20151011 神さまの備え、神様の訓練 ― 2015年10月11日
パロはこのこと(モーセがエジプト人を殺害したこと)を聞いて、モーセを殺そうと捜し求めた。しかし、モーセはパロのところからのがれ、ミデヤンの地に住んだ。彼は井戸のかたわらにすわっていた。 出エジプト記2章15節
出エジプト記2章を読む時、神さまの備え、神さまの訓練の素晴らしさを教えられます。モーセは40歳になった時(使徒の働き7章23節)、自分の手で奴隷状態の中にあったイスラエル人をエジプトから解放しようと行動しますが失敗します。しかし、その自分の思いで行動したことに失敗した時、神さまの訓練が始まりました。失敗したモーセが、エジプトから逃れて住んだ場所、ミデヤンは、後にイスラエルの民がエジプトから脱出する時に旅するシナイ半島ととても環境が似ている砂漠地帯でした。しかも、モーセがこのミデヤンの地に住んだ期間も、モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出し荒野を旅する期間と同じ40年でした(使徒の働き7章30節、36節)。つまり神さまは、モーセの失敗、挫折をもって、イスラエルの民を導くための備えとし、逃れたミデヤンの地で、荒野がどのような場所で、どのように生活をしたらよいのかを訓練する時としてくださったのです。
そしてもう一つ触れておきたいことは、このモーセに対する神さまの備え、訓練を可能にしたふたりの心です。出エジプト記2章2節に「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた」と記されています。ここには、生まれたばかりのモーセを「いとおしむ」心が現わされています。そしてその心は、パロの娘へつながっていきます。出エジプト記2章6節「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い・・・」とパロの娘の「あわれみ」の心が記されています。この「いとおしむ」心と「あわれみ」の心が、モーセに対する神さまの備え、訓練を現実のものへとつなげていきました。私たちも「いとおしむ」心、「あわれみ」の心を大切にしながら、素晴らしい神さまの備え、神さまの訓練に与る機会をいただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
出エジプト記2章を読む時、神さまの備え、神さまの訓練の素晴らしさを教えられます。モーセは40歳になった時(使徒の働き7章23節)、自分の手で奴隷状態の中にあったイスラエル人をエジプトから解放しようと行動しますが失敗します。しかし、その自分の思いで行動したことに失敗した時、神さまの訓練が始まりました。失敗したモーセが、エジプトから逃れて住んだ場所、ミデヤンは、後にイスラエルの民がエジプトから脱出する時に旅するシナイ半島ととても環境が似ている砂漠地帯でした。しかも、モーセがこのミデヤンの地に住んだ期間も、モーセがイスラエルの民と共にエジプトを脱出し荒野を旅する期間と同じ40年でした(使徒の働き7章30節、36節)。つまり神さまは、モーセの失敗、挫折をもって、イスラエルの民を導くための備えとし、逃れたミデヤンの地で、荒野がどのような場所で、どのように生活をしたらよいのかを訓練する時としてくださったのです。
そしてもう一つ触れておきたいことは、このモーセに対する神さまの備え、訓練を可能にしたふたりの心です。出エジプト記2章2節に「女はみごもって、男の子を産んだが、そのかわいいのを見て、三か月の間その子を隠しておいた」と記されています。ここには、生まれたばかりのモーセを「いとおしむ」心が現わされています。そしてその心は、パロの娘へつながっていきます。出エジプト記2章6節「それをあけると、子どもがいた。なんと、それは男の子で、泣いていた。彼女はその子をあわれに思い・・・」とパロの娘の「あわれみ」の心が記されています。この「いとおしむ」心と「あわれみ」の心が、モーセに対する神さまの備え、訓練を現実のものへとつなげていきました。私たちも「いとおしむ」心、「あわれみ」の心を大切にしながら、素晴らしい神さまの備え、神さまの訓練に与る機会をいただきましょう。 (吉持日輪生牧師)
最近のコメント