20150906 福音の文脈化22015年09月06日

「しかし、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」コリント人への手紙第一1章24節

今回は福音の文脈化の具体事例として、日本でのケースを話します。2年ほど前に「福音の再発見」(副題:なぜ“救われた”人たちが教会を去ってしまうのか?)という本が話題になりました。実は原作の題名は「The King Jesus Gospel」(直訳:王なるイエスの福音)であり、本の装丁も荘厳な王室のイメージ(英語版)から、カジュアルな段ボール紙を切り抜いたデザイン(日本語版)に変わっています。日本人には西洋の絶対君主である「王」を想像するのが難しいのが理由かもしれません。福音の中心はイエス・キリストにありますから、キリストがどのように各民族、文化に受容されているかを知ることは、文脈化の重要テーマとなります。昨年、アフリカのケニアに訪問した際、アフリカのクリスチャンが描くキリストが黒人であったことに衝撃を受けました。(これはずるい。イエスの肌の色を勝手に変えてはいけないと内心思いました)しかし同時に、「なぜ自分のイエス像はハンサムで髭の生えた白人男性なのだろうか?そもそも中東出身なら白人はあり得ないのでは?」という疑問も出てきました。つまり私のイエス像やキリスト教の教えはヨーロッパとアメリカを通じて、アングロサクソン系の民族が長い時間をかけて文脈化してきたものだったのだと腹に落ちた瞬間でした。いつまでたっても日本においてキリスト教は西洋の宗教と言われるのも納得がいきます。逆に日本人にとっての福音とは何かについて生涯をかけて学んでいきたいと思わされました。日本のキリスト教会が福音の純粋性を保ちながら、福音を地域に根付かせていくためには、日本人の文化、生活、価値観に寄り添い、日本人にとっての福音の文脈化は何かについて検討し続ける必要があります。教会に来ると純粋な福音を知ることができると同時に、日本人としての文化的な豊かさも経験できるような未来を私は夢見ています。「教会に繋がるともっと日本人らしくなる。」今の日本のキリスト教会にとっては逆説的な考え方でしょう。しかし日本人らしさとクリスチャンであることの両立について教会が真剣に考え続けていくことが、福音宣教を推し進める力となることを思います。(笠川路人伝道師)

20150913 クリスチャンと芸術2015年09月13日

「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。」創世記2章7節a

リージェント3年目の学びで「クリスチャンの想像力」(英語名:Christian Imagination)という芸術の授業を履修しました。音楽以外の芸術は私には中学以来で、画家や作家、写真家といった面々と一緒に芸術を学び、実際に芸術作品を制作するとてもチャレンジな授業でした。西洋において、絵画や彫刻、音楽といった芸術は教会の中で宗教芸術として発展しました。しかし近現代の芸術は、ヒューマニズムに代表されるように、宗教芸術への反動として、その対象が神や聖書的世界から人間中心へと大きく変化を遂げました。結果として、福音派の一部のクリスチャンは、クリスチャン以外の芸術に対して厳しい態度を取り続けてきたことを学びました。確かに、現代の日本の教会では、宗教的な要素が薄い(もしくは明示されていない)芸術作品を教会の中に設置したり、礼拝や集会の中で賛美以外の音楽を用いることはほぼ無いと思います。現代に生きるクリスチャンが一般芸術をどのように理解すればいいのか?繰り返し授業で聞かれた重要な問いでした。その答えは創造主である神ご自身が素晴らしい芸術家であり、人間自身も神のかたちに造られたもので、芸術的な能力を与えられていることをまず理解することから始まります。芸術を通して創造の美しさを現し、この世界の現実を描くことは「神のかたち」として大切な活動です。授業の最後に提出した論文では、芸術と教会をテーマにして、いかにクリスチャンが芸術的想像力(Imagination)を深められるかという内容について書きました。教会のリーダーが率先して、芸術(アート)に触れること、時には制作を経験すること。教会が芸術家そして芸術を好む人々のコミュニティ(共同体)を受け入れていくことの重要さについて学びました。もちろん聖書の観点から、芸術に対する神学的な視点を養うことも大切です。芸術を教会の中に積極的に取り込むことは、クリスチャンとして文化を再解釈する文脈化の働きでもあります。将来はクリスチャンが芸術を楽しみ、体験していく場を更に広げていくことができたらと願います。(笠川路人伝道師)

20150920 霊性の神学2015年09月20日

「こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ人への手紙3章19節b

リージェントカレッジを志望した動機の一つに「神との友情」の著者であり、初代学長であるジェームス・フーストン教授から直接、霊性の神学を学びたいという思いがありました。教授は1922年生まれですが、90歳を超えた現在も現役で通常の授業を担当しておられます。「霊性の神学」は聞きなれない言葉と思いますが、人間の霊的な側面を聖書やキリスト教の歴史から深く学んでいく分野と言えます。特に過去二千年のキリスト教の祈りや霊的な生活の実践は、私たちが霊的に成長するための素晴らしい教材となります。宗教改革以前のクリスチャンの祈りや書物は、カトリック教会に属するものとしてプロテスタントでは積極的に取り上げることが少ないと思いますが、霊性の神学の学びでは教父時代から修道院での祈り、時にはギリシア正教の神学者まで幅広く学ぶことになります。3年目の夏に履修した「5つの祈りの伝統」という霊性の神学の授業では、紀元3世紀の砂漠に住んだ教父たち(Desert Fathers)の祈りから、16世紀のイグナチウスのロヨラ、宗教改革者ルター、そして20世紀のクリスチャン作家であるC.S.ルイスと、二千年の伝統から祈りの具体的な手法を学びました。例えば、福音書を読みながら、イエス・キリストを間近に感じ、瞑想する黙想の祈り(Contemplative Prayer)を学びましたが、興味深いことに、伝道集会のメッセージの最後の「目を閉じてください、今からいくつか質問させて頂きます」という招きの祈りの雰囲気に良く似ていたりします。最終学年でフーストン教授の「クリスチャンアイデンティティーの源泉(The Source of Christian Identity)」という授業を聴講することができました。祈り深い生活を経験することによって築かれていく神さまとの親しい関係(友情)が、クリスチャンとしての生き方や、人生の召命も含めた「自分は何者であるか」という問いの答えを導いていきます。これらの学びを日本の教会に合う形で紹介していくのは大変な作業になりますが、霊性の神学の文脈化の働きとして、今後の牧会の現場で取り組ませて頂きたいと思います。(笠川路人伝道師)

20150927 日本人のキリスト論2015年09月27日

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
マタイの福音書16章15節

リージェントでの最終学年はWorld Christianity(世界のキリスト教)専攻での神学修士のプログラムを勉強させて頂きました。本専攻は世界中のキリスト教について宣教学の視点を持って、キリスト教の文脈化や土着化について学びます。ケニア・ナイロビでのフィールドワークもプログラムの一部として経験しました。そして修士の単位論文では日本人のキリスト論について書きました。アフリカのクリスチャンはイエス・キリストに対して「医者(癒す人)」という強いイメージ(像)を持ち、ラテンアメリカのクリスチャンは、「解放者」、(つまり圧政から救い出すリーダー)という文化や生活に深く関係したイメージを持っています。それでは日本人にとってイエス・キリストは誰なのか?バンクーバー在住の日本人クリスチャンにインタビューを重ねながら、日本人クリスチャンが抱く「キリスト像」について調査しました。その結果は、本当の親友(A Great Friend)、人生や生活の行動規範(A Model for Our Lives)、神と人との間の仲保者(Mediator)といった像が浮かび上がってきました。インタビューの数が限られていたため、全ての日本のクリスチャンのイメージを表しているとは言い切れませんが、性別によるイメージの差(男性は『行動規範』と答える人が多く、女性は『本当の親友』と答える人が多い)が出たのも興味深い結果でした。これらのイメージは牧会や伝道の現場において、とても参考になる情報となります。もし男性にとってイエス・キリストが人生や生活の『行動規範』であるならば、クリスチャンになるということは、プライドを捨てて、イエス・キリストに自分自身を明け渡すという、ハードルの高い決断をしなければいけないことになるでしょう。逆に女性は教会での深い人間関係を通して、『本当の親友』であるイエス・キリストを知っていくということでしょうか。このテーマについてはイエス・キリストの福音を日本人に伝えるために、牧会での経験を通して理解を深めていきたいと思います。現在、来年度に向けて教育部と新しい信徒向けの学びのプログラムを作成中です。私の証しと留学中の学びの紹介は今回で終了となりますが、次の機会にはそのプログラムにおいて学んだことをお分かちさせて頂きたいと思います。(笠川路人伝道師)