関係を持つ存在として2019年01月06日

神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。         創世記 2章7節                   
 神のかたちとして創造された人間は「関係」を持ち、「関係」の中で生きる存在として造られました。エデンの園で生きるアダムとエバは、何一つ不自由することなく満たされた環境で生きていました。創世記2章の記述から、私たち人間は4つの関係を持つ存在として造られたことが分かります。1つ目は「地上」との関係です。創世記2章7節に、神である主は土地のちりで人を形造ったと書かれています。身体なしには人間は存在することができません。この身体を維持するために食べ物を食べ、呼吸をします。生命を維持するためには「地上」との関係を欠くことはできません。2つ目は創造主である「神」との関係です。2章7節で神が直接、人間の鼻にいのちの息を吹き込んだことによって生きものになったとあります。そこには神との親密な関係がありました。同時に神は善悪の知識の木を置くことによって、人間と神の境界線とその境界線を守る責任も与えられました。3つ目は、人間は男と女に造られたように、「他者」との関係に生きるものとして造られました。「われわれ」と神がご自身を呼ばれたように、三位一体の愛の関係の中に生きる神のかたちとして造られた人間でしたが、人間より前に創造された動物たちはふさわしい助け手とはなりませんでした(2章20節)。2章21節以降で、男と女が造られるストーリーが書かれていますが、エバを見たアダムが「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言ったように、「他者」との健全な関係の中で生きるものとして造られたことが分かります。最後の4つ目は「自分」との関係です。2章25節によると、最初の人間は裸でしたが、互いを恥に思うことがありませんでした。他者と比較することなく、自分を卑下することもなく、自分に対する健全な愛と関係があったことが分かります。以上の4つの健全な関係性の中で生きる人間が、どうして今の状況になってしまったのか。次回は「罪」によって壊されてしまった関係について見ていきたいと思います。(笠川路人)

罪によって壊された関係2019年01月13日

彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」                 創世記 3章10節                   
 
 創世記3章は蛇(サタン)がエバを誘惑する場面から始まります。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」(創世記3章1節)と、神のことばを吟味させるサタンの問いかけは巧みでした。結果として人は「必ず死ぬ」と警告された善悪の知識の木の実を食べてしまいます。食べた瞬間に、ふたりの目は開かれたとありますが、「神のようになる」というサタンのことばとは逆に、アダムが取った行動は「神を恐れ、隠れる(逃げる)」ことでした。人間の中に「罪」が入った瞬間でした。そして、前回述べた、神のかたちに造られた人間が持っていた4つの健全な関係は「罪」によって完全に破壊されます。まず創造主なる神との関係は、「親密さ、喜び、信頼」から「恥、恐れ、痛み」へと変わります。神との断絶によって、外見においても内面においても造られた者としての価値を忘れ、自分自身のことを恥に思うようになります。また、自分に対する健全な愛をもつことができず、常に他人との比較の中で自分を評価するようになります。そして、他者との関係においても、アダムとエバはお互いに恥に思い合い、責任を転嫁し、非難し合う仲となります。更には、男性が女性を支配しようとすることは罪の結果であることも聖書には書かれています(創世記3章16節)。最後にこの地上との関係も壊されます。楽園は砂漠に、仕事の喜びは労苦に、そして最後は、死を通してちり(地上)に帰る運命をたどることとなります。「それは非常に良かった」と評価された人間は、「罪」によってあらゆる悲惨を経験することとなります。私たちが人生の歩みにおいて、人間関係における様々な問題を持つのは、この「罪」による関係の破壊によるものであることが分かります。最終的に、エデンの園を追い出されたアダムとエバに、神さまは何を語られ、与えられたのでしょうか。神を裏切り、「罪」の中に生きるようになった人間に対して、神さまは変わらない愛を示されました。次回は、創世記3章の後半から、神さまが人間に与えられた5つの恵みと希望について見ていきます。(笠川路人)

アダムとエバに与えられた恵みと希望2019年01月20日

彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」                 創世記 3章10節                   
 
 罪によってあらゆる悲惨を経験することになった人間に、神さまはどのような対応をされたでしょうか。創世記3章14~19節には厳しい裁きの宣告が、蛇(サタン)、エバ、そしてアダムに下されます。しかし、3章を注意深く読んでいくと、神さまが幾つもの恵みと希望を人間に対して与えられたことを発見することができます。まず、神さまは隠れているアダムを探されました。恐れて、逃げ隠れるアダムに対して、「あなたはどこにいるのか。」(3章9節)と語り掛けられました。神さまはあきらめることなく罪人を探し、関係を回復しようと語り掛けて下さる方であることが分かります。さらに、17節では、土地はのろわれて、一生苦しんで食を得るという裁きが語られていますが、神さまの恵みによって私たちは土地を耕し、豊かな糧を得ることができています。22節には、神さまは人間が「いのちの木」から取って食べ、神さまを裏切った罪の状態で、永遠に生きないようにという配慮をされます。そして救われた者には、この「いのちの木」から食べることができる約束を与えて下さっています(黙示録22章)。21節には皮の衣を着せて下さる場面が書かれていますが、人の恥を覆うために動物のいのちを犠牲にされました。これは、旧約聖書における、贖罪のための動物のいけにえを暗示していますが、救い主イエス・キリストは、私たちの恥を覆うために、十字架において死んでくださいました。最後に、15節に蛇(サタン)の頭を砕かれるという言葉が語られています。これはサタンの支配と罪の束縛から私たちを解放し、神さまとの関係を回復する救い主が現れる約束です。
アダムを探され、生きるために必要な物を与え、恥を覆ってくださった神さまの愛。人類の歴史は罪による悲惨を経験しますが、神さまの恵みと愛はその歴史を通して注がれ続け、2000年前にイエス・キリストによって罪からの贖いが成し遂げられました。私たちの人間関係も、神さまの恵みと愛によって回復を頂き、あるべき関係に戻されていくことを願っていきましょう。(笠川路人)

創世記2-3章から学ぶ人間関係2019年01月27日

神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか」                 創世記 3章9節                   
 神さまの手によって人間が造られた創造のストーリーと、人間の中に罪が入った堕落のストーリーから、私たちは何を学ぶことができるでしょうか。最初に覚えるべきことは、創造の初め、アダムとエバが経験していた最初の人間関係は、理想的であり、とても良い関係であったということです。神さまとも理想的な関係を持ち、自分自身に対する健全なイメージを持っていました。私たちは神のかたちに造られた人間だからこそ、理想的な関係に対する憧れ、その実現を心から望む思いを持っています。しかしながら、罪の影響は非常に大きく、前々回(1月13日の週報)にて学んだ通り、4つの関係(神さま、自分、他者、地上)が破壊されてしまった存在であることを知ることは重要です。人間関係において、「あの人は悪い人、難しい人」と他人を評価する前に、罪がどのように他人との関係に影響を与えているのかを見る必要があります。例えば、自分に対するセルフイメージが低かったり、自信が持てない時に、逆に他の人に対して強硬な態度を取る、批判的な態度を取ってしまうことがあります。罪の根源は神さまとの関係の断絶ですから、その結果として自分が神となり、自己中心的な行動をとってしまうことは、人間関係に難しさをもたらします。
 元々は理想的であったものが、罪によって問題がもたらされているなら、その解決方法は罪からの解放であり、罪の赦しです。そして、創世記3章の後半は、神さまが人間に与えられた恵みと希望が記されています。まず、神さまは、神さまと人間の関係の回復を願うがゆえに、「あなたはどこにいるのか」とアダムに声をかけられました。神のひとり子イエス・キリストを通して、与えて下さった罪の赦しと永遠のいのちは、神さまが私たちを罪の束縛から救い、関係の回復を与えるための解決方法です。それでは次回から、より良い人間関係を実現するための聖書的実践について見ていきましょう。 (笠川路人)