境界線(バウンダリーズ)の学び ― 2019年02月03日
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 箴言 4章23節
カナダ留学中に母親が妻の出産後の手伝いのために2週間訪問してくれました。母を連れてドライブをしている途中に、丁度、私が悩んでいた人間関係について相談する機会がありました。一通り状況を話した後で、母は一言「それはその人の境界線の問題ね。」と私に言いました。その時、一度読んだことのあったクラウド博士とタウンゼント博士が著した『境界線(バウンダリーズ)—聖書が語る人間関係の大前提―』の内容を思い出しました。境界線の概念については、何となく理解しているつもりでしたが、それが今まさに直面している人間関係の問題を解決に導くきっかけになることが、納得した瞬間でした。『境界線』は、私たちが抱える人間関係のストレスや葛藤を「境界線」という概念を用いて、聖書的解釈を用いながら取り扱っています。「境界線」とは、私たちを定義し、何が私であり、何が私でないのか、その範囲を明確にするものです1。私が何に責任を負っていて、何に負っていないのか。どこまですべきであって、すべきではないのか。人間関係で良く起こる「ノー」と言えない問題は、自らの境界線を曖昧にしているところから始まります。しかし、私たちは聖書を通して、自らの境界線をどのように守るべきかを学ぶことができます。『境界線』はイエス・キリストが語った良きサマリヤ人のたとえ話を通して、境界線を守ることの大切さを説明します2。サマリヤ人は半殺しに遭った人を介抱し、宿屋に連れていき、次の日に宿屋の主人にデナリ二つ(今の価値で約2万円)を渡して立ち去ります。勿論、彼はもっと費用がかかる分は帰りに払うと宿屋の主人に話しましたが、自分のなすべき用事を優先させ、旅を続けました。
境界線は幼少期の生育環境によって培われるものであるため、どのように親に育てられたかは大きく影響します。もし人間関係に問題やストレスを抱えていて、それが境界線における問題であるならば、私たちはもう一度、心の中を吟味しながら、なぜ「ノー」と言えないのか考える必要があります。聖書が語る境界線の教えを通して、私たちは適切な境界線を持った新しい人間関係を構築し、絶え間ない人間関係のストレスやプレッシャーから解放されるきっかけを得ることができるでしょう。 (笠川路人)
1 ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント[2004]「境界線(バウンダリーズ)」42頁
2 「境界線」58-60頁
カナダ留学中に母親が妻の出産後の手伝いのために2週間訪問してくれました。母を連れてドライブをしている途中に、丁度、私が悩んでいた人間関係について相談する機会がありました。一通り状況を話した後で、母は一言「それはその人の境界線の問題ね。」と私に言いました。その時、一度読んだことのあったクラウド博士とタウンゼント博士が著した『境界線(バウンダリーズ)—聖書が語る人間関係の大前提―』の内容を思い出しました。境界線の概念については、何となく理解しているつもりでしたが、それが今まさに直面している人間関係の問題を解決に導くきっかけになることが、納得した瞬間でした。『境界線』は、私たちが抱える人間関係のストレスや葛藤を「境界線」という概念を用いて、聖書的解釈を用いながら取り扱っています。「境界線」とは、私たちを定義し、何が私であり、何が私でないのか、その範囲を明確にするものです1。私が何に責任を負っていて、何に負っていないのか。どこまですべきであって、すべきではないのか。人間関係で良く起こる「ノー」と言えない問題は、自らの境界線を曖昧にしているところから始まります。しかし、私たちは聖書を通して、自らの境界線をどのように守るべきかを学ぶことができます。『境界線』はイエス・キリストが語った良きサマリヤ人のたとえ話を通して、境界線を守ることの大切さを説明します2。サマリヤ人は半殺しに遭った人を介抱し、宿屋に連れていき、次の日に宿屋の主人にデナリ二つ(今の価値で約2万円)を渡して立ち去ります。勿論、彼はもっと費用がかかる分は帰りに払うと宿屋の主人に話しましたが、自分のなすべき用事を優先させ、旅を続けました。
境界線は幼少期の生育環境によって培われるものであるため、どのように親に育てられたかは大きく影響します。もし人間関係に問題やストレスを抱えていて、それが境界線における問題であるならば、私たちはもう一度、心の中を吟味しながら、なぜ「ノー」と言えないのか考える必要があります。聖書が語る境界線の教えを通して、私たちは適切な境界線を持った新しい人間関係を構築し、絶え間ない人間関係のストレスやプレッシャーから解放されるきっかけを得ることができるでしょう。 (笠川路人)
1 ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント[2004]「境界線(バウンダリーズ)」42頁
2 「境界線」58-60頁
情緒的な健康を求めて ― 2019年02月10日
神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 詩篇 139篇23節
神学校の2年目の牧会演習(インターンシップ)の中で、担当教授が教会での人間関係について取り扱った良い本があると紹介してくれました。「情緒的に健康な教会をめざして」(ピーター・スキャゼロ著)との出会いは、教会内の人間関係における情緒や感情といった課題に向き合う機会となりました。「情緒の健全さと霊的な成熟は分離できない関係にある」(1)、「どんな教会の働きも、教会や働きに携わるリーダーの情緒的・霊的な健全性にかかっている。」(2)とスキャゼロ師は言います。情緒的・霊的な健全性を求めるためには、普段は見過ごしてしまう(気づかないような)情緒や感情の課題に、注意深く向き合うことから始める必要があります。「なぜあの時に怒りを感じたのか」「なぜ問題を避けてしまったのか」日々起こる出来事の中で、自分の心が何を感じたか、その結果としてどんな行動をとったのかを観察します。その結果、実は私たちは無意識的に(時には意識して)自らが育った家族や過去の経験から受けた価値観や考え方を、教会という共同体の中に持ち込んでいることに気づきます。例えば、私自身は育った家庭の影響から、意見の対立を極端に避けようとする(やり過ごして我慢しようとする)傾向があります。表向きは平静を装っていても、心の中は怒りが渦巻き、不満が溜まってしまう時があります。しかし、それら情緒や感情の課題に気づき、素直に認め(悔い改め)、自らの弱さや限界を共有できる時に、教会はイエス・キリストの似姿を目指し、情緒面においても成長していく共同体となっていきます。
目に見える奉仕や成果が注目される現代にあって、人間の心の内面や情緒面の課題について真正面から取り組むのは、面倒で手間がかかることに思えるかもしれません。しかし、ダビデが「私を探り、私の心を知ってください。」と詩篇に書いているように、神さまの望まれる人間関係を実現できるように、謙遜な心で情緒や感情での課題に向き合っていきたいと思います。(笠川路人)
(1) 「情緒的に健康な教会をめざして」52頁
(2) 「情緒的に健康な教会をめざして」28頁
神学校の2年目の牧会演習(インターンシップ)の中で、担当教授が教会での人間関係について取り扱った良い本があると紹介してくれました。「情緒的に健康な教会をめざして」(ピーター・スキャゼロ著)との出会いは、教会内の人間関係における情緒や感情といった課題に向き合う機会となりました。「情緒の健全さと霊的な成熟は分離できない関係にある」(1)、「どんな教会の働きも、教会や働きに携わるリーダーの情緒的・霊的な健全性にかかっている。」(2)とスキャゼロ師は言います。情緒的・霊的な健全性を求めるためには、普段は見過ごしてしまう(気づかないような)情緒や感情の課題に、注意深く向き合うことから始める必要があります。「なぜあの時に怒りを感じたのか」「なぜ問題を避けてしまったのか」日々起こる出来事の中で、自分の心が何を感じたか、その結果としてどんな行動をとったのかを観察します。その結果、実は私たちは無意識的に(時には意識して)自らが育った家族や過去の経験から受けた価値観や考え方を、教会という共同体の中に持ち込んでいることに気づきます。例えば、私自身は育った家庭の影響から、意見の対立を極端に避けようとする(やり過ごして我慢しようとする)傾向があります。表向きは平静を装っていても、心の中は怒りが渦巻き、不満が溜まってしまう時があります。しかし、それら情緒や感情の課題に気づき、素直に認め(悔い改め)、自らの弱さや限界を共有できる時に、教会はイエス・キリストの似姿を目指し、情緒面においても成長していく共同体となっていきます。
目に見える奉仕や成果が注目される現代にあって、人間の心の内面や情緒面の課題について真正面から取り組むのは、面倒で手間がかかることに思えるかもしれません。しかし、ダビデが「私を探り、私の心を知ってください。」と詩篇に書いているように、神さまの望まれる人間関係を実現できるように、謙遜な心で情緒や感情での課題に向き合っていきたいと思います。(笠川路人)
(1) 「情緒的に健康な教会をめざして」52頁
(2) 「情緒的に健康な教会をめざして」28頁
霊的友情について ― 2019年02月17日
ところが、バルナバは彼を引き受けて、使徒たちのところへ連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に向かって語られたこと、また彼がダマスコでイエスの御名を大胆に宣べた様子などを彼らに説明した。 使徒の働き 9章27節
前回まで人間関係についての内容を取り扱ってきましたが、今回からはバルナバコース第6課の「霊的友情について」の内容に入ります。罪によって人間関係に課題をもった人間に対して、神さまは罪からの救いと関係の回復を恵みとして与えられました。聖書的な人間関係の実践として境界線(バウンダリーズ)と、情緒的な健康について説明しましたが(2月3日、2月10日の週報を参照)、人間関係の回復を体験したクリスチャンは、人間関係を通して励まされ、成長する者となる人生を歩む祝福を頂いています。ですから、私たちの人間関係の経歴(どのような人間関係を持ってきたか)は、私たちの霊的、信仰的な経歴であるとも言えるでしょう。私自身も過去の経験を振り返った時に、信仰の歩みの中で信仰の先輩や友人から大きな影響を受け、励ましを頂いてきたことを覚えます。多くの人々が孤独を感じて生きていると言われるこの世界において、教会での交わり、信仰の友との友情関係はとても貴重な関係です。生涯に渡って、信仰を分かち合い、励まし合う友が存在することは、人生の中で大きな励ましとなります。私たちの霊的友情(信仰を持つ者同士の友人関係)は、私たちの信仰を育み、その歩みを豊かにするものです。
アンテオケ教会の中心的な働き人であったパウロとバルナバの友情は、使徒の働き9章26-30節の中に見ることができます。ダマスコ途上で回心し、迫害者からキリスト者へと変えられたパウロが直面したのは、誰にも信じてもらえないという人間関係における危機でしたが、「バルナバは彼を引き受けて」(9章27節)とあるように、バルナバは、パウロと関係を作り、彼の体験を詳しく聞き、パウロが弟子の仲間に入るための手助けをしました。その後のパウロとバルナバの霊的友情は、アンテオケ教会の成長の祝福となり、世界宣教の礎となったことは言うまでもありません。それでは次回からクリスチャンの霊的友情について聖書から学ばせて頂きたいと思います。 (笠川路人)
前回まで人間関係についての内容を取り扱ってきましたが、今回からはバルナバコース第6課の「霊的友情について」の内容に入ります。罪によって人間関係に課題をもった人間に対して、神さまは罪からの救いと関係の回復を恵みとして与えられました。聖書的な人間関係の実践として境界線(バウンダリーズ)と、情緒的な健康について説明しましたが(2月3日、2月10日の週報を参照)、人間関係の回復を体験したクリスチャンは、人間関係を通して励まされ、成長する者となる人生を歩む祝福を頂いています。ですから、私たちの人間関係の経歴(どのような人間関係を持ってきたか)は、私たちの霊的、信仰的な経歴であるとも言えるでしょう。私自身も過去の経験を振り返った時に、信仰の歩みの中で信仰の先輩や友人から大きな影響を受け、励ましを頂いてきたことを覚えます。多くの人々が孤独を感じて生きていると言われるこの世界において、教会での交わり、信仰の友との友情関係はとても貴重な関係です。生涯に渡って、信仰を分かち合い、励まし合う友が存在することは、人生の中で大きな励ましとなります。私たちの霊的友情(信仰を持つ者同士の友人関係)は、私たちの信仰を育み、その歩みを豊かにするものです。
アンテオケ教会の中心的な働き人であったパウロとバルナバの友情は、使徒の働き9章26-30節の中に見ることができます。ダマスコ途上で回心し、迫害者からキリスト者へと変えられたパウロが直面したのは、誰にも信じてもらえないという人間関係における危機でしたが、「バルナバは彼を引き受けて」(9章27節)とあるように、バルナバは、パウロと関係を作り、彼の体験を詳しく聞き、パウロが弟子の仲間に入るための手助けをしました。その後のパウロとバルナバの霊的友情は、アンテオケ教会の成長の祝福となり、世界宣教の礎となったことは言うまでもありません。それでは次回からクリスチャンの霊的友情について聖書から学ばせて頂きたいと思います。 (笠川路人)
三位一体の関係をモデルとして ― 2019年02月24日
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 エペソ人への手紙 3章19節
人間は神のかたちに造られたと創世記1章に書かれています。1章26節で「われわれのかたちに」と自らを複数形で語られた神さまは、三位一体(父・子・聖霊)であり、三位一体の豊かな交わりの中に生きる神さまです。この地上に神の御姿として現われたイエスさまは、父なる神さまとの愛の関係に生き、父なる神と全てを共有している(マタイの福音書11章27節)と語られました。相互に愛し合い、与え合い、補完し合う三位一体の関係に、イエスさまは「あなたがたは私の友です。」(ヨハネの福音書15章14-15節)と私たちを招かれました。キリスト教の基本教理である三位一体は、理解にしくいと言われますが、実は三位一体の神さまとその関係性を知っていく時に、私たちは兄弟姉妹との人間関係や友情におけるモデル(理想形)を得ることになります。ジェームス・フーストンは、「三位一体とは、単にほこりをかぶった古めかしい教理ではありません。それはキリストにおいて、神の御霊の働きにより、ご自身を人間に啓示される神の生ける神秘です。それゆえ私たちは、この三位一体なる神との深い交わりに入るときにのみ、初めて完全に自分自身を理解できるようになるのです。父、子、聖霊の愛の共同体に引き寄せられるとき、初めてどのように他者に近づくべきかを教えられるのです。(1)」と説明しています。
父なる神さまを知る時に、目の前の兄弟姉妹を、神のかたちに造られた素晴らしい存在として再確認することができます。父なる神さまは、私たち一人一人を「非常に良かった」、そして「高価で尊い」存在として創造されました。御子なるイエスさまは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださった。この地上で生きる限り、確かに私たちは罪の影響を受け続けています。しかし、そんな私たち一人一人のためにイエスさまは命を犠牲にして、罪を赦し、永遠のいのちを与えて下さり、友となって下さった。私たちの人生の目標は、教会に生きる関係を通して、イエスさまの御姿に変えられて行くことです。聖霊なる神さまは、助け主として私たちの心に内住し、働いて下さる。そして、聖霊なる神さまは私たちの霊的な友情を通して、教会の中で力強い働きをしてくださいます。次回はどのように霊的友情を深めていくことができるかについて考えたいと思います。(笠川路人)
(1) ジェームス・フーストン「神との友情」345頁
人間は神のかたちに造られたと創世記1章に書かれています。1章26節で「われわれのかたちに」と自らを複数形で語られた神さまは、三位一体(父・子・聖霊)であり、三位一体の豊かな交わりの中に生きる神さまです。この地上に神の御姿として現われたイエスさまは、父なる神さまとの愛の関係に生き、父なる神と全てを共有している(マタイの福音書11章27節)と語られました。相互に愛し合い、与え合い、補完し合う三位一体の関係に、イエスさまは「あなたがたは私の友です。」(ヨハネの福音書15章14-15節)と私たちを招かれました。キリスト教の基本教理である三位一体は、理解にしくいと言われますが、実は三位一体の神さまとその関係性を知っていく時に、私たちは兄弟姉妹との人間関係や友情におけるモデル(理想形)を得ることになります。ジェームス・フーストンは、「三位一体とは、単にほこりをかぶった古めかしい教理ではありません。それはキリストにおいて、神の御霊の働きにより、ご自身を人間に啓示される神の生ける神秘です。それゆえ私たちは、この三位一体なる神との深い交わりに入るときにのみ、初めて完全に自分自身を理解できるようになるのです。父、子、聖霊の愛の共同体に引き寄せられるとき、初めてどのように他者に近づくべきかを教えられるのです。(1)」と説明しています。
父なる神さまを知る時に、目の前の兄弟姉妹を、神のかたちに造られた素晴らしい存在として再確認することができます。父なる神さまは、私たち一人一人を「非常に良かった」、そして「高価で尊い」存在として創造されました。御子なるイエスさまは、私たちの罪のために十字架の上で死んでくださった。この地上で生きる限り、確かに私たちは罪の影響を受け続けています。しかし、そんな私たち一人一人のためにイエスさまは命を犠牲にして、罪を赦し、永遠のいのちを与えて下さり、友となって下さった。私たちの人生の目標は、教会に生きる関係を通して、イエスさまの御姿に変えられて行くことです。聖霊なる神さまは、助け主として私たちの心に内住し、働いて下さる。そして、聖霊なる神さまは私たちの霊的な友情を通して、教会の中で力強い働きをしてくださいます。次回はどのように霊的友情を深めていくことができるかについて考えたいと思います。(笠川路人)
(1) ジェームス・フーストン「神との友情」345頁
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