20120603 わたしに希望はあるのか ― 2012年06月03日
「 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」 イザヤ書41章10節
私たちにとって希望は大切です。もし希望が無いとしたら、私たちは生きていくことができないのではないでしょうか。たとえ過酷な状況に追い込まれていても、人から見て万事休すと思われても、もしその人が希望を持っているなら、なおその状況の中でも生き抜くことができるのです。第二次世界大戦のあと、捕虜として過酷な状況に置かれた人々を調査したところ、ある人々はその過酷な状況を通りながら、その後、何一つ精神的に後遺症を残さなかったというのです。その理由を調べたところ、彼らが高いレベルでの希望を持っていたことが分かったのです。私たちは食物が無くても40日間は生きられます。水が無くても3日間は生きられます。空気が無くても8分間生きられます。しかし希望が無くてはひと時も生きることはできないと言われています。希望は私たちにとって無くてならないものです。
では一体私たちはどこに希望を見出すことができるのでしょうか。たとえどんなことが起きても揺るぐことが無い希望をどこに見出すことができるのでしょうか。上記の聖書箇所にその答えが記されています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」それはあなたが神様を知ることです。そしてその神様があなたとともにおられることを知ることです。それを神様の臨在と言います。私たちの恐れは何でしょうか。それは大変な事態が生じたとき、人々が私たちから離れていくのではないか、また私たちを見放すのではないかという恐れです。しかし神様は「あなたに何が起きても、わたしは決してあなたを見放すことはないし、見捨てることはない。」と約束しています。
不確かなものに満ちているこの世界で、あなたは確かなものをしっかりと握ることができるのです。それは神様の臨在です。あなたは人生を独りで歩んでいるのではありません。神様がともにおられるのです。この確かなものを握れば、あなたは希望を持つことができるのです。
私たちにとって希望は大切です。もし希望が無いとしたら、私たちは生きていくことができないのではないでしょうか。たとえ過酷な状況に追い込まれていても、人から見て万事休すと思われても、もしその人が希望を持っているなら、なおその状況の中でも生き抜くことができるのです。第二次世界大戦のあと、捕虜として過酷な状況に置かれた人々を調査したところ、ある人々はその過酷な状況を通りながら、その後、何一つ精神的に後遺症を残さなかったというのです。その理由を調べたところ、彼らが高いレベルでの希望を持っていたことが分かったのです。私たちは食物が無くても40日間は生きられます。水が無くても3日間は生きられます。空気が無くても8分間生きられます。しかし希望が無くてはひと時も生きることはできないと言われています。希望は私たちにとって無くてならないものです。
では一体私たちはどこに希望を見出すことができるのでしょうか。たとえどんなことが起きても揺るぐことが無い希望をどこに見出すことができるのでしょうか。上記の聖書箇所にその答えが記されています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」それはあなたが神様を知ることです。そしてその神様があなたとともにおられることを知ることです。それを神様の臨在と言います。私たちの恐れは何でしょうか。それは大変な事態が生じたとき、人々が私たちから離れていくのではないか、また私たちを見放すのではないかという恐れです。しかし神様は「あなたに何が起きても、わたしは決してあなたを見放すことはないし、見捨てることはない。」と約束しています。
不確かなものに満ちているこの世界で、あなたは確かなものをしっかりと握ることができるのです。それは神様の臨在です。あなたは人生を独りで歩んでいるのではありません。神様がともにおられるのです。この確かなものを握れば、あなたは希望を持つことができるのです。
20120610 人生の十分な準備 ― 2012年06月10日
「 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられたものとなるためです。」 テモテ第二の手紙3章17節
正しい装備を持つことは大切なことです。なぜならそれは成功と失敗の違いを分けることになるからです。それぞれの分野で活躍している人は皆、装備にこだわりがあります。外科の手術をする専門医は、手術道具を独自に開発して使い勝手の良いように工夫しています。それらの装備があるかないかは、難しい手術の成否を決定することになるのです。
私たちの人生についても同じことが言えます。私たちが自分の人生を生きる時、正しい装備を持っているか否かは、私たちの人生を安全なものにするか危険なものにするかを分けるのです。幸いなことに、神様は私たちの人生に聖書を与えて、人生の装備を可能にして下さっているのです。私たちを創造した神様は、私たちが人生を生き易くするために、人生の指南書である聖書を与えて下さったのです。
では一体聖書は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。そしてどんな人生の装備を与えてくれるのでしょうか。その一つは神様の視点を私たちに与えてくれることです。聖書を読み思い巡らすとき、私たちは神様の見方、視点を学ぶことができます。私たちの視点は近視眼的です。遠くを見通すことができません。しかし、神様の視点は、もっと高い所から全体を見渡して、私たちにその先にある危険について教えてくれるのです。もう一つは生きる術です。人生において成功するか否かは、他の人といかに良い関係を築き上げることができるかどうかによります。聖書の中心的テーマは関わり方について教えていることです。聖書は、神様とどのように関わるか、また隣人とどのように関わるかを教えている専門書です。あなたは聖書を通して人生に正しい装備を持つことができるのです。
正しい装備を持つことは大切なことです。なぜならそれは成功と失敗の違いを分けることになるからです。それぞれの分野で活躍している人は皆、装備にこだわりがあります。外科の手術をする専門医は、手術道具を独自に開発して使い勝手の良いように工夫しています。それらの装備があるかないかは、難しい手術の成否を決定することになるのです。
私たちの人生についても同じことが言えます。私たちが自分の人生を生きる時、正しい装備を持っているか否かは、私たちの人生を安全なものにするか危険なものにするかを分けるのです。幸いなことに、神様は私たちの人生に聖書を与えて、人生の装備を可能にして下さっているのです。私たちを創造した神様は、私たちが人生を生き易くするために、人生の指南書である聖書を与えて下さったのです。
では一体聖書は私たちに何を教えてくれるのでしょうか。そしてどんな人生の装備を与えてくれるのでしょうか。その一つは神様の視点を私たちに与えてくれることです。聖書を読み思い巡らすとき、私たちは神様の見方、視点を学ぶことができます。私たちの視点は近視眼的です。遠くを見通すことができません。しかし、神様の視点は、もっと高い所から全体を見渡して、私たちにその先にある危険について教えてくれるのです。もう一つは生きる術です。人生において成功するか否かは、他の人といかに良い関係を築き上げることができるかどうかによります。聖書の中心的テーマは関わり方について教えていることです。聖書は、神様とどのように関わるか、また隣人とどのように関わるかを教えている専門書です。あなたは聖書を通して人生に正しい装備を持つことができるのです。
20120617 愛は忍耐深い ― 2012年06月17日
「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」
コリント人への手紙第一13章4節
愛ある人になりたいと願うならば、寛容であることを学ばなければなりません。愛は寛容だからです。ここで使われている寛容と言う言葉は忍耐深いと言う意味です。自分の感情をすぐに爆発させるのではなく、時間をかけてその感情を取り扱うことです。この寛容という言葉は周りの状況、出来事に耐えるということより、むしろ人間関係の中で耐えることを意味しています。他の人から繰り返し、繰り返し迷惑をかけられても、たとえ不利益を被ることがあっても、尚怒らず、感情的にならない自制心を表す言葉です。他の人からひどいことをされたとき、十分に相手に仕返しをすることができるにもかかわらず、仕返しをしない人にこの言葉が用いられるのです。
愛ある人になりたいと願うなら、愛が持つ寛容の性質を身に着けることです。神様の子イエス・キリストの十字架における愛の姿は私たちの模範です。何一つ罪が無かったのに残酷な十字架刑に処せられました。ローマの兵士たちによって鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架に釘づけにされました。イエス様は十字架上でのその激しい苦しみの中で7つの言葉を語ったと記録されています。その最初に語った言葉はローマの兵士たちのための執り成しの祈りでした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と神様に祈られたのです。イエス様はすべての人の罪のために、身代わりとして十字架にかかって死んでくださったのです。イエス様を十字架に付けたローマの兵士たちのためにも死んでくださったのです。
神様は愛なるお方です。神様の忍耐は十字架上のイエス様の姿に映し出されています。罪に罪を重ねるこの世界にあって、神様は忍耐の緒を切らせて全人類を裁くためでなく、むしろ救うために御子イエス様を遣わし、イエス様の十字架を通して全人類の罪を赦すという道を備えてくださったのです。神様の私たちへの忍耐は偉大で大いなるものです。神様は寛容なお方です。私たちも寛容という愛を身に着けたいと願います。
コリント人への手紙第一13章4節
愛ある人になりたいと願うならば、寛容であることを学ばなければなりません。愛は寛容だからです。ここで使われている寛容と言う言葉は忍耐深いと言う意味です。自分の感情をすぐに爆発させるのではなく、時間をかけてその感情を取り扱うことです。この寛容という言葉は周りの状況、出来事に耐えるということより、むしろ人間関係の中で耐えることを意味しています。他の人から繰り返し、繰り返し迷惑をかけられても、たとえ不利益を被ることがあっても、尚怒らず、感情的にならない自制心を表す言葉です。他の人からひどいことをされたとき、十分に相手に仕返しをすることができるにもかかわらず、仕返しをしない人にこの言葉が用いられるのです。
愛ある人になりたいと願うなら、愛が持つ寛容の性質を身に着けることです。神様の子イエス・キリストの十字架における愛の姿は私たちの模範です。何一つ罪が無かったのに残酷な十字架刑に処せられました。ローマの兵士たちによって鞭打たれ、茨の冠を被せられ、十字架に釘づけにされました。イエス様は十字架上でのその激しい苦しみの中で7つの言葉を語ったと記録されています。その最初に語った言葉はローマの兵士たちのための執り成しの祈りでした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と神様に祈られたのです。イエス様はすべての人の罪のために、身代わりとして十字架にかかって死んでくださったのです。イエス様を十字架に付けたローマの兵士たちのためにも死んでくださったのです。
神様は愛なるお方です。神様の忍耐は十字架上のイエス様の姿に映し出されています。罪に罪を重ねるこの世界にあって、神様は忍耐の緒を切らせて全人類を裁くためでなく、むしろ救うために御子イエス様を遣わし、イエス様の十字架を通して全人類の罪を赦すという道を備えてくださったのです。神様の私たちへの忍耐は偉大で大いなるものです。神様は寛容なお方です。私たちも寛容という愛を身に着けたいと願います。
20120624 全き愛は恐れを締め出す ― 2012年06月24日
「 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
ヨハネの手紙第一4章18節
イエス様は「恐れるな」と繰り返し弟子たちに語られました。また地上の生涯を終えて復活された後、弟子たちに現れて語られた言葉も「恐れるな」でした。聖書全体も神様からのメッセージとして「恐れるな」と繰り返し神様を求める人々に伝えています。神様は私たちが恐れ易い者であることをご存じなので、繰り返し「恐れるな」と語り、私たちを励まして下さっているのです。
私たちはいろいろなことで恐れを抱くものです。心配、思い煩い、不安、ストレス等はみな恐れを表していることばです。仕事を失う恐れ、結婚生活の破たんの恐れ、健康を損ねるのではないかという恐れ、将来の保証が失われるのではないかという恐れなど、私たちは様々な恐れを持っています。
上記の聖書箇所は恐れの無い人生の秘訣を教えています。それは愛を私たちの心の中に満たすことです。愛と恐れとは両立することができません。心の中に愛が入るとき、恐れは後ろの戸から出て行くのです。私たちは心の深いところで愛を必要としています。その愛は無条件の愛です。何かしたから、何かできるから愛する条件付きの愛ではなく、ありのままの私たちを愛してくれる愛です。たとえ私たちがとんでもないことを仕出かしたとしてもなお愛し続けてくれる愛です。このような全き愛は人間の愛ではなく、神様の愛だけです。神様は私たちを愛するために私たちを創造し、また神様は私たちが神様を愛することを願っておられるのです。
恐れを私たちの人生から締め出す秘訣は私たちの心の中に神様の愛を受け入れることです。「神様、私はあなたの愛を受け入れます。私はもっとあなたのことを知り合いと願っています。どうか私を導いてください。」と祈ることです。そして神様の愛をもっとよく知るために聖書を読み始めることです。そのとき、あなたの心の中に神様の愛が注がれて、あふれるようになるのです。それと同時に恐れから解放されるのです。
ヨハネの手紙第一4章18節
イエス様は「恐れるな」と繰り返し弟子たちに語られました。また地上の生涯を終えて復活された後、弟子たちに現れて語られた言葉も「恐れるな」でした。聖書全体も神様からのメッセージとして「恐れるな」と繰り返し神様を求める人々に伝えています。神様は私たちが恐れ易い者であることをご存じなので、繰り返し「恐れるな」と語り、私たちを励まして下さっているのです。
私たちはいろいろなことで恐れを抱くものです。心配、思い煩い、不安、ストレス等はみな恐れを表していることばです。仕事を失う恐れ、結婚生活の破たんの恐れ、健康を損ねるのではないかという恐れ、将来の保証が失われるのではないかという恐れなど、私たちは様々な恐れを持っています。
上記の聖書箇所は恐れの無い人生の秘訣を教えています。それは愛を私たちの心の中に満たすことです。愛と恐れとは両立することができません。心の中に愛が入るとき、恐れは後ろの戸から出て行くのです。私たちは心の深いところで愛を必要としています。その愛は無条件の愛です。何かしたから、何かできるから愛する条件付きの愛ではなく、ありのままの私たちを愛してくれる愛です。たとえ私たちがとんでもないことを仕出かしたとしてもなお愛し続けてくれる愛です。このような全き愛は人間の愛ではなく、神様の愛だけです。神様は私たちを愛するために私たちを創造し、また神様は私たちが神様を愛することを願っておられるのです。
恐れを私たちの人生から締め出す秘訣は私たちの心の中に神様の愛を受け入れることです。「神様、私はあなたの愛を受け入れます。私はもっとあなたのことを知り合いと願っています。どうか私を導いてください。」と祈ることです。そして神様の愛をもっとよく知るために聖書を読み始めることです。そのとき、あなたの心の中に神様の愛が注がれて、あふれるようになるのです。それと同時に恐れから解放されるのです。
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