神さまと誠実に向き合うヨブへの恵み ― 2025年03月23日
どうか、私を保証してくれる人をあなたのそばに置いてください。ほかにだれか誓ってくれる人がいるでしょうか。
ヨブ記17章3節
冒頭引用個所でヨブは、「私(ヨブ)を保証してくれる人」の存在を求めています。このようなヨブの思いは、これまでにも記されていました。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
ヨブ記9章33節
今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。(中略)その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。
ヨブ記16章19~21節(抜粋)
このようにヨブは、ヨブ記9章以降で「仲裁者」「保証人」「保証してくれる人」求めています。その思いはヨブ記16章では、「天には私の証人がおられます。私の保証人が、高いところに」とあるようにヨブは、天に、高い所におられる「保証人」の存在を信じています。このようにヨブがイメージしている「保証人」の姿とその役割はイエスさまととても重なります。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ人への手紙8章34節
「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださる」このイエスさまの姿が、しっかりとヨブの中にもイメージされています。このような「保証人」の姿をイメージできているのは、ヨブの力、ヨブの知恵深さではなく、ただただ聖霊なる神さまのあわれみによることです。
苦しみの中、神さまにしっかりと向き合い生きているヨブに、神さまも真実にかかわってくださり「保証人」の姿をイメージできるように助けてくださったのでしょう。苦しい時こそ、しっかり神さまと向き合い歩みましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記17章3節
冒頭引用個所でヨブは、「私(ヨブ)を保証してくれる人」の存在を求めています。このようなヨブの思いは、これまでにも記されていました。
私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。
ヨブ記9章33節
今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。(中略)その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように。
ヨブ記16章19~21節(抜粋)
このようにヨブは、ヨブ記9章以降で「仲裁者」「保証人」「保証してくれる人」求めています。その思いはヨブ記16章では、「天には私の証人がおられます。私の保証人が、高いところに」とあるようにヨブは、天に、高い所におられる「保証人」の存在を信じています。このようにヨブがイメージしている「保証人」の姿とその役割はイエスさまととても重なります。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ人への手紙8章34節
「キリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださる」このイエスさまの姿が、しっかりとヨブの中にもイメージされています。このような「保証人」の姿をイメージできているのは、ヨブの力、ヨブの知恵深さではなく、ただただ聖霊なる神さまのあわれみによることです。
苦しみの中、神さまにしっかりと向き合い生きているヨブに、神さまも真実にかかわってくださり「保証人」の姿をイメージできるように助けてくださったのでしょう。苦しい時こそ、しっかり神さまと向き合い歩みましょう。 (吉持日輪生)
平和を求める ― 2025年03月23日
いつになったら、あなたがたはその話にけりをつけるのか。まず理解せよ。それから語り合おうではないか。
ヨブ記18章2節
ヨブ記18章は、ヨブの友人シュアハ人ビルダデが話し始めます。ビルダデの最初の発言はヨブ記8章に記されています。ヨブ記8章の冒頭はこのように始まります。
いつまで、あなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風だ。
ヨブ記8章2節
ビルダデの主張が似通っていることを感じます。ヨブ記8章では「いつまで」と語り、ヨブ記18章では「いつになったら」と、「時間」の流れについて触れています。その視点でビルダデが発言している章を読み比べると、もう一つ興味深い特徴を見つけることができます。ヨブ記8章の節の数は22、ヨブ記18章は21、そして3回目のビルダデの発言が記されているヨブ記25章は、たった6節だけです。つまりビルダデは、「いつまで」「いつになったら」と時の流れを気にしていますし、その発言も短いことから、「せっかち」「短気」な性格だったのかもしれません。
さらにもう一つビルダデの「せっかちさ」「短気さ」を感じさせられるのは、語り掛けている対象の広がりです。ヨブ記8章では「あなたは」とヨブひとりに語り掛けているのに対して、ヨブ記18章では「あなたがたは」とヨブとヨブの周りの人たちに語り掛けています。ヨブだけでなく、ヨブの友人テマン人エリファズも、ナアマ人ツォファルも、パッとしないことにビルダデがイライラしているようにも感じます。そしてそのような視点でビルダデの3回目の発言が記されているヨブ記25章冒頭を読むと、なるほどと思わされます。
主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。
ヨブ記25章2節
「せっかち」で「短気」なビルダデは、イライラしてしまう自分のことも含めて最終的に「神さまからの平和」を求めています。私たちも、ビルダデほど「せっかち」「短気」ではないにしても、日々の歩みの中でイライラする時もあることでしょう。その時はビルダデのように「神さまからの平和」を求めるようにしましょう。
(吉持日輪生)
ヨブ記18章2節
ヨブ記18章は、ヨブの友人シュアハ人ビルダデが話し始めます。ビルダデの最初の発言はヨブ記8章に記されています。ヨブ記8章の冒頭はこのように始まります。
いつまで、あなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風だ。
ヨブ記8章2節
ビルダデの主張が似通っていることを感じます。ヨブ記8章では「いつまで」と語り、ヨブ記18章では「いつになったら」と、「時間」の流れについて触れています。その視点でビルダデが発言している章を読み比べると、もう一つ興味深い特徴を見つけることができます。ヨブ記8章の節の数は22、ヨブ記18章は21、そして3回目のビルダデの発言が記されているヨブ記25章は、たった6節だけです。つまりビルダデは、「いつまで」「いつになったら」と時の流れを気にしていますし、その発言も短いことから、「せっかち」「短気」な性格だったのかもしれません。
さらにもう一つビルダデの「せっかちさ」「短気さ」を感じさせられるのは、語り掛けている対象の広がりです。ヨブ記8章では「あなたは」とヨブひとりに語り掛けているのに対して、ヨブ記18章では「あなたがたは」とヨブとヨブの周りの人たちに語り掛けています。ヨブだけでなく、ヨブの友人テマン人エリファズも、ナアマ人ツォファルも、パッとしないことにビルダデがイライラしているようにも感じます。そしてそのような視点でビルダデの3回目の発言が記されているヨブ記25章冒頭を読むと、なるほどと思わされます。
主権と恐れは神のもの。神はその高い所で平和をつくられる。
ヨブ記25章2節
「せっかち」で「短気」なビルダデは、イライラしてしまう自分のことも含めて最終的に「神さまからの平和」を求めています。私たちも、ビルダデほど「せっかち」「短気」ではないにしても、日々の歩みの中でイライラする時もあることでしょう。その時はビルダデのように「神さまからの平和」を求めるようにしましょう。
(吉持日輪生)
最近のコメント