2回目の人口調査からわかること ― 2017年07月02日
これがイスラエル人の登録された者で、六十万一千七百三十人であった。
民数記26章51節
民数記26章では、2回目の20歳以上で軍務につくことのできる者の人口調査が行なわれています。1回目の人口調査は、民数記1章でした。恐らく1回目と今回の2回目との間には40年ぐらいの時間が流れているかと思われます。40年という荒野での旅を通してイスラエルの民はどう変化したのでしょうか。
この表を見て気付かされることは40年という月日を経ての増減が、-1,820人ということです。これは、出エジプト前のエジプトでの人口増加を思うと40年で減少していることには驚かされます。その大きな原因は、民数記14章に見ることができます。「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ」(民数記14章29節)。つまり民数記1章の時に数えられた60万人は、みな倒れて死んだけれども、ほぼ同じ60万人の軍務につく人たちが、40年後にはいたのです。そのことを考えると印象が変わります。民数記14章だけを読むと、神さまの厳しさを感じますが、その一方で神さまは、同じ数の軍務につく男性を用意していてくださったのです。
このような神さまのご性質は、今も変わりません。私たちに厳しく接せられる神さまは、同時に祝福と恵みを豊かに備えてくださいます。コリント人への手紙第一10章13節にある通りです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」。
今週も真実な神さまとともに歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
民数記26章51節
民数記26章では、2回目の20歳以上で軍務につくことのできる者の人口調査が行なわれています。1回目の人口調査は、民数記1章でした。恐らく1回目と今回の2回目との間には40年ぐらいの時間が流れているかと思われます。40年という荒野での旅を通してイスラエルの民はどう変化したのでしょうか。
この表を見て気付かされることは40年という月日を経ての増減が、-1,820人ということです。これは、出エジプト前のエジプトでの人口増加を思うと40年で減少していることには驚かされます。その大きな原因は、民数記14章に見ることができます。「この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ」(民数記14章29節)。つまり民数記1章の時に数えられた60万人は、みな倒れて死んだけれども、ほぼ同じ60万人の軍務につく人たちが、40年後にはいたのです。そのことを考えると印象が変わります。民数記14章だけを読むと、神さまの厳しさを感じますが、その一方で神さまは、同じ数の軍務につく男性を用意していてくださったのです。
このような神さまのご性質は、今も変わりません。私たちに厳しく接せられる神さまは、同時に祝福と恵みを豊かに備えてくださいます。コリント人への手紙第一10章13節にある通りです。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」。
今週も真実な神さまとともに歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
モーセに学ぼう! ― 2017年07月09日
ついで主はモーセに言われた。「このアバリム山に登り、わたしがイスラエル人に与えた地を見よ。それを見れば、あなたもまた、あなたの兄弟アロンが加えられたように、あなたの民に加えられる。」 民数記27章12~13節
民数記27章は、上記聖書箇所に記されている通り、モーセが死に「あなたの民に加えられる」(13節)ことについて触れられています。しかも、これまで目指してきた「約束の地」、「わたし(神さま)がイスラエル人に与えた地」(12節)を、見るだけで、そこに入ることができないとも語られています。
その神さまからの語りかけに対して、モーセがとった行動が、15節以降です。
それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」(15~17節)
これまでのモーセは、神さまからの発言に対して大胆にやりとりをしていました。例えば出エジプト記32章で、アロンのもと民が金の子牛を造ってしまったことに対して、神さまが「わたしが彼らを絶ち滅ぼす」(出エジプト記32章10節)とモーセに告げると、モーセは「主に嘆願して」(出エジプト記32章11節)います。ですから今回も、神さまに「なんとか約束の地に入らせてください」と嘆願することもできたのでしょうが、そのような言動はありませんでした。そうではなく、自分の後継者をしっかり立ててくださいとお願いしています。
ここにモーセのイスラエル人への愛、また神さまへの従順さを見ることができます。また自らの目的達成よりも、神さまの目的達成を望む姿も見ることができます。
私たちもこのモーセの姿勢に学び、自らの目的達成を願うのではなく、神さまの目的達成を待ち望む者として歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
民数記27章は、上記聖書箇所に記されている通り、モーセが死に「あなたの民に加えられる」(13節)ことについて触れられています。しかも、これまで目指してきた「約束の地」、「わたし(神さま)がイスラエル人に与えた地」(12節)を、見るだけで、そこに入ることができないとも語られています。
その神さまからの語りかけに対して、モーセがとった行動が、15節以降です。
それでモーセは主に申し上げた。「すべての肉なるもののいのちの神、主よ。ひとりの人を会衆の上に定め、彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立って入り、また彼らを連れ出し、彼らを入らせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」(15~17節)
これまでのモーセは、神さまからの発言に対して大胆にやりとりをしていました。例えば出エジプト記32章で、アロンのもと民が金の子牛を造ってしまったことに対して、神さまが「わたしが彼らを絶ち滅ぼす」(出エジプト記32章10節)とモーセに告げると、モーセは「主に嘆願して」(出エジプト記32章11節)います。ですから今回も、神さまに「なんとか約束の地に入らせてください」と嘆願することもできたのでしょうが、そのような言動はありませんでした。そうではなく、自分の後継者をしっかり立ててくださいとお願いしています。
ここにモーセのイスラエル人への愛、また神さまへの従順さを見ることができます。また自らの目的達成よりも、神さまの目的達成を望む姿も見ることができます。
私たちもこのモーセの姿勢に学び、自らの目的達成を願うのではなく、神さまの目的達成を待ち望む者として歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
神さまとの食事の交わり ― 2017年07月16日
彼らに言え。これがあなたがたが主にささげる火によるささげ物である。一歳の傷のない雄の子羊を常供の全焼のいけにえとして、毎日二頭。一頭の子羊を朝ささげ、他の一頭の子羊を夕暮れにささげなければならない。
民数記28章3~4節
民数記28章には、様々ないけにえの規程が記されていますが、大きく分けると献げ物には3種類あります。その3種類とは「動物」「穀物」「注ぎのささげ物(飲み物)」です。例えば3節に「一歳の傷のない雄の子羊」と「動物」の献げ物が記され、さらに5節には「穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする」と「穀物」の献げ物が記されています。そして7節には「それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい」と「注ぎのささげ物(飲み物)」について記されています。
ここまで読まれて何かに気付かれたでしょうか。「動物(肉)」「穀物(パン)」「飲み物(強い酒)」。これは「おかず」「ごはん」「汁物」といった私たちが日々食する食事の3要素と重なります。つまり「いけにえ」とは、礼拝を献げる神さまとの食事の交わりの時であったと捉えることができます。そしてその流れの中に、イエスさまとの「最後の晩餐」や、また私たちの教会では毎月最初の主日礼拝の中で持つ「聖餐式」があるのです。
しかし、「最後の晩餐」においても、また私たちが行なう「聖餐式」においても、そこにあるのは「パンとぶどう酒」、すなわち「穀物の献げ物」と「注ぎの献げ物」だけです。「動物の献げ物」はどこへ行ってしまったのでしょうか。「最後の晩餐」における「動物の献げ物」はイエスさまであり、「聖餐式」における「動物の献げ物」もイエスさまであると同時に、イエスさまに贖われたクリスチャンひとりひとりと理解することができます。
8月の聖餐式の時、「パンとぶどう酒」を食しつつ、「私を神さまのために差し出します」と祈り、自らを「動物の献げ物」と重ねながら、聖餐の恵みに与るのも一つの聖餐式の持ち方です。今週も、自らを「生きた供え物」(ローマ12章1節)として、神さまに差し出しつつ歩みましょう。
(吉持日輪生)
民数記28章3~4節
民数記28章には、様々ないけにえの規程が記されていますが、大きく分けると献げ物には3種類あります。その3種類とは「動物」「穀物」「注ぎのささげ物(飲み物)」です。例えば3節に「一歳の傷のない雄の子羊」と「動物」の献げ物が記され、さらに5節には「穀物のささげ物としては、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパとする」と「穀物」の献げ物が記されています。そして7節には「それにつく注ぎのささげ物は子羊一頭につき四分の一ヒンとする。聖所で、主への注ぎのささげ物として強い酒を注ぎなさい」と「注ぎのささげ物(飲み物)」について記されています。
ここまで読まれて何かに気付かれたでしょうか。「動物(肉)」「穀物(パン)」「飲み物(強い酒)」。これは「おかず」「ごはん」「汁物」といった私たちが日々食する食事の3要素と重なります。つまり「いけにえ」とは、礼拝を献げる神さまとの食事の交わりの時であったと捉えることができます。そしてその流れの中に、イエスさまとの「最後の晩餐」や、また私たちの教会では毎月最初の主日礼拝の中で持つ「聖餐式」があるのです。
しかし、「最後の晩餐」においても、また私たちが行なう「聖餐式」においても、そこにあるのは「パンとぶどう酒」、すなわち「穀物の献げ物」と「注ぎの献げ物」だけです。「動物の献げ物」はどこへ行ってしまったのでしょうか。「最後の晩餐」における「動物の献げ物」はイエスさまであり、「聖餐式」における「動物の献げ物」もイエスさまであると同時に、イエスさまに贖われたクリスチャンひとりひとりと理解することができます。
8月の聖餐式の時、「パンとぶどう酒」を食しつつ、「私を神さまのために差し出します」と祈り、自らを「動物の献げ物」と重ねながら、聖餐の恵みに与るのも一つの聖餐式の持ち方です。今週も、自らを「生きた供え物」(ローマ12章1節)として、神さまに差し出しつつ歩みましょう。
(吉持日輪生)
定められた時に定められたことを行なう意味 ― 2017年07月23日
第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。 民数記29章1節
民数記28章、29章は、定められた時におこなういけにえの規程が記されています。それを読みながら神さまが、イスラエルの民に課した「ルーティン」だと感じました。「ルーティン」とは、「決められた一連の動き」を表すことばです。最近ではスポーツ界でよく聞く言葉で、メジャーリーガーのイチロー選手のルーティンや、昨年はラグビーの五郎丸選手のルーティンが話題になりました。イチロー選手や、五郎丸選手が、ルーティンを取り入れる理由は、ストレスを減らすためであったり、プレーに集中するためであるようです。また行動科学の分野では「外的な刺激に惑わされずに自分の道を貫くための行動」と説明されます。
さて民数記28章、29章に記されている「いけにえ規程」については、28章2節に次のように書かれています。「定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない」と。つまり28章、29章の「いけにえ規程」は、「毎日」行なうこと、「毎週」安息日に行なうこと、「第一の月」に行なうこと、そして今回の民数記29章では「第七の月」に行なう「ルーティン」が記されています。
ルーティンの恵みは、先のスポーツ選手でも取り上げた通りで、イスラエルの民からストレスをなくすことであったり、日々の生活に集中するためと言えます。また行動科学から考えるならば、まさに外的な刺激に惑わされず神さまを信じ続ける道を貫くための大切な行動です。
私たちも日々の生活の中で「ルーティンの心地よさ」を経験します。例えば毎朝短くてもデボーションができると、それだけで心が落ち着きます。主日礼拝も同様、礼拝を献げないで始まる週と、礼拝をもって始める週ではストレスのかかり具合が違います。
「日々のデボーション」「毎週の礼拝」というルーティンが、ストレスを減らし、自らの道を貫く力になることを覚えつつ、これからもそれらのルーティンを大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
民数記28章、29章は、定められた時におこなういけにえの規程が記されています。それを読みながら神さまが、イスラエルの民に課した「ルーティン」だと感じました。「ルーティン」とは、「決められた一連の動き」を表すことばです。最近ではスポーツ界でよく聞く言葉で、メジャーリーガーのイチロー選手のルーティンや、昨年はラグビーの五郎丸選手のルーティンが話題になりました。イチロー選手や、五郎丸選手が、ルーティンを取り入れる理由は、ストレスを減らすためであったり、プレーに集中するためであるようです。また行動科学の分野では「外的な刺激に惑わされずに自分の道を貫くための行動」と説明されます。
さて民数記28章、29章に記されている「いけにえ規程」については、28章2節に次のように書かれています。「定められた時に、気をつけてわたしにささげなければならない」と。つまり28章、29章の「いけにえ規程」は、「毎日」行なうこと、「毎週」安息日に行なうこと、「第一の月」に行なうこと、そして今回の民数記29章では「第七の月」に行なう「ルーティン」が記されています。
ルーティンの恵みは、先のスポーツ選手でも取り上げた通りで、イスラエルの民からストレスをなくすことであったり、日々の生活に集中するためと言えます。また行動科学から考えるならば、まさに外的な刺激に惑わされず神さまを信じ続ける道を貫くための大切な行動です。
私たちも日々の生活の中で「ルーティンの心地よさ」を経験します。例えば毎朝短くてもデボーションができると、それだけで心が落ち着きます。主日礼拝も同様、礼拝を献げないで始まる週と、礼拝をもって始める週ではストレスのかかり具合が違います。
「日々のデボーション」「毎週の礼拝」というルーティンが、ストレスを減らし、自らの道を貫く力になることを覚えつつ、これからもそれらのルーティンを大切にしていきましょう。(吉持日輪生)
阻止してくださる父なる神さま、花婿なるイエスさま ― 2017年07月30日
もし父がそれを聞いた日に彼女にそれを禁じるなら、彼女の誓願、または、物断ちはすべて無効としなければならない。 民数記30章5節a
もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。
民数記30章8節a
民数記30章に記されている「婦人の誓願の有効性に関する規定」は、民数記だけに記されているものです。レビ記5章や27章、そして民数記6章、申命記23章などに誓願について記されていますが、婦人に関する誓願について詳しく記しているのはここ民数記30章のみです。
さて「誓願」には二種類あることが読み取れます。2節に「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物絶ちをしようと誓いをするなら」とある通り、「自ら進んで主に献げるという誓願」と「ある一定期間、あることをしないとか、あるものを口に入れないという誓願」の2種類です。
現代の私たちの生活にも「物絶ち」がありますし、また教会の「奉仕」も「自ら進んで主に時間を献げる」と言い換えると「誓願」の一つと考えられます。このような私たちも触れることのある「誓願」や、「物絶ち」に対して、民数記30章における特徴は、私たちにはない、その「物絶ち」「誓願」を阻止するルールがあることです。旧約聖書の時代から「物絶ち」「誓願」を阻止する制度、決まりがはっきりあったことは、とても興味深いものです。その一つが、父親による阻止であり、もう一つが夫による阻止です。一時の感情に流され発せられる「物絶ち」「誓願」であるならば、冷静な父親、冷静な夫が、阻止できるというのは、とても良い制度です。
ではこんにちの私たちにとって、この制度はどのように適用されるのでしょうか。実際の父親、実際の夫に適応することも一つですが、信仰的には「父なる神さま」「花婿なるイエスさま」に適応することが大切です。そしてこの民数記30章のルールが、三位一体の神さまから出ていることを思う時、私たちの安心、平安は、私たちの「物絶ち」「誓願」に対して、「父なる神さま」も、「花婿なるイエスさま」も、反対である時は、それを知った際に、必ず阻止してくださることです。だからこそ今週も、自分の中にある思いをすべて、神さまの前にさらけだし、「反対である時は、スグに阻止してください。みこころならば進めて下さい」と祈りつつ歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
もし彼女の夫がそれを聞いた日に彼女に禁じるなら、彼は、彼女がかけている誓願や、物断ちをするのに無思慮に言ったことを破棄することになる。
民数記30章8節a
民数記30章に記されている「婦人の誓願の有効性に関する規定」は、民数記だけに記されているものです。レビ記5章や27章、そして民数記6章、申命記23章などに誓願について記されていますが、婦人に関する誓願について詳しく記しているのはここ民数記30章のみです。
さて「誓願」には二種類あることが読み取れます。2節に「人がもし、主に誓願をし、あるいは、物絶ちをしようと誓いをするなら」とある通り、「自ら進んで主に献げるという誓願」と「ある一定期間、あることをしないとか、あるものを口に入れないという誓願」の2種類です。
現代の私たちの生活にも「物絶ち」がありますし、また教会の「奉仕」も「自ら進んで主に時間を献げる」と言い換えると「誓願」の一つと考えられます。このような私たちも触れることのある「誓願」や、「物絶ち」に対して、民数記30章における特徴は、私たちにはない、その「物絶ち」「誓願」を阻止するルールがあることです。旧約聖書の時代から「物絶ち」「誓願」を阻止する制度、決まりがはっきりあったことは、とても興味深いものです。その一つが、父親による阻止であり、もう一つが夫による阻止です。一時の感情に流され発せられる「物絶ち」「誓願」であるならば、冷静な父親、冷静な夫が、阻止できるというのは、とても良い制度です。
ではこんにちの私たちにとって、この制度はどのように適用されるのでしょうか。実際の父親、実際の夫に適応することも一つですが、信仰的には「父なる神さま」「花婿なるイエスさま」に適応することが大切です。そしてこの民数記30章のルールが、三位一体の神さまから出ていることを思う時、私たちの安心、平安は、私たちの「物絶ち」「誓願」に対して、「父なる神さま」も、「花婿なるイエスさま」も、反対である時は、それを知った際に、必ず阻止してくださることです。だからこそ今週も、自分の中にある思いをすべて、神さまの前にさらけだし、「反対である時は、スグに阻止してください。みこころならば進めて下さい」と祈りつつ歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)
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