20130602 本当の友を持つために2013年06月02日

「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」
箴言17章17節

 私たちの問題のひとつは孤独であることです。日本は世界において最も豊かな社会を築き上げたと言われています。その豊かな社会の中で多くの人々が孤立し、苦しみを経験しています。「孤独死」と新聞の紙面に書かれる出来事が現実に起きています。聖書は「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。」と言っています。私たちはひとりで生きるように造られていません。私たちは友を持つように神様によって造られているのです。
 さて、上記の聖書が語る本当の友を持つにはどうしたらよいのでしょうか。まず、友と呼ばれる親しい関係は、偶然に起きるものではなく、自らの意思をもって築き上げていくものであることを理解することです。友をもちたいと願うなら、まず自分から相手に対して親しみを示すことです。次に本当の友を持つためには、表面的な関係からより親密な関係へと発展させていく必要があることを理解することです。そのカギは多くの友より少数の友という、量から質への転換が求められることです。その質を高めるためには時間を取ることが求められます。私たちの多忙さは親密な関係を築き上げることを難しくしていると知ることです。さらに、本当の友を持つためには赦し合うことが必要です。私たちは近づけば近づくほど相手の姿がよく見えてきて相手の弱さや欠点に気づきます。そのとき大切なことは互いに不完全であることを認め合い、赦し合うことです。最後に、本当の友を持つためには自らが信頼できる人になることです。本当の友とは、友が窮地に陥ったとき、その人の側に立ち続けることです。そして「友はどんなときにも愛するものだ」とあるように決して離れないことです。

20130609 恐れることはありません2013年06月09日

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」                   ルカの福音書12章6~7節

 恐れは私たち人間が共通して持つ問題ではないでしょうか。イエス様は弟子たちに「恐れることはありません」と言っています。今日を生きる私たちにも同じように「恐れることはありません」と語っておられます。イエス様は繰り返し「恐れるな」と命じておられるように、私たちが「恐れる」ことを望んでいません。
では、恐れなくても良い人生とはどのようなものでしょうか。それは「心の中でキリストを主としてあがめなさい。」(ペテロの手紙第一3章15節)と聖書にあるように、神様であるイエス・キリストを私たちの人生の主として敬うことです。「イエス様、あなたは私の人生のナンバーワンです」と言い表すことです。もし私たちがイエス様以外の何かを第一にするなら、聖書はそれを偶像と教えています。イエス様が置かれるべき第一の場所に人、仕事、家、財産、趣味などを代わりに置くとき、それは偶像となります。そして、それを失うことを恐れるようになり、恐れに支配されるのです。偶像と恐れは密接に関わっているのです。
 また、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(ペテロの手紙第一5章7節)とあります。私たちの恐れの原因は自分で問題を解決しようとすることから生じます。すなわちそれは私たちが神様のように振る舞っていることなのです。私たちは神様ではありません。神様を演じることをやめることです。私たちが神であろうとすればするほど、私たちは恐れや心配でいっぱいになるのです。
 私たちが恐れたり、思い煩っているとき、神様以外のものが第一になっているのです。また問題を自分で解決しようと神様を演じているのです。心配事をいっさい神様にゆだねることです。

20130616 わたしはあなたとともにいる2013年06月16日

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」
イザヤ書41章10節

 「わたしはあなたとともにいる」と、神様は預言者イザヤを通して神の民イスラエルに語ってくださいました。また、今を生きる私たちひとり一人にも同じ言葉を語ってくださっています。聖書が教えている神様は私たちから遠く離れた存在ではありません。また怖い、恐ろしい神様でもありません。「わたしはあなたとともにいる」と臨在を約束しておられる神様です。私たちがこの神様の臨在を悟り、感じ、体験するなら、私たちは人生おいて大きな祝福を受けることになるのです。
 第一に、神様はあなたを助けてくださいます。上記の聖書箇所に3つの約束が記されています。「わたしはあなたを強め」、「あなたを助け」、そして「あなたを守る」とあります。人の助けには限界があります。どんなに助けたいと願っても人には限界があるのです。しかし神様の助けには限界がありません。もうこれでおしまいだということはありません。とことん最後まで私たちを助け続けて下さるお方です。
 第二に、神様は私たちを元気づけてくださいます。「恐れるな」、「たじろぐな」そして「わたしの義の右の手で、あなたを守る」と励ましてくださるお方です。神様は励ましの神様です。野球もサッカーもホームグランドで戦うとき、そのチームは外で戦うときとは全く違った試合するものです。それはスタジアムいっぱいになった味方の応援団の励ましがあるからです。神様は私たちの大いなる応援団です。
 第三に、神様は私たちを落ち着かせてくださいます。詩篇の作者は「平安の内に私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます」と語っています。人生の危機に直面する中で、私たちがいつも神様を意識するとき、神様が私たちのすぐそばにともにおられることを知ることができます。そのとき、「私は揺るぐことがない」とはっきり言い表すことができるのです。

20130623 相手の視点を理解する2013年06月23日

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
ピリピ人への手紙2章4節

互いに尊敬し合い、信頼し合う関係を築き上げるために私たちはどのように取り組めばよいのでしょうか。聖書は「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」と教えています。同じ聖書箇所の別の訳に「身の回りのことばかりにとらわれるのではなく、他人にも目を向け、その行動にも関心を持ちなさい。」とあります。信頼関係を築き上げるために相手の視点を理解するようにと教えています。
 人間関係の中で、とりわけ難しいと思う関係の中で、私たちはもっぱら自分の視点にのみ目が留まります。しかし、それでは決して信頼関係を築き上げることができません。人はみな自分に関心を示してくれる人に信頼するものだからです。他の人に関心を示し始める時、すなわち相手の視点を理解する時、私たちは尊敬と信頼の関係を築くことになるのです。
 ローマ人への手紙12章15節に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあります。相手の視点を理解するための実際的な方法が教えられています。それは喜びをともにし、悲しみをもともにすることです。しかし、私たちはしばしば反対のことをしてしまいます。悲しんでいる人に、元気を出してと励ましてしまいます。また、その時が自分にとって嫌な時である場合、喜んでいる人に対しては「静かにして」と諌めてしまいます。そのことによってその人の喜びを一瞬にして壊してしまうことになるのです。
 他の人が困難な状況にある時、また傷ついている時、私たちは彼らの視点を理解し、共に涙することです。他の人が大いに喜んでいるとき、たとえ「なぜ、それが私に起きないのか」と妬ましく思ったとしても、その思いを脇に置いて、彼らとともに喜ぶことを選択することです。相手の立場に立ち、相手の視点を理解することに努めることです。聖書は互いに尊敬し合い、信頼し合う関係を築き上げるために、相手の視点を理解することを勧めています。

20130630 愛は決して絶えることがない2013年06月30日

「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」      コリント人への手紙第一13章8節

 「愛は決して絶えることがありません」と上記の聖書箇所にあるように、本当の愛は永続するのです。私たちはしばしば愛を誤解します。何か感情的なものとして理解しがちです。もし愛が感情であるならば、感情の起伏のように高まったり、落ち込んだり、アップダウンの連続のように不安定なものになります。あるときは愛があると感じたり、またあるときは感情が冷めてしまい、愛がなくなってしまったと感じるのです。最近、若いカップルの間でトラブルが生じて、傷害事件や殺人事件に発展する場合が起きています。自分の感情をコントロールできず、相手に憎しみや怒りを感じ、暴力で相手を支配しようとするのです。その場合、自分で愛していると思っていても、それは愛とは全く正反対の一方的な独りよがりの愛に過ぎないのです。愛が簡単に「愛してたのに」という過去形になってしまうのです。
 さて、聖書が語る本当の愛とはどんなものなのでしょうか。上記の聖書箇所はコリント人への第一の手紙13章です。そこには愛とは何かについて13項目を動詞で表しています。たとえば第一項目は「愛は親切にする」ことだと教えています。愛は何か心の中にあるもやもやとした感覚的なものではなく、またただ言葉だけのものでもありません。愛は愛するという行動で表すものなのです。また愛は愛することを決断することでもあります。「私はあなたを愛します」と決めることなのです。結婚式において新郎新婦が神様の前に愛することを誓約します。それは相手を愛することを決断しているのです。私たちは愛が試されるとき、繰り返し「あなたを愛します」と決心していく必要があります。
 私たちの愛はたびたび試みられます。そのようなとき私たちは愛したいと思っても愛することができなくなることがあります。聖書は「神は愛です」と教えています。神様は決して絶えることがない神様の愛をイエス様を通して私たちに注ごうとしておられるのです。あなたも神様の愛を必要としています。