20140629 生きるものとなるために ― 2014年06月29日
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 創世記2章7節
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 伝道者の書12章7節
私たちは、人が亡くなられた時のことを「息を引き取られました」と言います。古(いにしえ)の日本人は、人が亡くなる時「息を引き取られる」方がいることをなんとなく感じていたのでしょう。
またイエスさまは、旧約聖書のことばを引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られています。「息」を「ことば」と、より具体的に言い表しています。
これらの箇所から、人は、食べ物があり、必要な物があり、それらが充分に満たされていれば生きものとなれるのではないことがわかります。実際にお金があり、健康であっても生きることを辛く思っている方々もおられますし、お金がなくても、また健康でなくても、いきいきと生きている方々もおられます。まさにその違いは神さまのことばの有無です。今は、旧約聖書アモス書8章11節にある通り「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」と言える時代なのでしょう。
ですから私たちは、主(神さま)のことばを聞くことのできない、まさに主のことばのききんの中に置かれている方々に聖書のことばを伝えていく必要があります。けれども、ただ伝えれば良いのではありません。私たちのまわりのひとりひとりが、みことばを通していきいきとされていくことを願い、愛を持って、時宜にかなった神さまのことばを届けていきたいものです。丁寧に宣べ伝えていきましょう。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。 伝道者の書12章7節
私たちは、人が亡くなられた時のことを「息を引き取られました」と言います。古(いにしえ)の日本人は、人が亡くなる時「息を引き取られる」方がいることをなんとなく感じていたのでしょう。
またイエスさまは、旧約聖書のことばを引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と語られています。「息」を「ことば」と、より具体的に言い表しています。
これらの箇所から、人は、食べ物があり、必要な物があり、それらが充分に満たされていれば生きものとなれるのではないことがわかります。実際にお金があり、健康であっても生きることを辛く思っている方々もおられますし、お金がなくても、また健康でなくても、いきいきと生きている方々もおられます。まさにその違いは神さまのことばの有無です。今は、旧約聖書アモス書8章11節にある通り「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」と言える時代なのでしょう。
ですから私たちは、主(神さま)のことばを聞くことのできない、まさに主のことばのききんの中に置かれている方々に聖書のことばを伝えていく必要があります。けれども、ただ伝えれば良いのではありません。私たちのまわりのひとりひとりが、みことばを通していきいきとされていくことを願い、愛を持って、時宜にかなった神さまのことばを届けていきたいものです。丁寧に宣べ伝えていきましょう。
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