20160501 「似たもの」「似た使い方」に惑わされない ― 2016年05月01日
①これ(聖なるそそぎの油)をだれのからだにもそそいではならない。また、この割合で、これと似たものを作ってはならない。これは聖なるものであり、あなたがたにとっても聖なるものとしなければならない。すべて、これと似たものを調合する者、または、これをほかの人につける者は、だれでもその民から断ち切られなければならない。 出エジプト記30章32~33節
②あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。 出エジプト記30章37~38節
①の聖句は「聖なるそそぎの油」、②は「聖なる純粋な香油」と用途の違うものですが、上記聖書箇所を読むと、その扱いは似ています。①の用途は「注ぐための油」で、②は「焚いて香りを出すための油」です。このように使用目的が違うのですが、扱い方は似ています。例えば「似たものを作ってはならないこと」(32節、38節)、「間違った使い方をすると民から断ち切られること」(33節、38節)です。つまり「似たもの」「似た使い方」を禁じているのですが、これは新約聖書における「にせキリスト」(マタイ24章24節、マルコ13章22節)の存在につながります。イエスさまと似たような言動があっても、イエスさまと似たようなしるしがなされても、私たちが信じるのは「前もって話しました」(マタイ24章25節、マルコ13章23節)と言われている「福音書に記されているイエスさまの言動」です。ですから私たちは、「似たもの」「似た使い方」に惑わされないために、日々聖書のことばに親しみ、「聖書」に記されていることを信じるのです。
今週も、週刊ディボーションガイド「オメル」などを用いながら、しっかりみことばに親しみ、「似たもの」「似た使い方」に惑わされない歩みを重ねていきましょう。
*来週からしばらく、今春赴任した吉持尽主伝道師が、自己紹介と神学校で学んできたことを執筆します。 (吉持日輪生牧師)
②あなたが作る香は、それと同じ割合で自分自身のために作ってはならない。あなたは、それを主に対して聖なるものとしなければならない。これと似たものを作って、これをかぐ者はだれでも、その民から断ち切られる。 出エジプト記30章37~38節
①の聖句は「聖なるそそぎの油」、②は「聖なる純粋な香油」と用途の違うものですが、上記聖書箇所を読むと、その扱いは似ています。①の用途は「注ぐための油」で、②は「焚いて香りを出すための油」です。このように使用目的が違うのですが、扱い方は似ています。例えば「似たものを作ってはならないこと」(32節、38節)、「間違った使い方をすると民から断ち切られること」(33節、38節)です。つまり「似たもの」「似た使い方」を禁じているのですが、これは新約聖書における「にせキリスト」(マタイ24章24節、マルコ13章22節)の存在につながります。イエスさまと似たような言動があっても、イエスさまと似たようなしるしがなされても、私たちが信じるのは「前もって話しました」(マタイ24章25節、マルコ13章23節)と言われている「福音書に記されているイエスさまの言動」です。ですから私たちは、「似たもの」「似た使い方」に惑わされないために、日々聖書のことばに親しみ、「聖書」に記されていることを信じるのです。
今週も、週刊ディボーションガイド「オメル」などを用いながら、しっかりみことばに親しみ、「似たもの」「似た使い方」に惑わされない歩みを重ねていきましょう。
*来週からしばらく、今春赴任した吉持尽主伝道師が、自己紹介と神学校で学んできたことを執筆します。 (吉持日輪生牧師)
20160508 なぜ旧約聖書を読むのか ― 2016年05月08日
また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 テモテへの手紙第2 3章15節
今回の恵泉から、4月に茨木聖書教会の伝道師として赴任しました吉持尽主が担当させていただきます。はじめに、自己紹介をし、その後、私たちが旧約聖書を読む理由を一緒に考えていきたいと思います。
私は、17歳の時に救いと献身の思いが確かにされ、高校卒業後は東京基督教大学に入学しました。その後、同大学の大学院に進み、修士課程を修了し、4月から伝道師としての歩みをしています。大学院では、旧約学を専攻していました。そのため、恵泉では、共に旧約聖書に親しむことができたらと思っています。共に旧約聖書に親しみ、共に神様を知る恵泉となっていけばと願っています。
さて今回は、「なぜ旧約聖書を読むのか」ということを共に考えていきたいと思います。新約聖書はイエス様が生まれた以後の話であるのに対して、旧約聖書とはイエス様が生まれる以前のことが書かれています。名前の通り、旧い約束ですから、イエス様の到来によって新しい約束、新しい命令が与えられ、もう旧いものは必要のないように思ってしまいます。実際に、必要がないように扱われてきました。さらに組織神学では、旧約聖書はキリストを証しするものであり、新約聖書を補助するもののように主張されています。確かにそうであると思いますが、旧約聖書は新約聖書を読んだ上で、それを補うために読むものなのでしょうか。
そうではないと思います。イエス様の時代「聖書」とは、新約聖書が存在しなかったため、「旧約聖書」のことを指します。上に記した聖書箇所を見てください。聖書、つまり「旧約聖書」は、「キリスト・イエスに対する信仰による救いのための知恵を与える」と述べられているのです。つまり、旧約聖書は、魂の救いをもたらすのです。それはそうでしょう。なぜなら、旧約聖書にはキリストが記されており、キリストが記されているなら福音が記されているのですから。なぜ、旧約聖書を読むのか。それは、救いを得るためです。これから、皆さんと共に旧約聖書を読み、共に救いへと導かれればと願っています。(吉持尽主伝道師)
今回の恵泉から、4月に茨木聖書教会の伝道師として赴任しました吉持尽主が担当させていただきます。はじめに、自己紹介をし、その後、私たちが旧約聖書を読む理由を一緒に考えていきたいと思います。
私は、17歳の時に救いと献身の思いが確かにされ、高校卒業後は東京基督教大学に入学しました。その後、同大学の大学院に進み、修士課程を修了し、4月から伝道師としての歩みをしています。大学院では、旧約学を専攻していました。そのため、恵泉では、共に旧約聖書に親しむことができたらと思っています。共に旧約聖書に親しみ、共に神様を知る恵泉となっていけばと願っています。
さて今回は、「なぜ旧約聖書を読むのか」ということを共に考えていきたいと思います。新約聖書はイエス様が生まれた以後の話であるのに対して、旧約聖書とはイエス様が生まれる以前のことが書かれています。名前の通り、旧い約束ですから、イエス様の到来によって新しい約束、新しい命令が与えられ、もう旧いものは必要のないように思ってしまいます。実際に、必要がないように扱われてきました。さらに組織神学では、旧約聖書はキリストを証しするものであり、新約聖書を補助するもののように主張されています。確かにそうであると思いますが、旧約聖書は新約聖書を読んだ上で、それを補うために読むものなのでしょうか。
そうではないと思います。イエス様の時代「聖書」とは、新約聖書が存在しなかったため、「旧約聖書」のことを指します。上に記した聖書箇所を見てください。聖書、つまり「旧約聖書」は、「キリスト・イエスに対する信仰による救いのための知恵を与える」と述べられているのです。つまり、旧約聖書は、魂の救いをもたらすのです。それはそうでしょう。なぜなら、旧約聖書にはキリストが記されており、キリストが記されているなら福音が記されているのですから。なぜ、旧約聖書を読むのか。それは、救いを得るためです。これから、皆さんと共に旧約聖書を読み、共に救いへと導かれればと願っています。(吉持尽主伝道師)
20160515 旧約聖書の読み方 ― 2016年05月15日
さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は【主】に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」 士師記1章1節
前回は、旧約聖書は魂の救いのために読むということを確認しました。今回は、旧約聖書の読み方ということに注目します。
旧約聖書と新約聖書では、読み方を変える必要があります。なぜなら、旧約聖書と新約聖書では、その書物の構成に大きな違いがあるからです。新約聖書は、別個に書かれた書物の集合体です。パウロの手紙は、それぞれが異なった状況下によって書かれ、何か一つの物語で繋がっているわけではありません。また、福音書もそれぞれの福音書によって、それぞれの特徴やそれぞれの伝えたいことが異なることがあるため、福音書ごとの特徴や伝えたいことを理解しようとする必要があります。
一方で、旧約聖書は、歴史書という分類があり、創世記から始まりネヘミヤ・エズラまで順序通りに書かれ、並べられています。このように、旧約聖書は、その大部分が(具体的には、預言書や聖文書※を除く)一貫した物語であり、書物間に繋がりがあるのです。そして、この一貫した物語は新約聖書に繋がります。
このような構造がゆえに、旧約聖書は「順序通りに読む」ということが重要になってきます。具体的には、ある物語を読む上で、その物語が出エジプト記に登場するのであれば、それ以前の出エジプト記の箇所か創世記の記述をもって、理解していくということです。
上の箇所を見てください。これは士師記の冒頭部分ですが、「さて」という言葉で始まっています。原語のヘブライ語でも接続詞である וְ が使われており、前の書物との関連があることが表されています。このように、旧約聖書は各書物が繋がっているのです。
旧約聖書を豊かに読むためにも「順序通りに読む」ということを意識して読みましょう。
※聖文書=ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌。 (吉持尽主伝道師)
前回は、旧約聖書は魂の救いのために読むということを確認しました。今回は、旧約聖書の読み方ということに注目します。
旧約聖書と新約聖書では、読み方を変える必要があります。なぜなら、旧約聖書と新約聖書では、その書物の構成に大きな違いがあるからです。新約聖書は、別個に書かれた書物の集合体です。パウロの手紙は、それぞれが異なった状況下によって書かれ、何か一つの物語で繋がっているわけではありません。また、福音書もそれぞれの福音書によって、それぞれの特徴やそれぞれの伝えたいことが異なることがあるため、福音書ごとの特徴や伝えたいことを理解しようとする必要があります。
一方で、旧約聖書は、歴史書という分類があり、創世記から始まりネヘミヤ・エズラまで順序通りに書かれ、並べられています。このように、旧約聖書は、その大部分が(具体的には、預言書や聖文書※を除く)一貫した物語であり、書物間に繋がりがあるのです。そして、この一貫した物語は新約聖書に繋がります。
このような構造がゆえに、旧約聖書は「順序通りに読む」ということが重要になってきます。具体的には、ある物語を読む上で、その物語が出エジプト記に登場するのであれば、それ以前の出エジプト記の箇所か創世記の記述をもって、理解していくということです。
上の箇所を見てください。これは士師記の冒頭部分ですが、「さて」という言葉で始まっています。原語のヘブライ語でも接続詞である וְ が使われており、前の書物との関連があることが表されています。このように、旧約聖書は各書物が繋がっているのです。
旧約聖書を豊かに読むためにも「順序通りに読む」ということを意識して読みましょう。
※聖文書=ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌。 (吉持尽主伝道師)
20160522 旧約聖書の原語 ― 2016年05月22日
心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。申命記6章5節
前回は、旧約聖書を「順序通り」読みましょうということでしたが、今回は、旧約聖書の原語について見ていきたいと思います。私たちは、現在、日本語の聖書を読むことができますが、旧約聖書は、元々、ヘブライ語※で書かれています。中には、アラム語で書かれた箇所もありますが、大部分はヘブライ語です。つまり、日本語の聖書は翻訳された聖書なのです。そのため、元々のヘブライ語と日本語とでは、意味やニュアンスにおいて多少の違いが生まれる箇所があります。訳すときに、どうしても訳しにくいことがあるのです。これは、日本語と英語にもあてはまります。例えば、日本語の「よろしくお願いします」は、英語には訳しにくいと言われています。日本語では様々な場面で「よろしくお願いします」を使いますが、それを英語に訳そうとすると、場面ごとに違う文章に訳し分けなければなりません。このようなことは、日本語とヘブライ語でも起こるのです。
その一つが、上の聖書箇所です。上の箇所では、〇〇を尽くして、神を愛せよと、「尽くす」「愛する」と2つの動詞があります。しかし、ヘブライ語を直訳すると、「全ての心で、全ての魂で、全ての力であなたの神である主を愛しなさい。」となります。つまり、「尽くす」という動詞はないのです。このように、日本語とヘブライ語では意味やニュアンスが異なることがあるのです。
私の名前は「尽主(つくす)」ですが、上の聖書箇所に由来する名前です。主に尽くす人になるようにという思いが込められています。しかし、旧約聖書の原語のヘブライ語では、「尽くす」という動詞はありません。そのため、私の名前は、聖書的な名前だけど、聖書的ではないという、何とも微妙な立場の名前なのです。そんな自虐ネタはさておき、今回、覚えておきたいのは、日本語とヘブライ語では多少の意味の違いがあるということです。上の箇所はほんの一例であり、他にもたくさんの箇所があります。その幾つかを次号からお分かちできればと願っています。
※旧約聖書が書かれた時代のヘブライ語のため、現代のヘブライ語とは異なります。 (吉持尽主伝道師)
20150529 「罪を犯す」と「ハーター」 ― 2016年05月29日
パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。 出エジプト記9章34節
前回は、日本語とヘブライ語では多少の意味の違いがあるということを確認しました。今回からは、その幾つかの例を見ていきます。
今回は、「罪を犯す」という表現に注目します。「罪を犯す」とは、見ての通りですが、日本語では、「罪を/犯す」という構造になっています。ここから、何か悪いことをするという意味や、何かを犯すことによって罪に至るというような意味合いが読み取れます。そのため、「罪を犯す」と聞くと、多くの日本人は、法律に違反する行為を思い浮かべます。また、教会では、「罪を犯す」とは神様の言葉に対して背くことや、神様の命令に逆らうことなどの、外的行為を指す時に多く使われます。
しかし、ヘブライ語では、「ハーター」という動詞一語です。つまり、元々は動詞一語の言葉が、日本語に訳された時に「罪を」という目的語と「犯す」という動詞の二語になったのです。これは大きな違いです。
具体的にどのような違いが見られるでしょうか。その例が、上の箇所です。この箇所の「罪を犯し」は、ハーターが使われています。そして、この箇所では「罪を犯す」という言葉は、「強情になった」と並行関係にあります。つまり、「罪を犯す」と訳されている「ハーター」は、心的状態を指して用いられているのです。さらに、聖書を詳しく見ていけば、「ハーター」は心的状態を指して使われることが多いのを確認することができます。つまり、「罪を/犯す」という翻訳によって違反行為という外的な行為に注目が集まりやすいのですが、本来、「ハーター」は、心的状態、内面を指す言葉として使われることが多かったのです。
今回は、日本語とヘブライ語との意味の違いの一例として、「罪を犯す」と「ハーター」の違いを見てきました。私たちが、日々歩む中で、違反行為をしていないから罪ではないとか、何かをしてしまったから罪だと考えていませんか。そうではなく、自らの心を問い、その心が罪に陥っていないかということを顧みた方が良いのかもしれません。 (吉持尽主伝道師)
前回は、日本語とヘブライ語では多少の意味の違いがあるということを確認しました。今回からは、その幾つかの例を見ていきます。
今回は、「罪を犯す」という表現に注目します。「罪を犯す」とは、見ての通りですが、日本語では、「罪を/犯す」という構造になっています。ここから、何か悪いことをするという意味や、何かを犯すことによって罪に至るというような意味合いが読み取れます。そのため、「罪を犯す」と聞くと、多くの日本人は、法律に違反する行為を思い浮かべます。また、教会では、「罪を犯す」とは神様の言葉に対して背くことや、神様の命令に逆らうことなどの、外的行為を指す時に多く使われます。
しかし、ヘブライ語では、「ハーター」という動詞一語です。つまり、元々は動詞一語の言葉が、日本語に訳された時に「罪を」という目的語と「犯す」という動詞の二語になったのです。これは大きな違いです。
具体的にどのような違いが見られるでしょうか。その例が、上の箇所です。この箇所の「罪を犯し」は、ハーターが使われています。そして、この箇所では「罪を犯す」という言葉は、「強情になった」と並行関係にあります。つまり、「罪を犯す」と訳されている「ハーター」は、心的状態を指して用いられているのです。さらに、聖書を詳しく見ていけば、「ハーター」は心的状態を指して使われることが多いのを確認することができます。つまり、「罪を/犯す」という翻訳によって違反行為という外的な行為に注目が集まりやすいのですが、本来、「ハーター」は、心的状態、内面を指す言葉として使われることが多かったのです。
今回は、日本語とヘブライ語との意味の違いの一例として、「罪を犯す」と「ハーター」の違いを見てきました。私たちが、日々歩む中で、違反行為をしていないから罪ではないとか、何かをしてしまったから罪だと考えていませんか。そうではなく、自らの心を問い、その心が罪に陥っていないかということを顧みた方が良いのかもしれません。 (吉持尽主伝道師)
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