時にかなった助け2017年06月04日

民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」           民数記21章5節 
 
民数記21章を読むと、上記にある通り、再びイスラエルの民が食べ物のことでモーセに逆らっています。けれどもこれまでの民の逆らいと、民数記21章での民の逆らいとの間には、大きな違いがありました。その違いとは、民数記20章最後に記されているモーセの兄アロンの死です。
民数記20章23~26節「主は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。『アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ』」。
つまり、これまでモーセは3歳年上のアロンと共に行動してきたのですが、民数記21章からは、アロン不在の中、民への対応をしなければなりませんでした。当然寂しく、心細く、戸惑ったことでしょう。そういう意味で民数記21章の民の逆らいは、これまでのものと違ったのです。
さて神さまは、兄アロン不在の中、モーセに「青銅の蛇を作る」ように指示しています。民数記21章9節「モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」。そしてその「青銅の蛇」について、新約聖書では次のような言及があります。ヨハネの福音書3章14~15節「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」。
アロン不在で寂しく、心細く、戸惑っていたモーセに、神さまは、救い主イエスさまのイメージが重なる「青銅の蛇」を備えてくださいました。そして神さまは、今も、時にかなった助けを、私たちに与えてくださいます。その神さまに信頼して今週も歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

預言者とはどういう人か2017年06月11日

その夜、神はバラムのところに来て、彼に言われた。「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え。」              民数記22章20節 

民数記22章に登場する主要人物2人の名前がとても似ていて、内容を理解する上で惑わされます。ひとりはモアブの王でツィポルの子バラク。もうひとりはベオルの子バラムです。バラムについては、新約聖書ペテロの手紙第二2章16節で「預言者」と紹介されています。ここではバラク王と預言者バラム、と表現したいと思います。
さてバラク王は、エジプトから出てきたイスラエル人を脅威に思い(2、3節)、イスラエル人をのろってもらうため、預言者バラムのところへ使いを出します。預言者バラムへの神さまの答えは、はっきりしていました。12節「あなたは彼らといっしょに行ってはならない。またその民をのろってもいけない。その民は祝福されているからだ」と言われます。そのため預言者バラムは、いっしょに行きませんでした。しかしバラク王は諦めず、さらに「前よりも大ぜいの、しかも位の高いつかさたち」(15節)を遣わします。その時、預言者バラムに告げられたことばは「立って彼らとともに行け。だが、あなたはただ、わたしがあなたに告げることだけを行え」(20節)でした。そのため預言者バラムは出かけますが、途中ろばと預言者バラムとの不思議な出来事があり、その中で預言者バラムは再び主の使いから「この人たちといっしょに行け。だが、わたしがあなたに告げることばだけを告げよ」(35節)と言われます。
結局、この22章では、このバラク王と預言者バラムのやりとりが記されているだけですが、この章ほど「預言者」の役割をしっかり言い表わしている箇所はありません。「わたしがあなたに告げることばだけを告げる」。これが預言者の役割でした。
コリント人への手紙第一13章に「預言の賜物」、また14章には「預言する者」ということばがありますが、「聖書」という書物が与えられている私たちにとって「聖書」以上に確かな預言のことばはありません。ですからこんにちの「預言の賜物」「預言する者」とは、「神さまから告げられたことば、すなわち聖書のことばを告げる人たち」となります。預言の賜物が与えられている方々が、ますます、しっかりとこの役割を担っていけるように祈りましょう。(吉持日輪生)

忠実な預言者なのか、貪欲な預言者なのか2017年06月18日

彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。            ペテロの手紙第二2章15節 

民数記23章、24章には、預言者バラムによる4つの預言のことばが記されています。一つ目は23章7~10節、二つ目は23章18~24節、三つ目が24章3~9節、四つ目が24章15~19節です。そして、そのすべてがイスラエルを祝福することばでした。バラク王は、三つ目の預言のことばを聞いたところで怒りを燃やします。しかし怒りたくなる気持ちもわかります。23章に記されている二つの預言を聞くためにバラク王は、預言者バラムの要請により祭壇を築くところから始めています。しかも一つの祭壇ではなく七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊を献げています。しかもそれを二つの場所で行なっています。つまりバラク王は、労力をかけ、時間をかけ、多くの犠牲をはらったにもかかわらず、聞くことのできた預言のことばは、イスラエルを祝福することばだけでした。そのことを考えるとバラク王が怒りに燃えるのもよくわかります。
一方、私たちが民数記23章、24章を読みながら感じることは、預言者バラムの忠実な姿です。バラク王を恐れることなく、まっすぐに神さまからの預言のことばを語る預言者バラムの姿には感銘を受けます。しかし、新約聖書における預言者バラムの評価は、正反対です。上記冒頭に引用したペテロの手紙第二では「不義の報酬を愛したベオルの子バラム」と紹介され、ユダの手紙11節では「利益のためにバラムの迷いに陥り」と貪欲な預言者バラムの姿が紹介されています。ではいったいどこに預言者バラムの貪欲さがあったのでしょうか。そこには、民数記23章、24章を通して現わされている「決めたことを変えない神さまの姿」が関係してきます。そのことを知っていた預言者バラムは、民数記22章で最初に神さまから「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。その民をのろってもいけない」(12節)と語られながら、バラク王の手厚い誘いを断わり続けることができず、バラク王について行ってしまっています。そこに「預言者バラムの貪欲さ」があったのでしょう。
私たちも、貪欲さから解放され、変わることのない神さまの約束のことばを、しっかり握りしめ、今週も神さまと共に歩ませていただきましょう。(吉持日輪生)

神さまの創造の時から2017年06月25日

娘たちは、自分たちの神々にいけにえをささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。
民数記25章2~3節 
 
民数記25章では、イスラエルの民がモアブの娘たちと関わり、影響され、娘たちの神々を拝むようになっていく姿が記されています。女性が持っている影響力の強さを感じます。けれどもこのような女性の特徴は、ここだけではありません。聖書の初めから、この天地が創造された時から見ることのできる特徴です。創世記2章で女性が造られる経緯が記されていますが、そこにはこのように書かれています。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう」(創世記2章23節a)。この表現は、男性にとって「女」が、「私の骨」「私の肉」と言いたくなる程、私(男性)の中に影響を与え、なくてはならない存在であることが、言い表わされている叫びとして読むことができます。さらに創世記3章では、その具体例として、神さまから食べてはならないと命じられていた木の実を、女に影響され、男が食べてしまう出来事が記されています。
このような創造の時からの「女」の特徴をふまえて民数記25章を読むと、創世記に記されているのと同様、イスラエルの民も、モアブの娘たちから影響を受け、異教の神バアル・ペオルを慕うようになっています。まさに女性の影響力は絶大です。
ですから私たちも、聖書を通して、男性は、女性に影響されやすい弱さがあることをよくわきまえつつ歩みましょう。また女性は、男性に影響を与えやすい神さまからのこの素晴らしい賜物が与えられていることを意識し、その賜物を、悪い影響を与えるために用いるのではなく、良い影響を与えるために用いるように心がけましょう。
今週も、男性、女性、それぞれの特徴を活かしつつ、神の家族としての歩みを共に進めていきましょう。(吉持日輪生)