愛の負債 ― 2026年09月13日
だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。
ローマ人への手紙13章8節
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と聞いて、金銭的な必要がある時、個人や金融機関から借りてはならないのか、と疑問に思うかもしれません。「借りようとする者に背を向けてはいけない」(マタイの福音書5章42節)と「悪しき者は借りるが返さない」(詩篇37篇21節)なども合わせて考えると、借りたものを期日内に必ず返す、完済できないような無理な借金やカード払い、ローンなどはしない、という原則が読み取れます。
このように金銭的な負債をできるだけ少なくすることで、8節後半の教えをもっと実践しやすくなります。私たちは家族や友人、学校の先生、同僚、医療関係者などから多くの愛と助けを受けて生きています。そして何より神さまの愛と助けをいただいています。この「愛の負債」は、返済によってなくなる金銭的な負債と違い、一生消えることがありません。私たちは、常に互いに愛し合うように勧められています。また、9〜10節では、隣人を自分自身のように愛することが勧められています。自分自身を愛すること自体は悪いことではありませんが、自分自身を大切にする心を隣人愛にも向けることが大切です。そうすれば、隣人に悪を行わないだけでなく、律法の要求を満たすことにもつながります。
隣人愛について良きサマリア人のたとえ話(ルカの福音書10章25〜37節)から、少なくとも2つのことを学べます。第一に、隣人の範囲を、自分たちの仲間だけに限定せず、内と外という区別でいう「外」にいる人にまで広げることです。第二に、隣人を愛するためにはお金も時間もエネルギーも必要だということです。金銭的な負債をできるだけ少なくして、お金や時間、エネルギーを隣人を愛するために用いる余裕を持ち、私たちは、神さまと人々に対して愛の負債があることを覚えながら互いに愛し合う者でありたいと願います。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙13章8節
「だれに対しても、何の借りもあってはいけません」と聞いて、金銭的な必要がある時、個人や金融機関から借りてはならないのか、と疑問に思うかもしれません。「借りようとする者に背を向けてはいけない」(マタイの福音書5章42節)と「悪しき者は借りるが返さない」(詩篇37篇21節)なども合わせて考えると、借りたものを期日内に必ず返す、完済できないような無理な借金やカード払い、ローンなどはしない、という原則が読み取れます。
このように金銭的な負債をできるだけ少なくすることで、8節後半の教えをもっと実践しやすくなります。私たちは家族や友人、学校の先生、同僚、医療関係者などから多くの愛と助けを受けて生きています。そして何より神さまの愛と助けをいただいています。この「愛の負債」は、返済によってなくなる金銭的な負債と違い、一生消えることがありません。私たちは、常に互いに愛し合うように勧められています。また、9〜10節では、隣人を自分自身のように愛することが勧められています。自分自身を愛すること自体は悪いことではありませんが、自分自身を大切にする心を隣人愛にも向けることが大切です。そうすれば、隣人に悪を行わないだけでなく、律法の要求を満たすことにもつながります。
隣人愛について良きサマリア人のたとえ話(ルカの福音書10章25〜37節)から、少なくとも2つのことを学べます。第一に、隣人の範囲を、自分たちの仲間だけに限定せず、内と外という区別でいう「外」にいる人にまで広げることです。第二に、隣人を愛するためにはお金も時間もエネルギーも必要だということです。金銭的な負債をできるだけ少なくして、お金や時間、エネルギーを隣人を愛するために用いる余裕を持ち、私たちは、神さまと人々に対して愛の負債があることを覚えながら互いに愛し合う者でありたいと願います。 (ハレファ・スルヤ)
上に立つ権威② ― 2026年09月06日
支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐ろしいと思いたくなければ、善を行いなさい。そうすれば、権威から称賛されます。
ローマ人への手紙13章3節
7月19日の説教「上に立つ権威」では、次のことを学びました。ローマ人への手紙13章が教える「権威」とは、政府関係者や為政者を指します。権威自体は神によって与えられたものであり、その目的は「悪を罰すること」と「税制等を通じて市民の福祉を向上させること」にあります。そうすると、神に感謝しつつ、為政者の存在を認めること、政治に参画すること、政界での仕事を検討すること、という3つの適用が考えられます。
今回はさらに2つの適用を考えます。第4の適用は「究極の忠誠心を神におくこと」です。私たちは罰を恐れるからではなく、「良心」ゆえに為政者に従います。ここでの良心とは個人の好みではなく、「為政者は神のしもべであり、市民の益のために立てられている」という内なる価値観です。納税も、単なる義務感からではなく、正義と福祉の実現に貢献するという前向きな姿勢で行いたいものです。
また、為政者は神のしもべとして市民の上に立ちますが、最高の権威ではありません。一番上におられるのは神さまです。もし為政者の指示が神のみこころと反する場合、クリスチャンは最高の権威である神に従わなければなりません。
第5の適用は「悪を行わず、善を行うこと」です。2節で禁じられている「反抗」とは、当時ローマへの憎しみからテロや暴力を振るった「熱心党」のような過激な抵抗を指します。私たちは悪に対して悪で返すのではなく、地域奉仕や被災地支援といった「善」を行い続けることが求められます。
また、善行には為政者の誤りを指摘することも含まれます。これは容易ではありません。平和主義を貫いて弾圧されながらも、信仰によって勇気と忍耐を持ち、正しさを語り続けた矢内原忠雄のように、私たちも神への信仰に支えられて善を行い続けることが大切です。神から与えられる勇気と忍耐をもって、最高の権威である主に従い歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙13章3節
7月19日の説教「上に立つ権威」では、次のことを学びました。ローマ人への手紙13章が教える「権威」とは、政府関係者や為政者を指します。権威自体は神によって与えられたものであり、その目的は「悪を罰すること」と「税制等を通じて市民の福祉を向上させること」にあります。そうすると、神に感謝しつつ、為政者の存在を認めること、政治に参画すること、政界での仕事を検討すること、という3つの適用が考えられます。
今回はさらに2つの適用を考えます。第4の適用は「究極の忠誠心を神におくこと」です。私たちは罰を恐れるからではなく、「良心」ゆえに為政者に従います。ここでの良心とは個人の好みではなく、「為政者は神のしもべであり、市民の益のために立てられている」という内なる価値観です。納税も、単なる義務感からではなく、正義と福祉の実現に貢献するという前向きな姿勢で行いたいものです。
また、為政者は神のしもべとして市民の上に立ちますが、最高の権威ではありません。一番上におられるのは神さまです。もし為政者の指示が神のみこころと反する場合、クリスチャンは最高の権威である神に従わなければなりません。
第5の適用は「悪を行わず、善を行うこと」です。2節で禁じられている「反抗」とは、当時ローマへの憎しみからテロや暴力を振るった「熱心党」のような過激な抵抗を指します。私たちは悪に対して悪で返すのではなく、地域奉仕や被災地支援といった「善」を行い続けることが求められます。
また、善行には為政者の誤りを指摘することも含まれます。これは容易ではありません。平和主義を貫いて弾圧されながらも、信仰によって勇気と忍耐を持ち、正しさを語り続けた矢内原忠雄のように、私たちも神への信仰に支えられて善を行い続けることが大切です。神から与えられる勇気と忍耐をもって、最高の権威である主に従い歩んでいきましょう。 (ハレファ・スルヤ)
いつも主にあって喜びなさい ― 2026年08月30日
いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 4章4節
パウロは4節において、「喜びなさい」と繰り返し命じています。どうすれば「いつも主にあって喜ぶ」ことができるでしょうか。ピリピ人への手紙4章4~7節から3つのポイントで学びます。
1.いつも主にあって喜ぶ(4節)
喜びとは、状況や環境に依存するものではなく、クリスチャンとしての生き方、土台そのものを表すものです。喜びとは、「神の愛を経験した時の魂の超越であり、生き方を変革していくもの」とも言われます。神さまに愛されている喜び。罪が赦されている喜び。そして永遠のいのちの希望に生きる喜び。これらの喜びはその時々の状況で現れたり消えたりする一時的ものではありません。救われた者の心の中には、聖霊なる神さまが住んでくださり、いつも神さまの愛が注がれています。いつも主にあるこの喜びを覚え、この喜びに生きる者とさせていただきましょう。
2.寛容な心を知らせる(5節)
もし、クリスチャンが試練や苦しみに直面しながらも、いつも主にあって喜ぶならば、周囲の人々は私たちの「寛容さ」を知ることになります。この「寛容さ」という言葉は、他者に対する「穏やかで寛容な忍耐」とも表現できます。寛容な心に生きるものは、時にキリストのようにへりくだり、しもべの姿となります。しかし、5節後半に「主は近いのです。」と書かれているとおり、苦難の中にあるときこそ、信じる者の心の中に住んでくださるキリストをより身近に覚え、キリストの再臨を待ち望むことができるのです。
3.願い事を神に知っていただく(6~7節)
クリスチャンは、あらゆる場合に感謝と祈りをもって人生のすべてを神さまに委ねることができます。「感謝」とは、私たちは神さまに造られた存在であり、すべては神さまから賜物として与えられ、神さまは善良で寛大なお方であることを認めることです。ですから、感謝とは後から来るものではなく、先に表されるべきものです。私たちの祈りと願いの答えは、すべての理解を超える神の平安が与えられることです。その平安は、まるで守備隊のように私たちの心と思いを「思い煩い」に陥らないように守ってくれます。ですから祈りとは平安を心の内に頂く行為です。
私たちがキリストを中心に、キリストとの関係に生きるとき、これらの約束が人生に実現することを体験できるのです。
(笠川路人)
私たちの国籍は天に ― 2026年08月23日
しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章20節
パウロは「私たちの国籍は天にあります」と言いました。国籍とは「その人がどこに属する者かを表す法的な身分」です。それでは天に国籍を持つクリスチャンはどう生きるべきでしょうか。ピリピ人への手紙3章17~21節から3つのポイントで学ばせていただきます。
1.私に倣う者となってください(17節)
当時のギリシャ、ローマの教育は、「模倣する」(真似をする)ことに大きな価値がありました。ですから、パウロは彼の生き方や動機、人生の目標に倣うように励ましています。パウロの人生の究極の目標は、キリストを得ること、キリストの姿に変えられることでした。私たちがクリスチャンとして成長を願うなら、誰かをお手本とし、学び、そして実践する必要があります。私たちは誰に倣っているでしょうか。私たちの究極のお手本はイエスさまであり、パウロを始めとする使徒たちですが、私たちは共に倣いあう存在でもあります。教会には多くの倣うべき信仰の先輩方がおられます。キリストに倣い、パウロに倣い、教会の中の良い模範に倣う者として歩ませていただきましょう。
2.パウロの勧告の理由(18~19節)
パウロが私に倣いなさいと勧告した理由は、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいる事実があったからです。ここでパウロは十字架を敵とする人たちの特徴について教えています。「その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。」(19節)パウロのことばを通して、私たち自身も十字架の敵になるようなものを取り込んでいないか、人生の優先順位がそれらに影響を受けていないか確認する必要があります。
3.私たちの国籍は天にあります(20~21節)
天に国籍を持っている者は、この地上においては寄留者であり、この地上の文化がもたらす利益や地位よりも、天に生きる歩みとイエス・キリストの到来を待ち望む者です。それは世界に存在する様々な良きものを、神さまからの恵みとして楽しむことを否定するわけではありません。ここで問われているのは、天に国籍を持つ者として、人生において何を最も待ち望んでいるのかということです。それは、イエス・キリストの再臨です。その時、私たちの卑しいからだは、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられます(21節)。先に天に行かれた、愛する方々との再会があります。毎週の礼拝は、天におられる神さまを賛美しつつ、天にある国籍を確認し、味わわせていただくときです。新しい週も天に国籍を持つ者としての希望を持って、イエスさまとともに歩ませていただきましょう。 (笠川路人)
キリストにある者の損得 ― 2026年08月16日
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 3章7節
イエスさまに出会う以前のパウロは、自分の家柄やパリサイ派という宗教的立場を人生における得だと思ってきました。しかし、イエスさまが彼の人生に来てくださったとき、すべてがひっくり返りました。なぜキリストを知っていることに、他のすべてを損と思うような圧倒的な価値があるのでしょうか。
聖書における「知る」という言葉は、単に知識を得ることではなく、人格的な交わりの中で相手を知り、お互いの関係の中に生きることを意味します。イエスさまはパウロの全ての罪を赦し、愛とあわれみにあふれた個人的関係に導いてくださいました。キリストを知ることによって、自分の社会的地位や人気、富や成功によって左右されない価値を得ることができます。それゆえにパウロは8節で、かつて得と思っていて、自分が失ったものは「ちりあくた」(ゴミのようなもの)だと言いました。これは、彼がキリスト以外のものを自分のアイデンティティー(存在する意味)の拠り所とすることを放棄したという宣言です。もしキリスト以外のものを人生の意味や拠り所とするならば、それは「ちりあくた」をつかむようなものです。得ではなく損をしている。逆に、キリストを知ることのすばらしさを体験し、キリストを中心として生きるならば、信仰による義(正しいとされる)が与えられ、たとえすべてを失ったとしても、私たちの魂は、キリストによって守られ、キリストと共に永遠に生きるものされます。
さらにパウロは10節、11節でキリストの復活の力を知りたい、復活に達したいと告白しています。キリストのために苦しみや苦難があったとしても、永遠に生きる希望を持ち、復活のキリストを知り、味わうという希望について語ります。
ところで、パウロがキリストのゆえに失った「ちりあくた」はどうなったでしょうか。彼はキリストのゆえにすべてを失いましたが、キリストにあってすべてにおいて豊かな者とされました。ユダヤ人としての家系、パリサイ人としての経験、学んだことのすべてがキリストのために用いられました。それは彼が、キリストを得て、キリストにある者と神さまから認められたからです。
私たちもパウロに倣い、キリスト・イエスを知っていることのすばらしさを日々体験し、キリストにある者としての損得に生きる人生を歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
世の光として輝くために ― 2026年08月09日
いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。
ピリピ人への手紙 2章16節
私たちの人生には、受験や就職、結婚といった人生を左右する大切な出来事、「節目」があります。このような節目を越えたあとに本番が始まります。クリスチャンになるという経験は、人生の節目の中でも格別ですが、その後の本番はどのように生きるのでしょうか。ピリピ人への手紙2章12~16節から3つのポイントで学びます。
1.救いを達成するよう努める(12節)
クリスチャンにとって「救い」とは、過去ではなく現在進行形の出来事です。私たちは毎日救いを体験しています。救いを達成するとは、罪の刑罰からの救い(過去)を感謝して受け取り、イエスさまの再臨の時に罪や悪から完全に救われる(未来)ことに希望を持ちながら、現実の生活で、私たちの外と内から攻めてくる罪の力から、神さまが救ってくださる(現在)ことを願い、救いを体験するということです。パウロは「恐れおののいて」救いを達成するように言いましたが、私たちは罪に対する自らの無力さを自覚しながら、弱さの中に神さまに働いていただくことを信じます。救いの達成に努めるとは、神さまの助けを常に頂きながら、神さまの臨在と守りを味わい続けることです。
2.志を立てさせ、事を行わせてくださる(13~14節)
「働いて」、「行わせる」はエネルゲインという動詞が使われています。これはエネルギーの原語です。聖霊なる神さまは目には見えないけれど、私たちの心に力を持って働かれます。聖霊は私たちの志や心の願いに働きかけ、神のみこころを実現してくださいます。14節には「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」と勧められています。神さまがみこころによって、私たちに与えてくださった志や願いに対して、つぶやかずに従順さをもって実行することが大切です。
3.世の光として輝くために(15~16節)
16節の世の光とは、暗い世界の中で星のように輝くという意味を持ちます。私たちは世の光になりたいと願いつつも、自らの現実を見る時に失望することがあります。しかし、クリスチャンは、既に救いを頂いていて、いのちのことば(みことば)を持っています。私たちはイエスさまの光を映しながら、たとえ小さい光であっても世の光として、与えられた場所で輝き続けるのです。神さまは私たち一人ひとりが世の光として輝くことを願っておられます。その目的はイエスさまの福音を証しし、神さまのみこころを地上で行うことです。
この新しい週もみことばに励まされ、救いの達成に努めつつ、与えられた志や願いを実行し、世の光として歩んでいきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 2章16節
私たちの人生には、受験や就職、結婚といった人生を左右する大切な出来事、「節目」があります。このような節目を越えたあとに本番が始まります。クリスチャンになるという経験は、人生の節目の中でも格別ですが、その後の本番はどのように生きるのでしょうか。ピリピ人への手紙2章12~16節から3つのポイントで学びます。
1.救いを達成するよう努める(12節)
クリスチャンにとって「救い」とは、過去ではなく現在進行形の出来事です。私たちは毎日救いを体験しています。救いを達成するとは、罪の刑罰からの救い(過去)を感謝して受け取り、イエスさまの再臨の時に罪や悪から完全に救われる(未来)ことに希望を持ちながら、現実の生活で、私たちの外と内から攻めてくる罪の力から、神さまが救ってくださる(現在)ことを願い、救いを体験するということです。パウロは「恐れおののいて」救いを達成するように言いましたが、私たちは罪に対する自らの無力さを自覚しながら、弱さの中に神さまに働いていただくことを信じます。救いの達成に努めるとは、神さまの助けを常に頂きながら、神さまの臨在と守りを味わい続けることです。
2.志を立てさせ、事を行わせてくださる(13~14節)
「働いて」、「行わせる」はエネルゲインという動詞が使われています。これはエネルギーの原語です。聖霊なる神さまは目には見えないけれど、私たちの心に力を持って働かれます。聖霊は私たちの志や心の願いに働きかけ、神のみこころを実現してくださいます。14節には「すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」と勧められています。神さまがみこころによって、私たちに与えてくださった志や願いに対して、つぶやかずに従順さをもって実行することが大切です。
3.世の光として輝くために(15~16節)
16節の世の光とは、暗い世界の中で星のように輝くという意味を持ちます。私たちは世の光になりたいと願いつつも、自らの現実を見る時に失望することがあります。しかし、クリスチャンは、既に救いを頂いていて、いのちのことば(みことば)を持っています。私たちはイエスさまの光を映しながら、たとえ小さい光であっても世の光として、与えられた場所で輝き続けるのです。神さまは私たち一人ひとりが世の光として輝くことを願っておられます。その目的はイエスさまの福音を証しし、神さまのみこころを地上で行うことです。
この新しい週もみことばに励まされ、救いの達成に努めつつ、与えられた志や願いを実行し、世の光として歩んでいきましょう。
(笠川路人)
生きることはキリスト ― 2026年08月02日
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
ピリピ人への手紙 1章21節
ローマの獄中にあったパウロは、エパフロデトと共に献金を送ってくれたピリピの教会に手紙を書きました。パウロの感謝と喜びにあふれたピリピ人への手紙は、喜びの手紙とも呼ばれ、その中でパウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(1章21節)と告白します。「生きることはキリスト」とは何を意味するのか、そしてパウロはなぜ、「死ぬことは益です」と言い切るのか、21節のみことばを学びます。
1 生きることはキリスト
パウロの生涯はただ一点に集中していました。それはイエス・キリストというお方です。キリストを信じる者は、キリストが私のうちに生き(ガラテヤ人への手紙2章20節)、キリストと共に生き、キリストのために生きます。キリストが人生の中心にあります。しかし、私たちの課題は、キリストでないものが人生の中心に来てしまうことです。私たちは生きるために一生懸命に何かを行い、心の願望を何かで埋めようとします。いつの間にか私の人生とキリストの間に様々なものが入り込み、キリストが見えなくなることがあります。「生きることはキリスト」とは、キリストとの関係を優先順位第一位にすることです。目に見える結果や人の評価ではなく、私たちの心がイエスさまと一つにされているか、近くにあるかどうかが大切です。そのような人生はキリストの豊かさを体験する歩みとなります。イエス・キリストを信じる者には聖霊なる神さまが心の中に住んでくださり、愛と喜びと平安で心を満たしてくださり、御霊の実が私たちの人生に豊かに結ばれていくのです。
2 死ぬことは益です
「死ぬことは益です」と聞くと、なぜ益なのかと思う人が多いでしょう。ここでパウロは救われた者が持っている究極の価値観を告白しています。パウロは、死ぬこととは、自らが生涯追い求め続けてきた方を得る瞬間だと理解していました。死を越えた先には(イエスさまとお会いする)確実な約束があり、しかもそれは自分が心から望んでいるものだということです。しかし一方で、パウロは自分自身が生きる理由についての確信を24~26節で記しています。パウロが生きることは、ピリピのクリスチャンのために必要であり、再び教会に訪問して、彼らの信仰を励ますことができると。パウロのこの姿勢は、まさにクリスチャンである私たちが目標とすべき歩みです。生きることはキリスト(のように生きる)ことであり、死ぬことに対しても、キリストにある希望を持つ人生です。
この新しい週も、「生きることはキリスト、死ぬことは益です」と告白したパウロの信仰を覚えながら、希望を持って歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
ピリピ人への手紙 1章21節
ローマの獄中にあったパウロは、エパフロデトと共に献金を送ってくれたピリピの教会に手紙を書きました。パウロの感謝と喜びにあふれたピリピ人への手紙は、喜びの手紙とも呼ばれ、その中でパウロは「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(1章21節)と告白します。「生きることはキリスト」とは何を意味するのか、そしてパウロはなぜ、「死ぬことは益です」と言い切るのか、21節のみことばを学びます。
1 生きることはキリスト
パウロの生涯はただ一点に集中していました。それはイエス・キリストというお方です。キリストを信じる者は、キリストが私のうちに生き(ガラテヤ人への手紙2章20節)、キリストと共に生き、キリストのために生きます。キリストが人生の中心にあります。しかし、私たちの課題は、キリストでないものが人生の中心に来てしまうことです。私たちは生きるために一生懸命に何かを行い、心の願望を何かで埋めようとします。いつの間にか私の人生とキリストの間に様々なものが入り込み、キリストが見えなくなることがあります。「生きることはキリスト」とは、キリストとの関係を優先順位第一位にすることです。目に見える結果や人の評価ではなく、私たちの心がイエスさまと一つにされているか、近くにあるかどうかが大切です。そのような人生はキリストの豊かさを体験する歩みとなります。イエス・キリストを信じる者には聖霊なる神さまが心の中に住んでくださり、愛と喜びと平安で心を満たしてくださり、御霊の実が私たちの人生に豊かに結ばれていくのです。
2 死ぬことは益です
「死ぬことは益です」と聞くと、なぜ益なのかと思う人が多いでしょう。ここでパウロは救われた者が持っている究極の価値観を告白しています。パウロは、死ぬこととは、自らが生涯追い求め続けてきた方を得る瞬間だと理解していました。死を越えた先には(イエスさまとお会いする)確実な約束があり、しかもそれは自分が心から望んでいるものだということです。しかし一方で、パウロは自分自身が生きる理由についての確信を24~26節で記しています。パウロが生きることは、ピリピのクリスチャンのために必要であり、再び教会に訪問して、彼らの信仰を励ますことができると。パウロのこの姿勢は、まさにクリスチャンである私たちが目標とすべき歩みです。生きることはキリスト(のように生きる)ことであり、死ぬことに対しても、キリストにある希望を持つ人生です。
この新しい週も、「生きることはキリスト、死ぬことは益です」と告白したパウロの信仰を覚えながら、希望を持って歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
上に立つ権威 ― 2026年07月26日
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。
ローマ人への手紙 13章1節
上に立つ権威とは、今日で言えば行政・立法・司法を含む広い意味での政府関係者を指します。3〜7節の文脈から、支配者、剣を帯びる者、徴税者として言い換えられています(テトスへの手紙3章:1節、ペテロへの手紙第一2章13~14節参照)。
政府関係者の権威に従うべき理由は、その権威が神によって立てられているからです(箴言8章:15節、ヨハネの福音書19章:11節参照)。ここで重要なことは、従う相手は政府関係者「個人」ではなく、その人に与えられた「権威」だという区別です。個人的な悪用・乱用には従う必要はなく、むしろ抵抗すべきです(使徒の働き5章29節、ダニエル書3章、6章)。 包丁は料理にも殺人にも使えるように、権威自体は悪ではなく、悪用する人間が問題なのです。よって、権威の目的を理解し、正しく関わることが重要です。この区別と神さまの目的を理解すると、ローマ人への手紙13章は受け入れやすくなり、感謝の気持ちを持つまでになります。
ローマ人への手紙13章からは神さまが政府の権威を立てた2つの目的を読み取ることができます。第一に、悪を行う者を公正に罰することです(4節)。個人的な復讐だと、結局、悪に悪を返すという悪循環になってしまうので、公正な第三者としての裁きが必要です。政府が武力を持ち、使えるのはそのためです。 第二に、税制を運用することを通して、国民の生活を向上させることです(6節)。いずれの目的も政府関係者個人の益ではなく、国民が正義、安全、福祉を享受するためにあります。
最後に、適用として2つのことを考えてみましょう。第一に、神さまに感謝しつつ政府の存在を認めることです。政府関係者が神さまから与えられた権威を理解し、職務を忠実に果たせるように祈り、選挙の時に、国民の益のために働く政治家を選ぶことも大切です。第二に、政治の分野に積極的に関わることです。立てられた目的を実現できるよう、正当な政府関係者に協力し、従います。その目的を見失った政府関係者には愛と知恵をもって声を上げます。また、4節・6節で政府関係者が「神のしもべ」「神の公僕」と呼ばれているように、政治分野は尊い働きなので、正義を実現し、安全と福祉を向上させる賜物が与えられたら、政治の分野で活躍することを真剣に祈り検討しましょう。 (ハレファ・スルヤ)
ローマ人への手紙 13章1節
上に立つ権威とは、今日で言えば行政・立法・司法を含む広い意味での政府関係者を指します。3〜7節の文脈から、支配者、剣を帯びる者、徴税者として言い換えられています(テトスへの手紙3章:1節、ペテロへの手紙第一2章13~14節参照)。
政府関係者の権威に従うべき理由は、その権威が神によって立てられているからです(箴言8章:15節、ヨハネの福音書19章:11節参照)。ここで重要なことは、従う相手は政府関係者「個人」ではなく、その人に与えられた「権威」だという区別です。個人的な悪用・乱用には従う必要はなく、むしろ抵抗すべきです(使徒の働き5章29節、ダニエル書3章、6章)。 包丁は料理にも殺人にも使えるように、権威自体は悪ではなく、悪用する人間が問題なのです。よって、権威の目的を理解し、正しく関わることが重要です。この区別と神さまの目的を理解すると、ローマ人への手紙13章は受け入れやすくなり、感謝の気持ちを持つまでになります。
ローマ人への手紙13章からは神さまが政府の権威を立てた2つの目的を読み取ることができます。第一に、悪を行う者を公正に罰することです(4節)。個人的な復讐だと、結局、悪に悪を返すという悪循環になってしまうので、公正な第三者としての裁きが必要です。政府が武力を持ち、使えるのはそのためです。 第二に、税制を運用することを通して、国民の生活を向上させることです(6節)。いずれの目的も政府関係者個人の益ではなく、国民が正義、安全、福祉を享受するためにあります。
最後に、適用として2つのことを考えてみましょう。第一に、神さまに感謝しつつ政府の存在を認めることです。政府関係者が神さまから与えられた権威を理解し、職務を忠実に果たせるように祈り、選挙の時に、国民の益のために働く政治家を選ぶことも大切です。第二に、政治の分野に積極的に関わることです。立てられた目的を実現できるよう、正当な政府関係者に協力し、従います。その目的を見失った政府関係者には愛と知恵をもって声を上げます。また、4節・6節で政府関係者が「神のしもべ」「神の公僕」と呼ばれているように、政治分野は尊い働きなので、正義を実現し、安全と福祉を向上させる賜物が与えられたら、政治の分野で活躍することを真剣に祈り検討しましょう。 (ハレファ・スルヤ)
キリストのうちにあるなら ― 2026年07月19日
ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
コリント人への手紙第二 5章17節
現代は、いつも古いものが過ぎ去り、新しいものに入れ替わる時代と言えるでしょう。技術は社会や生活を変えていきますが、神さまは私たちの心を変えてくださるお方です。使徒パウロはコリント人への手紙第二5章において、私たちの心、内側が新しく造られ、古いものが過ぎ去ることについて教えています。
1.キリストのうちにあるなら(17節)
この「うちにある」という言葉は、「中にいる」とか「一体になる」という意味を持ちます。私たちは、知り合いの家に訪問して長い時間を一緒に過ごすと、その人のことばや考え方が記憶に残ることがあります。「キリストのうちにある」とは、イエス・キリストを信じて、その教えとことばに従って生きていくことです。「新しく造られた者です」という表現は、「新しい創造があります」とも訳すことができます。罪に支配されていた過去の自分は過ぎ去り、神の子としての新しい人生、永遠のいのちの希望に生きる者とされます。さらに、物事の見方や考え方も新しく変えられます。時に過去の古い自分が出てくることもあり、過ぎ去っていないと感じる時もあるでしょう。しかし、神さまの視点からみると、私たちはすでに、古いものが過ぎ去り、新しい創造、新しいいのちの中に生きる存在です。何よりも神さまは「もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ書43章25節) と宣言してくださるお方です。
2 和解の務めに生きる
イエスさまを信じ、受け入れる時に、私たちは神さまとの関係が回復されます。罪とは的外れとも言いますが、本当の神さまが分からず、神さまとの関係が損なわれた状態です。しかし、イエスさまの十字架の贖いと罪の赦しは、私たちと和解をするために、神さまが先に手を差し伸べてくださった行為です。この神さまとの和解を体験した者が、本当の意味で、人間関係においても和解を進めることができます。罪を赦された者だから、他人の罪を赦すことができるのです。それは自分の力ではなく、聖霊なる神さまの助けと力に委ねて実現します。もし、私たちが先に赦すことができるなら、和解のための環境が整えられていきます。
今週もキリストのうちにあり、新しく造られた者として、神さまが与えてくださる和解の務めに歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
コリント人への手紙第二 5章17節
現代は、いつも古いものが過ぎ去り、新しいものに入れ替わる時代と言えるでしょう。技術は社会や生活を変えていきますが、神さまは私たちの心を変えてくださるお方です。使徒パウロはコリント人への手紙第二5章において、私たちの心、内側が新しく造られ、古いものが過ぎ去ることについて教えています。
1.キリストのうちにあるなら(17節)
この「うちにある」という言葉は、「中にいる」とか「一体になる」という意味を持ちます。私たちは、知り合いの家に訪問して長い時間を一緒に過ごすと、その人のことばや考え方が記憶に残ることがあります。「キリストのうちにある」とは、イエス・キリストを信じて、その教えとことばに従って生きていくことです。「新しく造られた者です」という表現は、「新しい創造があります」とも訳すことができます。罪に支配されていた過去の自分は過ぎ去り、神の子としての新しい人生、永遠のいのちの希望に生きる者とされます。さらに、物事の見方や考え方も新しく変えられます。時に過去の古い自分が出てくることもあり、過ぎ去っていないと感じる時もあるでしょう。しかし、神さまの視点からみると、私たちはすでに、古いものが過ぎ去り、新しい創造、新しいいのちの中に生きる存在です。何よりも神さまは「もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ書43章25節) と宣言してくださるお方です。
2 和解の務めに生きる
イエスさまを信じ、受け入れる時に、私たちは神さまとの関係が回復されます。罪とは的外れとも言いますが、本当の神さまが分からず、神さまとの関係が損なわれた状態です。しかし、イエスさまの十字架の贖いと罪の赦しは、私たちと和解をするために、神さまが先に手を差し伸べてくださった行為です。この神さまとの和解を体験した者が、本当の意味で、人間関係においても和解を進めることができます。罪を赦された者だから、他人の罪を赦すことができるのです。それは自分の力ではなく、聖霊なる神さまの助けと力に委ねて実現します。もし、私たちが先に赦すことができるなら、和解のための環境が整えられていきます。
今週もキリストのうちにあり、新しく造られた者として、神さまが与えてくださる和解の務めに歩ませていただきましょう。
(笠川路人)
いのちの泉が湧く心 ― 2026年07月12日
何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれから湧く。 箴言4章23節
箴言は「知恵のことば」という意味を持ち、私たちがどう生きたら良いのかについて、知恵の宝が数多く書かれています。箴言4章23節のみことばから、どうしたら「いのちの泉」が私たちの心から湧くのかを2つのポイントで学びます。
1.あなたの心を見守る
23節の前半では、あなたの心を見守りなさいと命じられています。見守るとは、保護する、気を配る、お世話をするという意味です。心とは私たちの思考と感情と意志の三つの働きの源となるものです。ですから、私たちは自分の心を最優先で見守り、気を配る必要があります。しかし、この社会では「心」よりも、しばしば結果や成果が優先され、心が置き去りにされることがあります。その結果、心の中に不安やストレスが溜まると、怒りや失望が生まれ、現実逃避や自己卑下といった間違った行動をしてしまうことがあります。しかし、神さまに助けを求めるならば、神さまは私たちの心に語りかけ、癒し、愛と平安で満たしてくださいます。信仰とは私たちの心の中のすべてを知っておられ、最善へと導かれる神さまに心を委ねていくことです。
2.いのちの泉が湧く心
23節の後半の「いのちの泉はこれから湧く」とは、心が人生におけるすべての行動の源となるという意味です。イエスさまは心といのちの泉の関係について教えています。サマリアの町で出会った女性に、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)と教えられました。イエスさまを信じた彼女は心が変えられ、彼女の証言によって多くの人がイエスさまを信じました。さらにイエスさまは言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書7章38節)
イエスさまを信じる者は、すべての罪が赦され、神さまとの関係を回復し、聖霊なる神さまが心の中に住まれます。どんな時も聖霊が心に愛を注ぎ続けてくださり、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。
イエスさまはあなたの心に生ける水の川が流れ出て欲しいと願っておられます。私たちの心にいのちの泉が湧くことを願い、愛する家族、身近な一人ひとりを潤し、励まし、いのちを与える者とさせていただきましょう。 (笠川路人)
いのちの泉はこれから湧く。 箴言4章23節
箴言は「知恵のことば」という意味を持ち、私たちがどう生きたら良いのかについて、知恵の宝が数多く書かれています。箴言4章23節のみことばから、どうしたら「いのちの泉」が私たちの心から湧くのかを2つのポイントで学びます。
1.あなたの心を見守る
23節の前半では、あなたの心を見守りなさいと命じられています。見守るとは、保護する、気を配る、お世話をするという意味です。心とは私たちの思考と感情と意志の三つの働きの源となるものです。ですから、私たちは自分の心を最優先で見守り、気を配る必要があります。しかし、この社会では「心」よりも、しばしば結果や成果が優先され、心が置き去りにされることがあります。その結果、心の中に不安やストレスが溜まると、怒りや失望が生まれ、現実逃避や自己卑下といった間違った行動をしてしまうことがあります。しかし、神さまに助けを求めるならば、神さまは私たちの心に語りかけ、癒し、愛と平安で満たしてくださいます。信仰とは私たちの心の中のすべてを知っておられ、最善へと導かれる神さまに心を委ねていくことです。
2.いのちの泉が湧く心
23節の後半の「いのちの泉はこれから湧く」とは、心が人生におけるすべての行動の源となるという意味です。イエスさまは心といのちの泉の関係について教えています。サマリアの町で出会った女性に、「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネの福音書4章14節)と教えられました。イエスさまを信じた彼女は心が変えられ、彼女の証言によって多くの人がイエスさまを信じました。さらにイエスさまは言われました。「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネの福音書7章38節)
イエスさまを信じる者は、すべての罪が赦され、神さまとの関係を回復し、聖霊なる神さまが心の中に住まれます。どんな時も聖霊が心に愛を注ぎ続けてくださり、私たちの心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになるのです。
イエスさまはあなたの心に生ける水の川が流れ出て欲しいと願っておられます。私たちの心にいのちの泉が湧くことを願い、愛する家族、身近な一人ひとりを潤し、励まし、いのちを与える者とさせていただきましょう。 (笠川路人)
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