私たちの神理解の限界と希望 ― 2025年07月13日
だから、あなたがた良識のある人々よ、私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない。神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる。神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。
ヨブ記34章10~12節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記34章も続きます。ヨブ記32章から始まったエリフの「怒りに燃えた」発言は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの友人三人にも向けられています。しかしエリフの発言を32章、33章、34章と読み進めて感じることは、エリフの怒りに燃えた発言は、これまでのヨブの友人三人の発言とあまり大差がないことです。
冒頭で引用した通り「全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない」という神理解と、「神は、人の行いに応じて報われる」という因果応報的な理解。この理解に立つ時、正しい神さまが、ヨブの罪を認め、ヨブの罪の報いとして災いを与えられたとなります。一方ヨブの方は、自覚的に正しく歩んできたという自負があるからこそ、友人から、ヨブ自身の中に罪があるから災いを受けたのだと責められると納得がいかないという状況でした。エリフもこの思考から脱却できていません。
これが、私たち人間の神理解の限界でしょう。私たちは、神さまのことを表面的にしか、一面的にしか理解できないのです。しかし、三位一体の神さまは、多面的であり、多層的な存在です。けれども、このような私たちに、神さまは一つの希望も備えていてくださいます。それは、聖書が語る神さまを信じる一人ひとりがその表面的、一面的神理解を互いに認め合うことです。お互いの神理解をさばき合うのでもなく、批判し合うのでもなく、否定し合うのでもありません。互いに認め合い、受け入れ合い、愛し合うのです。そこに豊かな神理解が生まれていきます。
けれどもそのような取り組みを通しても、私たちの神理解には限界があります。聖書が語る神さまの豊かさは、私たちの神理解をはるかに超えていますが、それでも様々なキリスト者の存在を通して、私たちは神さまを多面的に、多層的に理解することができるのです。
この希望をもって、今週も、お互いの神理解を認め合い、語り合い、私たちの神理解をさらにより多面的に、多層的にしていきましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記34章10~12節
ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記34章も続きます。ヨブ記32章から始まったエリフの「怒りに燃えた」発言は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの友人三人にも向けられています。しかしエリフの発言を32章、33章、34章と読み進めて感じることは、エリフの怒りに燃えた発言は、これまでのヨブの友人三人の発言とあまり大差がないことです。
冒頭で引用した通り「全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない」という神理解と、「神は、人の行いに応じて報われる」という因果応報的な理解。この理解に立つ時、正しい神さまが、ヨブの罪を認め、ヨブの罪の報いとして災いを与えられたとなります。一方ヨブの方は、自覚的に正しく歩んできたという自負があるからこそ、友人から、ヨブ自身の中に罪があるから災いを受けたのだと責められると納得がいかないという状況でした。エリフもこの思考から脱却できていません。
これが、私たち人間の神理解の限界でしょう。私たちは、神さまのことを表面的にしか、一面的にしか理解できないのです。しかし、三位一体の神さまは、多面的であり、多層的な存在です。けれども、このような私たちに、神さまは一つの希望も備えていてくださいます。それは、聖書が語る神さまを信じる一人ひとりがその表面的、一面的神理解を互いに認め合うことです。お互いの神理解をさばき合うのでもなく、批判し合うのでもなく、否定し合うのでもありません。互いに認め合い、受け入れ合い、愛し合うのです。そこに豊かな神理解が生まれていきます。
けれどもそのような取り組みを通しても、私たちの神理解には限界があります。聖書が語る神さまの豊かさは、私たちの神理解をはるかに超えていますが、それでも様々なキリスト者の存在を通して、私たちは神さまを多面的に、多層的に理解することができるのです。
この希望をもって、今週も、お互いの神理解を認め合い、語り合い、私たちの神理解をさらにより多面的に、多層的にしていきましょう。 (吉持日輪生)
最近のコメント