20160306 徐々に御業を進められる神さま2016年03月06日

あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。       出エジプト記23章30節

出エジプト記22章の後半には、弱い立場の人々を守る戒めが書かれていましたが、23章前半では次のような戒めが書かれています。出エジプト記23章3節「また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない」、23章6節「あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない」。このバランス感覚には、本当に敬服しますが、これが神さまに似せて造られた人間の内に創造の時から備えられているバランス感覚なのでしょう。
さて23章後半は、神さまが、どのように荒野の旅を導かれるかについて書かれています。出エジプト記23章20節「見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう」、22節b「わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう」、27節「わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこに入って行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう」、30節「あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう」。
神さまは、先に使いを遣わし、私たちと同じ思いになって下さり、相手に恐怖心と混乱を与え、そして30節、とても興味深い内容ですが、神さまはイスラエルのために一気に敵を追い払うのではなく、イスラエル人の増え広がりにあわせて、徐々に追い払うとあります。私たちの状況を見ながら、徐々に私たちを約束の地へと導いてくださる神さまの姿が現されています。
今を生きている私たち、生かされている私たちに対しても、神さまは、私たちの状況をご覧になり、その状況に合わせて徐々に徐々に御業を進めて下さいます。今週も、徐々に導いてくださる神さまに期待しつつ、それぞれの道を歩ませていただきましょう。              (吉持日輪生牧師)

20160313 東日本大震災から5年、そして思うこと2016年03月13日

わが子よ。私のおしえを忘れるな。私の命令を心に留めよ。 箴言3章1節

東日本大震災から5年となった3月11日を覚え、今回は出エジプト記から離れてメッセージを書きました。
東日本大震災を引き起こした東北地方太平洋沖地震の時、つまり5年前の2011年3月11日午後2時46分頃、私たち夫婦は、教会にいつも来られている姉妹の家を訪問していました。なかなかおさまらない揺れに不安を覚えたことを思い出します。
あれから5年、被災地の復興もそれなりに進み、震災直後の悲惨な風景は、穏やかな風景に変わりつつあります。また5年前に私たちが訪問した姉妹は、現在は隣町の教会に行かれるようになり、私たちは埼玉から大阪に移りました。茨木聖書教会を見ても、この5年で主任牧師も、伝道師も替わりました。5年という歳月が、様々なものに変化をもたらすことを思い返しつつ、しかし同時になかなか変わらない人の営み、例えば政治体制、生活スタイル、生活習慣に直面した5年間でもありました。
そのような5年を振り返りつつ思うことは「ラインホールド・ニーバーの祈り」です。「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」
「変える勇気」「変えないで受け入れる冷静さ」「変える、変えないを識別する知恵」を神さまに祈り求めつつ、1995年1月17日の阪神淡路大震災、2011年3月11日の東日本大震災を忘れないようにしましょう。そして、憲法改正を公言し始めた政権に対しても、この祈りを献げつつ、神さまの教えを忘れず、神さまからの命令を心に留め、対応していきましょう。
    (吉持日輪生牧師)

「ひとり」神さまと向き合う 201603202016年03月20日

モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。          出エジプト記24章2節

今週は、キリスト教の暦では「受難週」となります。イエスさまの十字架を深く覚える1週間です。イエスさまの十字架への道を辿ると、そこに見えてくる一つの姿は「ひとりで神さまの前に出る道」です。
受難週の1週間は、まずマタイの福音書21章に記されているろばの子の背に乗りエルサレムに入場するところから始まります。その時の様子を聖書はこのように記しています。「そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた」(マタイ21章7~8節)。ここに記されている通り十字架への道は、群衆の大ぜいの者と共に始まりました。そして木曜日、最後の晩餐のところでは、次のように記されています。「そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた」(マタイ26章19~20節)。ここではイエスさまは十二弟子と共におられます。そしてゲツセマネの祈りの場面では、「それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。『わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。』それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた」(マタイ26章36~37節)。ここではイエスさまの近くにいたのは「ペテロとゼベダイの子ふたり(ヤコブとヨハネ)」の3人だけでした。そしていよいよイエスさまが捕らえられた時「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった」(マタイ26章56節b)。このようにイエスさまの十字架は、「ひとり神さまの前に出る道」でした。
そしてモーセも、この出エジプト記24章で、ひとり神さまと向き合っています。受難週、私たちも「ひとり神さまと向き合う」時として過ごしてみましょう。
                          (吉持日輪生牧師)

20160327 注意深くキリスト者として歩もう!2016年03月27日

燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。                     出エジプト記25章34節
よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。
                      出エジプト記25章40節

出エジプト記25章は、最初に「奉納物」のことが記され、その後「幕屋」で使用する用具について記されています。その最後に扱われているのが上記「燭台」についてです。その「燭台」は、右記のような燭台で、アーモンドの枝に似せて造るように書かれています。
なぜアーモンドなのか諸説ありますが、アーモンドの花がまだ寒い冬の内から開花することから「注意深くあること」「見張ること」の象徴となっていたゆえに燭台に使われたと言われたりします。つまり回りを照らす燭台こそ、アーモンドの枝に似せて造られるのにふさわしいということでしょう。燭台の灯りで回りを照らし「注意深くあるように」「見張るように」ということです。このつながりをもう一つ裏付ける要素が、上記聖書箇所の2つ目です。アーモンドの枝に似せて造る燭台のことを記した後に、「よく注意して」ということばで締めくくっています。「アーモンド=注意深くあること、見張ること」といったイメージをかもし出しています。
さてアーモンドの樹は、日本ではなじみがありませんが、実はアーモンドの花は、とても桜の花に似ています。この季節、私たちもアーモンドの花に似た桜の花を見ながら、神さまが「注意深くあるように」「見張るように」と語りかけておられることを思い出し、自らの信仰のあり方を、また心の中をしっかり点検し、そして新しい年度に備えましょう。           (吉持日輪生牧師)