20150802 牧会魂(Soul of Ministry)その12015年08月02日

「神の賜物と召命とは変わることがありません。」  ローマ人へ手紙11章29節

「牧会魂」とは「Soul of Ministry」という授業名の日本語訳です。もう少しやわらかい表現を使うと、「牧会者の心得」といった感じでしょうか。「Soul」という言葉には、「本質」とか「手本」、「感情」や「判断力」という意味があるようです。「牧会魂」は牧会学修士1年目の必須科目であり、「なぜあなたは献身するのか?」や「牧師として十分な精神的健康を持っているか?」、そして「適性があるかどうか?」について再確認します。北米では牧師に起こる様々な問題(仕事の適性の不一致、燃え尽きや精神的な病、夫婦関係の問題)が注目されており、神学校在学中にできる限り課題を洗い出して、取り組む授業です。私は15歳で献身の召しを頂いてから、十数年間も献身について考えてきましたが、この授業を通して改めて多くの課題が示され、それを取り扱うチャレンジを頂きました。まず授業の初めに「Vocation」(神さまから与えられた召し、もしくは天職)ついて学ぶ機会がありました。「天職」というと一般的な職業を思い浮かべると思いますが、まず最初に人間としての召し、クリスチャンとしての召しについて考えることが人生の基礎であると教えられました。人間としての召しの場合、身体を大切に管理することや、夫として親として家族のために時間を過ごすことは、仕事(職業)やクリスチャン生活以上に神さまから与えられた重要な使命だということです。そして多くの問題は、図の一番上の職業を極大化して人生の最優先に置いてしまい、人間としての召しとクリスチャンの召しを犠牲にすることから始まります。左の図をケーキに例えるならば、一番上の段が大きくなるとバランスが悪くなり、人生全体が崩れてしまいます。今まで仕事最優先に生きてきた私にとって、「目からうろこ」となる学びでした。次週は授業で示された自分の内面の課題を書かせていただきます。(笠川路人伝道師)

20150809 牧会魂(Soul of Ministry)その22015年08月09日

「人はうわべを見るが、主は心を見る」サムエル記 第一 16章7節d

「牧会魂」の授業での一番重要な学びは、牧師としての献身の動機について再確認出来たことでした。「この聖書のみことばが与えられて、献身を決意しました」というお証しをよく聞きますが、私自身も15歳の時に青年宣教大会で頂いた聖書箇所(士師記5:23)と当時のノートを大切に保管しています。しかし、授業では献身の動機について、「なぜあなたは牧師になるのか?(なりたいのか?)」について過去を振り返りながら分解する作業を経験しました。献身の動機について深く問われる中で、なぜ自分はそこまで教会の奉仕を熱心にできるのか(時には疲れ切ってしまうくらい)、なぜ結婚後も家族との時間を犠牲にして教会優先で奉仕できるのか、という疑問が出てきました。その大きな要因は幼少期の経験にありました。小学校4年生の冬に関東から関西に引っ越してきた私は、クラスメイトの歓迎を受けた直後にクラス全員から一定期間、無視をされるという経験をしました。本当に辛い経験でした。一方で茨木聖書教会では同世代の仲の良い友達に恵まれ、学校で辛い経験をする自分を守ってくれるシェルター(防護壁)のような場所でした。この温かくて自分を受け止めてくれる教会にずっといたい。両親の牧会が順調であれば、この教会に長く通うことができる。11歳か12歳頃でしょうか、喜んで教会奉仕を手伝う一方で、毎週の週報で報告される礼拝出席人数に一喜一憂していたのを思い出します。奉仕に対する熱心さの裏には、家族を助けることを通して、何が何でも自分を守りたいという動機があることが分かりました。スモールグループの中で涙ながらに自分の過去の経験や気づきを同級生に打ち明け祈ってもらう中で、もう幼少期から作り上げてきた生き方に縛られる必要がないことを悟りました。今や私にとっては「奉仕を頑張って周りに認められる自分」よりも、「キリストにより新しくされたからこそ、弱さもオープンにできる自分」に安心することができます。とても感謝な経験でした。次回は講義外で教えられたことについて話します。(笠川路人伝道師)

20150816 講義外で教わったこと2015年08月16日

「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」
ルカの福音書5章16節

神学校では教授との個人面談の時間を自由に申し込むことができました。もちろん無料なので積極的に各教授のオフィスアワーを利用させて頂きました。その中でも牧会経験のあるロス・ハスティングス先生(2000人規模の教会の主任牧師経験者)からは牧会上の様々な課題について多くのことを教えて頂きました。そのうちの一つに、牧師としてプロフェッショナルであることを追及することとスピリチュアリティ(霊性)のバランスをどう取ったらいいか?という疑問がありました。牧師には熟練技術が必要だというリック・ウォレン師の言葉(『健康な教会へのかぎ』49頁)に感化され、将来牧師を目指すためにはどんな技術が必要かについて真剣に考えた時期がありました。その一方で、両親の牧会を見る中で教会奉仕は霊的なわざ(聖霊の働き)に大きく依存する部分もあり、両方のバランスをどう取るか?について興味がありました。教授の回答は、スピリチュアリティが一番、プロフェッショナルが二番という明確な答えでした。祈りの生活なくして私たちは教会の働きを進めることはできません。しかし霊性に続くものとして、「牧師は教会の中で大きな影響力を持っているので、プロフェッショナルであることも追求するべきです。しかし、ビジネスの世界のようなプロフェッショナリズム(専門的な技術至上主義)に染まることなく、ただ純粋にプロフェッショナルである必要があります。」と教えて下さいました。更に、「牧師という仕事は自己実現・自己達成に気を付けなければいけません。神さまを第一とせずに人を喜ばせようとすることは牧会における最も大きな誘惑です。」というコメントを頂きました。教会奉仕のプロを目指すには、自分を鍛錬し、他人からのアドバイスを受け止めていくことが大切ですが、そこに霊的な成長が伴わなければ、結局は人の評価に流され、神さまよりも人が第一となってしまいます。私はまだ駆け出しの牧会者ですが、この二つのバランスをうまく取りながら、忠実に教会に仕えて行きたいと願います。(笠川路人伝道師)

20150823 インターンシップ(教会での現場研修)2015年08月23日

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。」詩篇139編23節a

牧会学修士2年目のプログラムに教会インターンシップがあります。日本の神学校であれば奉仕神学生の制度に当てはまりますが、このプログラムでは1年間にわたって、2週間に1度の奉仕先教会の主任牧師との面談、同じく隔週での授業、各学期末には主任牧師の報告書と学生のレポートの提出が求められます。授業では将来の牧会で経験するであろう、教会内で起こる様々な問題の解決方法について学びます。具体的には事例研究を通して、問題解決のための3つのプロセス(過程)を学びました。1.自己内省(まず自分を見ることで状況を客観的にとらえる)2.他者の分析、起こっている問題に対する理解を深める 3.解決案の検討 (神学的な解釈や祈りの結果から導かれる解決策を検討する)まず、最初に大切なことは、問題が起こったときにその出来事に対する自身の感情を確認するところから始めます。問題そのものよりも先に「なぜ怒っているのか?失望しているのか?」について理由を考えることで、問題を客観的に捉える準備をすることができます。教会の奉仕において意見の相違や摩擦は常に起こることであり、ストレスやフラストレーション(欲求不満)は自分の期待が叶えられない時に発生します。このような状況においてはクリスチャンとしての成熟が最も問われます。自分が期待すること(やりたいこと)を絶対的にしないためには謙遜が必要であり、「私が正しいと思うことを、他の教会のメンバーも必ずしなければいけない」という考えを捨てることができるかが、真に謙遜であるかどうかの分かれ目になります。私自身のインターンシップは奉仕先の教会の複数牧会のチームの中で、先ほどのプロセス1(自己内省)をとことん訓練する機会を頂きました。他のスタッフに対する嫉妬や、競争心やプライドが奉仕にどのように影響しているのかを知り、それらを現場での奉仕を通して取り扱うことを経験しました。それらの学びは伝道師として仕える上でとても役立っていることを実感しています。次回は福音の文脈化についての学びについて話します。(笠川路人伝道師)

20150830 福音の文脈化2015年08月30日

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ローマ人への手紙1章16節b

「文脈化」という言葉は英語ではContextualization(コンテクスチュアリゼーション)と言い、キリスト教がある特定の文化に入っていくときに、その社会的、歴史的な背景を反映させて再解釈するという意味を持っています。例えば「雪」が全く存在しないアフリカのある地域において、「あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる」(イザヤ1章18節)という御言葉を説明するためには、「雪」に代わる別の何かが必要となります。文脈化はキリスト教が特定の文化に根付くために欠かせない作業であり、そのレベルに応じてキリスト教が特定の民族や文化に土着する程度が変わってきます。リージェント2年目の学びで、世界各地のキリスト論の演習を履修した時に、この文脈化の方法論について学ぶこととなりました。文脈化を進めるためには、既存の文化や価値観に対してどのような姿勢を持つのかが大切になります。もし徹底的な対決姿勢を取るならば、宣教する側の価値観を守ることができたとしても、現地の人々から大きな反発を受け、土着化が難しくなる可能性があります。逆に既存の文化や価値観に対して過度に妥協するならば、他宗教との「習合」(教義が混じり合うこと)が起こり、福音の純粋性が損なわれることになります。「習合」を避けながら、どのように福音を地域に浸透させていくことができるか?私たちはキリスト教の宣教の歴史を振り返ることから文脈化の事例を学ぶことができます。初代教会においてはアンテオケの教会がギリシヤ人に福音を伝える文脈化を初めて挑戦した教会であり、アンテオケの教会からギリシア・ローマ社会への宣教が始まりました。その後、エルサレムの教会では律法に忠実なパリサイ派出身の弟子たちは割礼の必要性を主張しましたが(使徒15章)、パウロを中心としたアンテオケから派遣されたクリスチャン達は異邦人の立場を擁護し、福音宣教を阻害する条件が取り除かれました。もし救われる条件に割礼が入っていたとしたら、キリスト教が全世界に広がることは難しかったでしょう。次回は文脈化の続きを今日の事例を挙げて話します。(笠川路人伝道師)