めるのです。
圧倒的で壮大な神のみことばの前に立つときも同じです。自らの小ささと自らが死にゆく存在であることを痛感させられます。しかしその時、自らを形造った神の息吹と御霊を感じ、生かされているいのちの実感を味わうのです。自らの死を意識する地平から、生かされている恵みを知る「個人的終末」の視点において、息のある私たちは神を賛美する存在となります。
2.みんな賛美(一般的終末)
さらに、この限られたいのちは、虚しく終わるわけではありません。詩篇全巻をしめくくる「アーメン」という祈りから、最後の150篇で「ハレルヤ」という賛美で、詩篇全篇が締めくくられるように、私たちの祈りは、神の栄光へと導かれます。それは、自ら息を吐き切り十字架で死なれた主イエス・キリストが、死を打ち破って復活され、永遠のいのちをもたらされたからです。キリストを通して、死にむかうしかない私たちは、死を突き抜けて、神の栄光へと至ります。
そして、この「ハレルヤ」という賛美は、私一人の祈りや死(個人的終末)にとどまりません。それは全世界、天と地のすべての被造物が共に神をほめたたえる「一般的終末」の完成へと広がっていきます。「息のあるもの」とは、人間を含むすべての被造物のことです。
私たちはまだ終わりの日に到達しておらず、今も息をしています。だからこそ、すべての造られたものが御座に着く方と子羊を賛美する栄光の「終わりの日」を待ち望みつつ、今日という日を「アーメン」と祈り歩むのです。私たちの祈りは、やがて全被造物による「ハレルヤ」の賛美へと変えられます。
(くずは聖書教会 廣坂洋行師)
愛の負債 ― 2026年09月13日
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。
ローマ人への手紙13章8節
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と聞いて、金銭的な必要がある時、個人や金融機関から借りてはならないのか、と疑問に思うかもしれません。「借りようとする者に背を向けてはいけない」(マタイの福音書5章42節)と「悪しき者は借りるが返さない」(詩篇37篇21節)なども合わせて考えると、借りたものを期日内に必ず返す、完済できないような無理な借金やカード払い、ローンなどはしない、という原則が読み取れます。
このように金銭的な負債をできるだけ少なくすることで、8節後半の教えをもっと実践しやすくなります。私たちは家族や友人、学校の先生、同僚、医療関係者などから多くの愛と助けを受けて生きています。そして何より神さまの愛と助けをいただいています。この「愛の負債」は、返済によってなくなる金銭的な負債と違い、一生消えることがありません。私たちは、常に互いに愛し合うように勧められています。また、9〜10節では、隣人を自分自身のように愛することが勧められています。自分自身を愛すること自体は悪いことではありませんが、自分自身を大切にする心を隣人愛にも向けることが大切です。そうすれば、隣人に悪を行わないだけでなく、律法の要求を満たすことにもつながります。
隣人愛について良きサマリア人のたとえ話(ルカの福音書10章25〜37節)から、少なくとも2つのことを学べます。第一に、隣人の範囲を、自分たちの仲間だけに限定せず、内と外という区別でいう「外」にいる人にまで広げることです。第二に、隣人を愛するためにはお金も時間もエネルギーも必要だということです。金銭的な負債をできるだけ少なくして、お金や時間、エネルギーを隣人を愛するために用いる余裕を持ち、私たちは、神さまと人々に対して愛の負債があることを覚えながら互いに愛し合う者でありたいと願います。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙13章8節
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と聞いて、金銭的な必要がある時、個人や金融機関から借りてはならないのか、と疑問に思うかもしれません。「借りようとする者に背を向けてはいけない」(マタイの福音書5章42節)と「悪しき者は借りるが返さない」(詩篇37篇21節)なども合わせて考えると、借りたものを期日内に必ず返す、完済できないような無理な借金やカード払い、ローンなどはしない、という原則が読み取れます。
このように金銭的な負債をできるだけ少なくすることで、8節後半の教えをもっと実践しやすくなります。私たちは家族や友人、学校の先生、同僚、医療関係者などから多くの愛と助けを受けて生きています。そして何より神さまの愛と助けをいただいています。この「愛の負債」は、返済によってなくなる金銭的な負債と違い、一生消えることがありません。私たちは、常に互いに愛し合うように勧められています。また、9〜10節では、隣人を自分自身のように愛することが勧められています。自分自身を愛すること自体は悪いことではありませんが、自分自身を大切にする心を隣人愛にも向けることが大切です。そうすれば、隣人に悪を行わないだけでなく、律法の要求を満たすことにもつながります。
隣人愛について良きサマリア人のたとえ話(ルカの福音書10章25〜37節)から、少なくとも2つのことを学べます。第一に、隣人の範囲を、自分たちの仲間だけに限定せず、内と外という区別でいう「外」にいる人にまで広げることです。第二に、隣人を愛するためにはお金も時間もエネルギーも必要だということです。金銭的な負債をできるだけ少なくして、お金や時間、エネルギーを隣人を愛するために用いる余裕を持ち、私たちは、神さまと人々に対して愛の負債があることを覚えながら互いに愛し合う者でありたいと願います。 (ハレファ・スルヤ)
上に立つ権威② ― 2026年09月06日
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。
ローマ人への手紙13章3節
7月19日の説教「上に立つ権威」では、次のことを学びました。ローマ人への手紙13章が教える「権威」とは、政府関係者や為政者を指します。権威自体は神によって与えられたものであり、その目的は「悪を罰すること」と「税制等を通じて市民の福祉を向上させること」にあります。そうすると、神に感謝しつつ、為政者の存在を認めること、政治に参画すること、政界での仕事を検討すること、という3つの適用が考えられます。
今回はさらに2つの適用を考えます。第4の適用は「究極の忠誠心を神におくこと」です。私たちは罰を恐れるからではなく、「良心」ゆえに為政者に従います。ここでの良心とは個人の好みではなく、「為政者は神のしもべであり、市民の益のために立てられている」という内なる価値観です。納税も、単なる義務感からではなく、正義と福祉の実現に貢献するという前向きな姿勢で行いたいものです。
また、為政者は神のしもべとして市民の上に立ちますが、最高の権威ではありません。一番上におられるのは神さまです。もし為政者の指示が神のみこころと反する場合、クリスチャンは最高の権威である神に従わなければなりません。
第5の適用は「悪を行わず、善を行うこと」です。2節で禁じられている「反抗」とは、当時ローマへの憎しみからテロや暴力を振るった「熱心党」のような過激な抵抗を指します。私たちは悪に対して悪で返すのではなく、地域奉仕や被災地支援といった「善」を行い続けることが求められます。
また、善行には為政者の誤りを指摘することも含まれます。これは容易ではありません。平和主義を貫いて弾圧されながらも、信仰によって勇気と忍耐を持ち、正しさを語り続けた矢内原忠雄のように、私たちも神への信仰に支えられて善を行い続けることが大切です。神から与えられる勇気と忍耐をもって、最高の権威である主に従い歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙13章3節
7月19日の説教「上に立つ権威」では、次のことを学びました。ローマ人への手紙13章が教える「権威」とは、政府関係者や為政者を指します。権威自体は神によって与えられたものであり、その目的は「悪を罰すること」と「税制等を通じて市民の福祉を向上させること」にあります。そうすると、神に感謝しつつ、為政者の存在を認めること、政治に参画すること、政界での仕事を検討すること、という3つの適用が考えられます。
今回はさらに2つの適用を考えます。第4の適用は「究極の忠誠心を神におくこと」です。私たちは罰を恐れるからではなく、「良心」ゆえに為政者に従います。ここでの良心とは個人の好みではなく、「為政者は神のしもべであり、市民の益のために立てられている」という内なる価値観です。納税も、単なる義務感からではなく、正義と福祉の実現に貢献するという前向きな姿勢で行いたいものです。
また、為政者は神のしもべとして市民の上に立ちますが、最高の権威ではありません。一番上におられるのは神さまです。もし為政者の指示が神のみこころと反する場合、クリスチャンは最高の権威である神に従わなければなりません。
第5の適用は「悪を行わず、善を行うこと」です。2節で禁じられている「反抗」とは、当時ローマへの憎しみからテロや暴力を振るった「熱心党」のような過激な抵抗を指します。私たちは悪に対して悪で返すのではなく、地域奉仕や被災地支援といった「善」を行い続けることが求められます。
また、善行には為政者の誤りを指摘することも含まれます。これは容易ではありません。平和主義を貫いて弾圧されながらも、信仰によって勇気と忍耐を持ち、正しさを語り続けた矢内原忠雄のように、私たちも神への信仰に支えられて善を行い続けることが大切です。神から与えられる勇気と忍耐をもって、最高の権威である主に従い歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
いつも主にあって喜びなさい ― 2026年08月30日
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
私たちの国籍は天に ― 2026年08月23日
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
キリストにある者の損得 ― 2026年08月16日
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
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