「残りの者」としての使命 ― 2022年12月11日
ユダの家の中の逃れの者、残された者は 下に根を張り、上に実を結ぶ。エルサレムから残りの者が、シオンの山から、逃れの者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 列王記第二 19章30~31節
上記聖書箇所には、似たような表現が度々登場します。「逃れの者」「残された者」「残りの者」「逃れの者」。そしてこれらの表現は、旧約聖書に度々記されています。「逃れの者」は旧約聖書に14回、「残された者」は旧約聖書に5回と新約聖書に1回、「残りの者」は旧約聖書に63回と新約聖書に9回です。
新聖書辞典を調べると「残りの者」は、「神のさばきに耐えて残り、国民の霊的な核として、新しい神の民を形成するもととなる」と説明されています。神さまは、さばかれるお方ですが、同時に愛しておられるからこそ、「逃れの者」「残された者」「残りの者」を必ず用意していてくださるのです。
現在のイスラエル国も、第二次世界大戦中のナチスによる迫害によって離散し、多くのユダヤ人が強制収容所に入れられましたが、神さまは、その時も「残りの者」を用意しておられたからこそ、1948年5月14日の独立宣言に至っています。また日本のキリスト教も激しい迫害の中、多くの人が背教しましたが、神さまはこの日本にも「残りの者」を用意してくださいました。「隠れキリシタン」も神さまが備えてくださった「残りの者」と言って良いでしょう。
また現在日本にいる1%に満たないクリスチャンも、この時代に神さまが用意してくださっている日本の「残りの者」「残された者」と言えます。ですから私たちも、新聖書辞典にあるように「国民の霊的な核として、新しい神の民を形成するもと」となれるのです。冒頭で引用した聖書箇所の最後に「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とある通り、神さまは日本宣教を熱心に前進させるために、あなたを、そしてわたしを用意してくださっているのです。ですからそのことを覚えつつ、今年のアドベントを通して「私たちの救い主イエスさま」のことを、宣べ伝える者として歩ませていただきましょう。
(吉持日輪生)
上記聖書箇所には、似たような表現が度々登場します。「逃れの者」「残された者」「残りの者」「逃れの者」。そしてこれらの表現は、旧約聖書に度々記されています。「逃れの者」は旧約聖書に14回、「残された者」は旧約聖書に5回と新約聖書に1回、「残りの者」は旧約聖書に63回と新約聖書に9回です。
新聖書辞典を調べると「残りの者」は、「神のさばきに耐えて残り、国民の霊的な核として、新しい神の民を形成するもととなる」と説明されています。神さまは、さばかれるお方ですが、同時に愛しておられるからこそ、「逃れの者」「残された者」「残りの者」を必ず用意していてくださるのです。
現在のイスラエル国も、第二次世界大戦中のナチスによる迫害によって離散し、多くのユダヤ人が強制収容所に入れられましたが、神さまは、その時も「残りの者」を用意しておられたからこそ、1948年5月14日の独立宣言に至っています。また日本のキリスト教も激しい迫害の中、多くの人が背教しましたが、神さまはこの日本にも「残りの者」を用意してくださいました。「隠れキリシタン」も神さまが備えてくださった「残りの者」と言って良いでしょう。
また現在日本にいる1%に満たないクリスチャンも、この時代に神さまが用意してくださっている日本の「残りの者」「残された者」と言えます。ですから私たちも、新聖書辞典にあるように「国民の霊的な核として、新しい神の民を形成するもと」となれるのです。冒頭で引用した聖書箇所の最後に「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」とある通り、神さまは日本宣教を熱心に前進させるために、あなたを、そしてわたしを用意してくださっているのです。ですからそのことを覚えつつ、今年のアドベントを通して「私たちの救い主イエスさま」のことを、宣べ伝える者として歩ませていただきましょう。
(吉持日輪生)
最後まで「真実と全き心をもって」 ― 2022年12月11日
「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主はこう言われます。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ、わたしはあなたを癒やす。あなたは三日目に主の宮に上る。わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加える。わたしはアッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出し、わたしのために、わたしのしもべダビデのためにこの都を守る。』」
列王記第二 20章5~6節
上記聖書箇所から、聖書の神さまが「祈りを聞いてくださる」お方であり、「涙を見てくださる」お方であることがわかります。さらに「病を癒す」お方であり、また「寿命を延ばす」ことのできるお方としての姿も記されています。
さて、このような大きな恵みをいただいたヒゼキヤ王でしたが、寿命を15年延ばされた、その時間をどのように歩んだでしょうか。ヒゼキヤ王の病気見舞いに来た「バビロンの王メロダグ・バルアダンの使者」を歓迎し、「すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼(ヒゼキヤ王)の宝物倉にあるすべての物」(13節)を見せたとあります。その結果、預言者イザヤから「見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物すべて、バビロンは運び去られる日々が来る。何一つ残ることはない」(17節)と告げられます。しかしその時のヒゼキヤ王の反応も気になります。
ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。
列王記第二 20章19節
とても自己中心的な思考に驚かされます。かつてヒゼキヤ王自身が、神さまの前
で語っていた次の言葉との大きな違い、また大きな変化を感じます。
「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。 列王記第二 20章3節
今週も私たちは、ヒゼキヤ王の自己中心的な姿を反面教師としつつ、最後まで「真実と全き心をもって」神さまの御前を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
列王記第二 20章5~6節
上記聖書箇所から、聖書の神さまが「祈りを聞いてくださる」お方であり、「涙を見てくださる」お方であることがわかります。さらに「病を癒す」お方であり、また「寿命を延ばす」ことのできるお方としての姿も記されています。
さて、このような大きな恵みをいただいたヒゼキヤ王でしたが、寿命を15年延ばされた、その時間をどのように歩んだでしょうか。ヒゼキヤ王の病気見舞いに来た「バビロンの王メロダグ・バルアダンの使者」を歓迎し、「すべての宝庫、銀、金、香料、高価な油、武器庫、彼(ヒゼキヤ王)の宝物倉にあるすべての物」(13節)を見せたとあります。その結果、預言者イザヤから「見よ。あなたの家にある物、あなたの父祖たちが今日まで蓄えてきた物すべて、バビロンは運び去られる日々が来る。何一つ残ることはない」(17節)と告げられます。しかしその時のヒゼキヤ王の反応も気になります。
ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きている間は平和と安定があるのではないか、と思ったのである。
列王記第二 20章19節
とても自己中心的な思考に驚かされます。かつてヒゼキヤ王自身が、神さまの前
で語っていた次の言葉との大きな違い、また大きな変化を感じます。
「ああ、主よ、どうか思い出してください。私が真実と全き心をもって、あなたの御前に歩み、あなたの御目にかなうことを行ってきたことを。」ヒゼキヤは大声で泣いた。 列王記第二 20章3節
今週も私たちは、ヒゼキヤ王の自己中心的な姿を反面教師としつつ、最後まで「真実と全き心をもって」神さまの御前を歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
持続可能な社会を生み出すイエスさまの教え ― 2022年12月18日
マナセは、ユダに罪を犯させて、主の目に悪であることを行わせた罪だけでなく、咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった。
列王記第二 21章16節
上記聖書箇所で「えっ!?」と驚かされるのは、「咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」です。
特に今年は、ロシアによるウクライナ攻撃の映像やニュースを通して、多くの一般市民、また幼い子どもたちの血が流されてきたからこそ、心が痛みます。辛くなります。またフィクションの入った歴史ドラマですがNHKの大河ドラマを見ていても、謀反を起こす者が次々と殺されていく内容とも重なります。
マナセ王が、1節で「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった」と記されている通り、55年という長期にわたり王でいられたのは、おそらく謀反を企てる者だけでなく、敵になりそうな存在を次々と殺していったからでしょう。そのことを聖書は「咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」と書き残しているのです。
歴史を振り返る時、確かに謀反を起こす者や、敵対しそうな存在を、次々と抹殺していくことが、ある程度持続可能な政権を作りますが、そのような権力者は、いつかは誰かに命を狙われ殺され、持続不可能になってしまいます。しかしイエスさまの教えは、まさに持続可能な教えです。このような負の連鎖を断ち切るために、次のように教えられます。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイの福音書5章44節
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
ルカの福音書6章37節
このようなイエスさまの教えこそが、持続可能な社会を生み出していくのです。今週も、イエスさまの教えにお従いしていきましょう。(吉持日輪生)
列王記第二 21章16節
上記聖書箇所で「えっ!?」と驚かされるのは、「咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」です。
特に今年は、ロシアによるウクライナ攻撃の映像やニュースを通して、多くの一般市民、また幼い子どもたちの血が流されてきたからこそ、心が痛みます。辛くなります。またフィクションの入った歴史ドラマですがNHKの大河ドラマを見ていても、謀反を起こす者が次々と殺されていく内容とも重なります。
マナセ王が、1節で「マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった」と記されている通り、55年という長期にわたり王でいられたのは、おそらく謀反を企てる者だけでなく、敵になりそうな存在を次々と殺していったからでしょう。そのことを聖書は「咎のない者の血まで多量に流したが、それはエルサレムの隅々に満ちるほどであった」と書き残しているのです。
歴史を振り返る時、確かに謀反を起こす者や、敵対しそうな存在を、次々と抹殺していくことが、ある程度持続可能な政権を作りますが、そのような権力者は、いつかは誰かに命を狙われ殺され、持続不可能になってしまいます。しかしイエスさまの教えは、まさに持続可能な教えです。このような負の連鎖を断ち切るために、次のように教えられます。
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
マタイの福音書5章44節
さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。
ルカの福音書6章37節
このようなイエスさまの教えこそが、持続可能な社会を生み出していくのです。今週も、イエスさまの教えにお従いしていきましょう。(吉持日輪生)
「律法の書」は語られ、聞くもの ― 2022年12月25日
そのとき、大祭司ヒルキヤは書記シャファンに、「主の宮で律法の書を見つけました」と言った。そしてヒルキヤがその書物をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。 列王記第二 22章8節
列王記第二22章から登場する南王国(ユダ)のヨシヤ王について、聖書は次のように記しています。
彼は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。 列王記第二 22章2節
久しぶりに登場した「主の目にかなうことを行う」王さまですが、その時代に大切なあるものが発見されます。それが冒頭引用箇所に記されている「律法の書」です。
あまりにも「主の目に悪であることを行う」王さまばかりが続いたからでしょう、「律法の書」は読まれることもなく、それがどこにあるのかも、わからなくなっていたのです。
さて、その「律法の書」が見つけられた時、人々はどのような行動をとったでしょうか。冒頭引用箇所でも「彼はそれを読んだ」とありますし、さらに列王記第二22章10節最後でも「シャファンは王の前でそれを読み上げた」とあります。
当たり前のことですが「律法の書」は読まれるものであり、語られるものだからこそ、「律法の書」発見と共に、「律法の書」が読まれ、語られたのです。その時、何が起こったでしょうか。
王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。
列王記第二 22章11節
「律法の書」が語られる時、そのことばが人々に届く時、そこには悔い改めが生じるのです。
2022年最後の週、私たちも、「聖書」に記されている神さまのことばに耳を傾け、悔い改めをもって新年を迎えましょう。(吉持日輪生)
列王記第二22章から登場する南王国(ユダ)のヨシヤ王について、聖書は次のように記しています。
彼は主の目にかなうことを行い、父祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。 列王記第二 22章2節
久しぶりに登場した「主の目にかなうことを行う」王さまですが、その時代に大切なあるものが発見されます。それが冒頭引用箇所に記されている「律法の書」です。
あまりにも「主の目に悪であることを行う」王さまばかりが続いたからでしょう、「律法の書」は読まれることもなく、それがどこにあるのかも、わからなくなっていたのです。
さて、その「律法の書」が見つけられた時、人々はどのような行動をとったでしょうか。冒頭引用箇所でも「彼はそれを読んだ」とありますし、さらに列王記第二22章10節最後でも「シャファンは王の前でそれを読み上げた」とあります。
当たり前のことですが「律法の書」は読まれるものであり、語られるものだからこそ、「律法の書」発見と共に、「律法の書」が読まれ、語られたのです。その時、何が起こったでしょうか。
王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を引き裂いた。
列王記第二 22章11節
「律法の書」が語られる時、そのことばが人々に届く時、そこには悔い改めが生じるのです。
2022年最後の週、私たちも、「聖書」に記されている神さまのことばに耳を傾け、悔い改めをもって新年を迎えましょう。(吉持日輪生)
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