20151004 聖書に見られる数的な祝福 ― 2015年10月04日
イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。 出エジプト記1章7節
笠川路人先生による自己紹介と神学校で学んできたことの要約が終わりましたので、また聖書を1章ずつ読み進めていきたいと思います。6月に創世記を読み終えましたので、今日から出エジプト記を読み進めていきましょう。
さてこの1章には、イスラエルの「数的な祝福」が繰り返し記されています。1つ目は上記聖書箇所。2つ目は12節「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた」。3つ目は20節「神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった」と記されています。しかも、その「数的な祝福」は、良い環境の中で生まれたものではありません。「ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ」(6節)状況の中で増え広がり、また「彼らを苦役で苦しめる」(11節)状況の中で益々増え広がり、助産婦たちに命じて「男の子なら、それを殺さなければならない」(16節)との残酷な命令の中でも「民はふえ、非常に強くなった」と記されています。
イエスさまも、お弟子さんたちに「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」と語られ、その通りキリスト者は歴史を見ると憎まれること、迫害されることが、多々ありましたが、今も現在進行形でクリスチャンは増え広がっています。つまり神さまを信じ、クリスチャンになることは、苦しみにあわなくなることではありません。むしろこれまで通り、またはそれ以上に苦しむこと、辛いこと、しんどいことが訪れることでしょう。けれども私たちの確信は、その中でも私たちは祝福され、目に見える形で、数で把握できる形で、神さまは私たちを祝福して下さることです。収穫の秋、私たちは、たとえ苦しみの中にあっても、神さまからの祝福の収穫を目に見える形で受け取れることを期待しつつ、今週も歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
笠川路人先生による自己紹介と神学校で学んできたことの要約が終わりましたので、また聖書を1章ずつ読み進めていきたいと思います。6月に創世記を読み終えましたので、今日から出エジプト記を読み進めていきましょう。
さてこの1章には、イスラエルの「数的な祝福」が繰り返し記されています。1つ目は上記聖書箇所。2つ目は12節「しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた」。3つ目は20節「神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった」と記されています。しかも、その「数的な祝福」は、良い環境の中で生まれたものではありません。「ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ」(6節)状況の中で増え広がり、また「彼らを苦役で苦しめる」(11節)状況の中で益々増え広がり、助産婦たちに命じて「男の子なら、それを殺さなければならない」(16節)との残酷な命令の中でも「民はふえ、非常に強くなった」と記されています。
イエスさまも、お弟子さんたちに「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます」と語られ、その通りキリスト者は歴史を見ると憎まれること、迫害されることが、多々ありましたが、今も現在進行形でクリスチャンは増え広がっています。つまり神さまを信じ、クリスチャンになることは、苦しみにあわなくなることではありません。むしろこれまで通り、またはそれ以上に苦しむこと、辛いこと、しんどいことが訪れることでしょう。けれども私たちの確信は、その中でも私たちは祝福され、目に見える形で、数で把握できる形で、神さまは私たちを祝福して下さることです。収穫の秋、私たちは、たとえ苦しみの中にあっても、神さまからの祝福の収穫を目に見える形で受け取れることを期待しつつ、今週も歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
20151011 神さまの備え、神様の訓練 ― 2015年10月11日
パロはこのこと(モーセがエジプト人を殺害したこと)を聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。 出エジプト記2章15節
出エジプト記2章を読む時、神さまの備え、神さまの訓練の素晴らしさを教えられます。モーセは40歳になった時(使徒の働き7章23節)、自分の手で奴隷状態の中にあったイスラエル人をエジプトから解放しようと行動しますが失敗します。しかし、その自分の思いで行動したことに失敗した時、神さまの訓練が始まりました。失敗したモーセが、エジプトから逃れて住んだ場所、ミデヤンは、後にイスラエルの民がエジプトから脱出する時に旅するシナイ半島ととても環境が似ている砂漠地帯でした。しかも、モーセがこのミデヤンの地に住んだ期間も、モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出し荒野を旅する期間と同じ40年でした(使徒の働き7章30節、36節)。つまり神さまは、モーセの失敗、挫折をもって、イスラエルの民を導くための備えとし、逃れたミデヤンの地で、荒野がどのような場所で、どのように生活をしたらよいのかを訓練する時としてくださったのです。
そしてもう一つ触れておきたいことは、このモーセに対する神さまの備え、訓練を可能にしたふたりの心です。出エジプト記2章2節に「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた」と記されています。ここには、生まれたばかりのモーセを「いとおしむ」心が現わされています。そしてその心は、パロの娘へつながっていきます。出エジプト記2章6節「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い・・・」とパロの娘の「あわれみ」の心が記されています。この「いとおしむ」心と「あわれみ」の心が、モーセに対する神さまの備え、訓練を現実のものへとつなげていきました。私たちも「いとおしむ」心、「あわれみ」の心を大切にしながら、素晴らしい神さまの備え、神さまの訓練に与る機会をいただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
出エジプト記2章を読む時、神さまの備え、神さまの訓練の素晴らしさを教えられます。モーセは40歳になった時(使徒の働き7章23節)、自分の手で奴隷状態の中にあったイスラエル人をエジプトから解放しようと行動しますが失敗します。しかし、その自分の思いで行動したことに失敗した時、神さまの訓練が始まりました。失敗したモーセが、エジプトから逃れて住んだ場所、ミデヤンは、後にイスラエルの民がエジプトから脱出する時に旅するシナイ半島ととても環境が似ている砂漠地帯でした。しかも、モーセがこのミデヤンの地に住んだ期間も、モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出し荒野を旅する期間と同じ40年でした(使徒の働き7章30節、36節)。つまり神さまは、モーセの失敗、挫折をもって、イスラエルの民を導くための備えとし、逃れたミデヤンの地で、荒野がどのような場所で、どのように生活をしたらよいのかを訓練する時としてくださったのです。
そしてもう一つ触れておきたいことは、このモーセに対する神さまの備え、訓練を可能にしたふたりの心です。出エジプト記2章2節に「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた」と記されています。ここには、生まれたばかりのモーセを「いとおしむ」心が現わされています。そしてその心は、パロの娘へつながっていきます。出エジプト記2章6節「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い・・・」とパロの娘の「あわれみ」の心が記されています。この「いとおしむ」心と「あわれみ」の心が、モーセに対する神さまの備え、訓練を現実のものへとつなげていきました。私たちも「いとおしむ」心、「あわれみ」の心を大切にしながら、素晴らしい神さまの備え、神さまの訓練に与る機会をいただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
20151018 ― 2015年10月18日
主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。…」 出エジプト記3章7節
「わたしは彼らの痛みを知っている」。とても励まされることばであり、慰められることばです。聖書の神さまは、私たちの祈り、叫びを聞いて下さるだけでなく、また私たちのしいたげられている様子を見られるだけでなく、私たちの痛みを知っていてくださるお方です。
そしてこの神さまのご性質は、新約聖書のイエスさまへと受け継がれていきます。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ書53章4節)。「そして自分(イエスさま)から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(第1ペテロ2章24節)。
神さまは、具体的に痛みを知っていてくださるお方だからこそ、見ているだけ、聞いているだけではなく、イスラエルを救うために具体的にモーセを遣わされ、また私たちのためにイエスさまをお遣わしになりました。そしてイエスさまは、私たちの救いのために具体的に十字架に架かられ、苦しまれたのです。
さて、そのような神さまを「私の神」として礼拝を献げる私たちは、聖書の神さまの姿勢に倣い、隣人が悩んでいる姿を見ているだけでなく、隣人の叫びを聞くだけでもなく、私たちも隣人の痛みを理解し、その痛みの一部を担う者として歩みたいものです。そこにこそ私たちが地の塩、世の光として存在していく意味があるのです。今週も、神さまの姿になり具体的に「痛みを知る」者、担う者として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
「わたしは彼らの痛みを知っている」。とても励まされることばであり、慰められることばです。聖書の神さまは、私たちの祈り、叫びを聞いて下さるだけでなく、また私たちのしいたげられている様子を見られるだけでなく、私たちの痛みを知っていてくださるお方です。
そしてこの神さまのご性質は、新約聖書のイエスさまへと受け継がれていきます。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」(イザヤ書53章4節)。「そして自分(イエスさま)から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(第1ペテロ2章24節)。
神さまは、具体的に痛みを知っていてくださるお方だからこそ、見ているだけ、聞いているだけではなく、イスラエルを救うために具体的にモーセを遣わされ、また私たちのためにイエスさまをお遣わしになりました。そしてイエスさまは、私たちの救いのために具体的に十字架に架かられ、苦しまれたのです。
さて、そのような神さまを「私の神」として礼拝を献げる私たちは、聖書の神さまの姿勢に倣い、隣人が悩んでいる姿を見ているだけでなく、隣人の叫びを聞くだけでもなく、私たちも隣人の痛みを理解し、その痛みの一部を担う者として歩みたいものです。そこにこそ私たちが地の塩、世の光として存在していく意味があるのです。今週も、神さまの姿になり具体的に「痛みを知る」者、担う者として歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
20151025 拒否の先に生まれる強い従順 ― 2015年10月25日
さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。 出エジプト記4章12節
あなたが彼(モーセの兄アロン)に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。 出エジプト記4章15節
出エジプト記4章は、モーセの否定的、消極的な発言から始まります。1節「彼らは私(モーセ)を信ぜず、また私の声に耳を傾けない」とあり、さらに10節では「ああ主よ。私(モーセ)はことばの人ではありません」ともあります。それだけではありません13節には「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」とあります。これが80歳になったモーセの姿であり、「エジプトからの脱出」という偉業をなすリーダーの原点でした。そしてこれが前章10節で「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう」と神さまから直接語られたモーセの対応でした。なんとも神さまからの語りかけに対して、消極的、否定的な対応です。
教会は、神さまからの語りかけに、積極的に、肯定的に受け止めるように勧めます。ですからこのモーセの対応は、まさに「あってはならない」「あってほしくない」クリスチャンの姿です。しかし、神さまは、偉大なモーセへの召命の中で、このような消極的、否定的なモーセの対応を良しとされ、許されたのです。なぜでしょうか。
その答えが、上記聖書箇所にあります。「あなたの言うべきことを教えよう」(12節)、「あなたがたのなすべきことを教えよう」(15節)。否定的なモーセに対して神さまは、本気で支えることを伝え、モーセもその力強い支援の前に打ち砕かれ、神さまに強く従う者へと導かれていきました。ですから私たちもモーセのように、消極的で、否定的な思いをしっかりと神さまにぶつけて良いのです。神さまは、その私たちの否定的な思いを簡単に打ち負かし、打ち砕かれ、その先に神さまへの強い従順を引き出してくださいます。今週も神さまからの力強い支援をいただき、ただただ神さまに信頼して踏み出しましょう。(吉持日輪生牧師)
あなたが彼(モーセの兄アロン)に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。 出エジプト記4章15節
出エジプト記4章は、モーセの否定的、消極的な発言から始まります。1節「彼らは私(モーセ)を信ぜず、また私の声に耳を傾けない」とあり、さらに10節では「ああ主よ。私(モーセ)はことばの人ではありません」ともあります。それだけではありません13節には「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください」とあります。これが80歳になったモーセの姿であり、「エジプトからの脱出」という偉業をなすリーダーの原点でした。そしてこれが前章10節で「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう」と神さまから直接語られたモーセの対応でした。なんとも神さまからの語りかけに対して、消極的、否定的な対応です。
教会は、神さまからの語りかけに、積極的に、肯定的に受け止めるように勧めます。ですからこのモーセの対応は、まさに「あってはならない」「あってほしくない」クリスチャンの姿です。しかし、神さまは、偉大なモーセへの召命の中で、このような消極的、否定的なモーセの対応を良しとされ、許されたのです。なぜでしょうか。
その答えが、上記聖書箇所にあります。「あなたの言うべきことを教えよう」(12節)、「あなたがたのなすべきことを教えよう」(15節)。否定的なモーセに対して神さまは、本気で支えることを伝え、モーセもその力強い支援の前に打ち砕かれ、神さまに強く従う者へと導かれていきました。ですから私たちもモーセのように、消極的で、否定的な思いをしっかりと神さまにぶつけて良いのです。神さまは、その私たちの否定的な思いを簡単に打ち負かし、打ち砕かれ、その先に神さまへの強い従順を引き出してくださいます。今週も神さまからの力強い支援をいただき、ただただ神さまに信頼して踏み出しましょう。(吉持日輪生牧師)
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