神さまのなさることは不思議2021年04月04日

サウルは答えて言った。「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」                  サムエル記第一 9章21節

 イスラエルの最初の王となるサウルは、ベニヤミン族出身でした。このベニヤミン族について、旧約聖書において「サムエル記第一」の2つ前にある「士師記」に、それも「士師記」最後の20~21章に、「ベニヤミン族の危機」が記されています。イスラエルが霊肉共に荒廃していた中での出来事として「あるレビ人のそばめへの乱暴」が起こります。それを行ったのがベニヤミン族だったため、ベニヤミン族以外の部族からの攻撃を受け、部族は大ダメージを受けるという内容です。その士師記21章最後の言葉が、次のようなものでした。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。                   士師記 21章25節

 「イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えること」を行った結果としての「ベニヤミン族の危機」でしたが、そのイスラエルの最初の王様にベニヤミン族からサウルが選ばれていくというのは、何とも神さまのなさることは不思議です。
 ちなみに新約聖書に登場するベニヤミン族の有名人は誰かわかりますでしょうか。

それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私(パウロ)もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。         ローマ人への手紙 11章1節

 イエスさまの十字架、復活、昇天という神さまの不思議な御業を覚えつつ、私たちの歩みの中にも、その神さまの不思議な御業が現わされることを信じて、今週も歩みましょう。                (吉持日輪生)

共にいてくださる神さまと共に歩む道2021年04月11日

主の霊があなた(サウル)の上に激しく下り、あなた(サウル)も彼らと一緒に預言して、新しい人に変えられます。これらのしるしがあなた(サウル)に起こったら、自分の力でできることをしなさい。神があなたと(サウル)ともにおられるのですから。      サムエル記第一 10章6~7節

 上記聖書箇所は、「主の霊が…激しく下った」後のサウルが、どのように歩んだらよいか、神さまがサウルに語られているところです。新約聖書的に言うとサウルが「聖霊に満たされた」後、どのように歩むべきかということでしょう。ペンテコステの時の様子と重なります。
 そのような状況のサウルに神さまは、「自分の力でできることをしなさい」と語られています。ここに聖書が語る信仰者の基本的な姿勢が見えてきます。「ともにいてくださる神さまを信じて歩む」とは、また「聖霊に満たされて歩む」とは、何もしないで神さまの御心を求め、待つことではなく、まさに神さまがサウルに語られているように「自分の力でできることをする」ことです。

 マルコの福音書14章に記されているベタニア村の300デナリ以上するナルドの香油をイエスさまに注いだ「ある女」へのイエスさまのお言葉も思い出します。

彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。      マルコの福音書14章8節

 私たちも今週、インマヌエル(主はともにおられる)の神さまを覚えつつ「自分の力でできること」「自分にできること」をし続けましょう。神さまは、必ずそこに豊かな御業を現わしてくださいます。    (吉持日輪生)

人間的な「怒り」は退ける2021年04月18日

民はみなギルガルに行き、ギルガルで、主の前にサウルを王とした。彼らはそこで、主の前に交わりのいけにえを献げた。サウルとイスラエルのすべての者は、そこで大いに喜んだ。          サムエル記第一 11章15節

 上記聖書箇所は、王さまを求めていたイスラエルに、ついに王さまが立てられた喜びが記されている個所です。「そこで大いに喜んだ」。
 「聴くドラマ聖書」のアプリでこの個所を聞いた時、「?」と思いました。そして聞き直して、「聖書にはこんなダジャレの個所もあるんだ」と思わず笑いました。私には、そこが「王位に喜んだ」と聞こえたからです。
 ダジャレのことは、そこまでにして、この11章には、二つの「怒り」が記されています。一つは6節、もう一つは12節です。

サウルがこれらのことばを聞いたとき、神の霊がサウルの上に激しく下った。彼の怒りは激しく燃え上がった。            サムエル記第一 11章6節

民はサムエルに言った。「『サウルがわれわれを治めるのか』と言ったのはだれでしたか。その者たちを引き渡してください。彼らを殺します。」 
                             サムエル記第一 11章12節

 6節の「怒り」は、神さまの霊による「怒り」で、12節の「怒り」は人間的な「怒り」と言えます。そして神さまは、サウルにその「怒り」の出所を理解する力を与えてくださっていました。

 サウルは言った。「今日はだれも殺されてはならない。今日、主がイスラエルにおいて勝利をもたらしてくださったのだから。」   
                            サムエル記第一 11章13節

 私たちも日々の生活の中で「怒り」を覚えますが、その「怒り」がどこから来ているのかを祈りつつ峻別し、人間的な「怒り」に流されないように気を付けましょう。                        (吉持日輪生)

証人は主である2021年04月25日

サムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見出さなかったことについては、今日、あなたがたの間で主が証人であり、主に油注がれた者が証人である。」そこで、ある人が「証人は」と言うと、サムエルは「主である。モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせた方である」と民に告げた。
                      サムエル記第一 12章5~6節

 この章の冒頭、預言者サムエルは、自らの歩みについて民に語り掛けています。「私は若いときから今日まで、あなたがたの先に立って歩んできた」(2節後半)。そして下記の個所にとつながります。

さあ今、主と主に油注がれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを虐げ、だれかを打ちたたいただろうか。だれかの手から賄賂を受け取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、あなたがたにお返しする。」彼らは言った。「あなたは私たちを虐げたことも、踏みにじったことも、人の手から何かを取ったこともありません。」
                      サムエル記第一 12章3~4節

 そして、この預言者サムエルと民とのやり取りの続きが冒頭聖書箇所になります。預言者サムエルの歩みに対する「証人」について、「主が証人であり」「証人は…主である」と書かれています。

 これは預言者サムエルと民との間のことだけではありません。神さまの主権を認める時、すべて「主が証人」です。ですから私たちは、日々の生活の中で沸き起こる一つ一つのことについて、その出来事の「証人」である神さまに、「なぜですか」「どこに意味があるのですか」と問いかけるしかないのです。
 コロナ禍の中にあっても同様です。この出来事、この状況の「証人」も主だからこそ、主に問いかけつつ、主に一つ一つのことを教えていただいて日々歩むしかありません。今週も、お一人おひとりが、神さまの御手の中で守られますようにお祈りしています。                        (吉持日輪生)