20150529 「罪を犯す」と「ハーター」2016年05月29日

パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。                 出エジプト記9章34節

前回は、日本語とヘブライ語では多少の意味の違いがあるということを確認しました。今回からは、その幾つかの例を見ていきます。
今回は、「罪を犯す」という表現に注目します。「罪を犯す」とは、見ての通りですが、日本語では、「罪を/犯す」という構造になっています。ここから、何か悪いことをするという意味や、何かを犯すことによって罪に至るというような意味合いが読み取れます。そのため、「罪を犯す」と聞くと、多くの日本人は、法律に違反する行為を思い浮かべます。また、教会では、「罪を犯す」とは神様の言葉に対して背くことや、神様の命令に逆らうことなどの、外的行為を指す時に多く使われます。
しかし、ヘブライ語では、「ハーター」という動詞一語です。つまり、元々は動詞一語の言葉が、日本語に訳された時に「罪を」という目的語と「犯す」という動詞の二語になったのです。これは大きな違いです。
具体的にどのような違いが見られるでしょうか。その例が、上の箇所です。この箇所の「罪を犯し」は、ハーターが使われています。そして、この箇所では「罪を犯す」という言葉は、「強情になった」と並行関係にあります。つまり、「罪を犯す」と訳されている「ハーター」は、心的状態を指して用いられているのです。さらに、聖書を詳しく見ていけば、「ハーター」は心的状態を指して使われることが多いのを確認することができます。つまり、「罪を/犯す」という翻訳によって違反行為という外的な行為に注目が集まりやすいのですが、本来、「ハーター」は、心的状態、内面を指す言葉として使われることが多かったのです。
今回は、日本語とヘブライ語との意味の違いの一例として、「罪を犯す」と「ハーター」の違いを見てきました。私たちが、日々歩む中で、違反行為をしていないから罪ではないとか、何かをしてしまったから罪だと考えていませんか。そうではなく、自らの心を問い、その心が罪に陥っていないかということを顧みた方が良いのかもしれません。      (吉持尽主伝道師)