死と救い ― 2024年10月06日
モルデカイはエステルに返事を送って言った。「あなたは、すべてのユダヤ人から離れて王宮にいるので助かるだろう、と考えてはいけない。もし、あなたがこのようなときに沈黙を守るなら、別のところから助けと救いがユダヤ人のために起こるだろう。しかし、あなたも、あなたの父の家も滅びるだろう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない。」
エステル記4章13~14節
エステル記の中でとても印象に残る個所が、上記のことばです。特に14節後半「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」は、私たち信仰者が、困難な中に置かれる時に思い出し、励まされ、勇気をいただける個所です。
イエスさまも、同じようなことばを語られています。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
ヨハネの福音書12章27節
エステル記では「ユダヤ人の死」を前にして「このような時のためかも」とあり、イエスさまも「十字架での死」を前にして「このためにこそ、わたしはこの時に至った」と語っています。
聖書は、「死ぬこと」を明確に語ると共に、「その死からの救い」も明確に語っています。けれども私たち日本人は「死」を語ることを控える文化の中にあり、そのため「死からの救い」を伝える機会も少なくなっているのかもしれません。またそのような文化が、「死からの救い」を語る「福音」を届きにくくしているのかもしれません。
私たち日本人クリスチャン、日本にいるクリスチャンは、このような文化の日本に命を授かり、「福音を届ける」困難さを経験していますが、だからこそエステル記が語るように「あなたがこの王国に来たのは(この日本にいるのは)、もしかすると、このような時のためかもしれない」と、この日本に住む一人一人に福音を届けることを、祈りつつ、工夫し、これからもチャレンジしていきましょう。(吉持日輪生)
エステル記4章13~14節
エステル記の中でとても印象に残る個所が、上記のことばです。特に14節後半「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかもしれない」は、私たち信仰者が、困難な中に置かれる時に思い出し、励まされ、勇気をいただける個所です。
イエスさまも、同じようなことばを語られています。
「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ、この時からわたしをお救いください』と言おうか。いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
ヨハネの福音書12章27節
エステル記では「ユダヤ人の死」を前にして「このような時のためかも」とあり、イエスさまも「十字架での死」を前にして「このためにこそ、わたしはこの時に至った」と語っています。
聖書は、「死ぬこと」を明確に語ると共に、「その死からの救い」も明確に語っています。けれども私たち日本人は「死」を語ることを控える文化の中にあり、そのため「死からの救い」を伝える機会も少なくなっているのかもしれません。またそのような文化が、「死からの救い」を語る「福音」を届きにくくしているのかもしれません。
私たち日本人クリスチャン、日本にいるクリスチャンは、このような文化の日本に命を授かり、「福音を届ける」困難さを経験していますが、だからこそエステル記が語るように「あなたがこの王国に来たのは(この日本にいるのは)、もしかすると、このような時のためかもしれない」と、この日本に住む一人一人に福音を届けることを、祈りつつ、工夫し、これからもチャレンジしていきましょう。(吉持日輪生)
ハマンの高ぶり ― 2024年10月13日
ハマンはその日、喜び上機嫌で去って行った。ところが、ハマンは、王の門のところにいるモルデカイが立ち上がろうともせず、身動きもしないのを見て、モルデカイに対する憤りに満たされた。しかし、ハマンは我慢して家に帰り、(中略)しかし、私が、王の門のところに座っているあのユダヤ人モルデカイを見なければならない間は、これら一切のことも私には何の役にも立たない。」すると、彼の妻ゼレシュと彼の友人たちはみな彼に言った。「高さ五十キュビトの柱を立てさせて、明日の朝、王に話して、モルデカイをそれにかけるようにしなさい。それから、王と一緒に、喜んでその宴会にお出かけなさい。」ハマンはこの進言が気に入ったので、その柱を立てさせた。
エステル記5章9~14節(抜粋)
エステル記3章に記されていた「ハマンの怒り・憤り」への対処に比べると、エステル記5章の「ハマンの怒り・憤り」への対処の仕方が、少し成長しているように感じます。そのことを感じるのは、10節で「しかし、ハマンは我慢して家に帰り」とあるところです。ハマンが我慢できた理由をいくつか考えることができます。一つは、彼の内的成長です。もう一つは、すでにユダヤ民族を根絶やしにする計画が進んでいたためです。最後は、私はこれが一番大きいように感じていますが、ハマンが祝福されていたことです。
ハマンは、このように語っています。
ハマンは自分の輝かしい富について、また子どもが大勢いることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを、すべて彼らに話した。ハマンは言った。「しかも王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王と一緒に来させなかった。明日も私は、王と一緒に王妃に招かれている。…」
エステル記5章11~12節
しかし、ハマンの大きな過ちは、その祝福が神さまからのものであることを悟れなかったことです。ハマンとその周りの人たちの高ぶりは、モルデカイをかけるために立てた柱の高さに表れているように感じます。50キュビトとありますが、1キュビトは0.44メートルですので、50キュビトの高さは、22メートルになります。現在の建築でいうと6~7階建ての建物に相当します。実際にそのような高い柱を立てることができたのかどうかはわかりませんが、この高さこそハマンとその周りの人たちの高ぶりを感じます。
今週も、神さまを主語にして、一つ一つの出来事を受けとめ、神さまの前に謙遜になって歩みましょう。
(吉持日輪生)
エステル記5章9~14節(抜粋)
エステル記3章に記されていた「ハマンの怒り・憤り」への対処に比べると、エステル記5章の「ハマンの怒り・憤り」への対処の仕方が、少し成長しているように感じます。そのことを感じるのは、10節で「しかし、ハマンは我慢して家に帰り」とあるところです。ハマンが我慢できた理由をいくつか考えることができます。一つは、彼の内的成長です。もう一つは、すでにユダヤ民族を根絶やしにする計画が進んでいたためです。最後は、私はこれが一番大きいように感じていますが、ハマンが祝福されていたことです。
ハマンは、このように語っています。
ハマンは自分の輝かしい富について、また子どもが大勢いることや、王が自分を重んじ、王の首長や家臣たちの上に自分を昇進させてくれたことなどを、すべて彼らに話した。ハマンは言った。「しかも王妃エステルは、王妃が設けた宴会に、私のほかはだれも王と一緒に来させなかった。明日も私は、王と一緒に王妃に招かれている。…」
エステル記5章11~12節
しかし、ハマンの大きな過ちは、その祝福が神さまからのものであることを悟れなかったことです。ハマンとその周りの人たちの高ぶりは、モルデカイをかけるために立てた柱の高さに表れているように感じます。50キュビトとありますが、1キュビトは0.44メートルですので、50キュビトの高さは、22メートルになります。現在の建築でいうと6~7階建ての建物に相当します。実際にそのような高い柱を立てることができたのかどうかはわかりませんが、この高さこそハマンとその周りの人たちの高ぶりを感じます。
今週も、神さまを主語にして、一つ一つの出来事を受けとめ、神さまの前に謙遜になって歩みましょう。
(吉持日輪生)
神さまの壮大な計画 ― 2024年10月20日
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じた。そしてそれは王の前で読まれた。
エステル記6章1節
エステル記6章は、「すべてのことがともに働いて益とする」(ローマ人への手紙8章28節)神さまを深く思わされる内容となっています。例えば冒頭引用個所に記されている王さまが眠れなかったことも、神さまは用いておられます。
その(記録の書、年代記の)中に、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタナとテレシュが、クセルクセス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれているのを見つけた。
エステル記6章2節
この出来事は、以下の通りです。
そのころ、モルデカイが王の門のところに座っていると、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタンとテレシュが怒って、クセルクセス王を手にかけようとしていた。このことがモルデカイの知るところとなり、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。このことが追及され、その事実が明らかになったので、彼ら二人は木にかけられた。このことは王の前で年代記に記録された。
エステル記2章21~23節
この通り、「年代記に記録され」ますが、このことでモルデカイには何の「栄誉も、昇進も」ありませんでした。ある意味忘れられていました。しかし、それも「このような時のためかもしれない」(エステル記4章14節後半)とあるように、ハマンが、モルデカイを殺害しようとする時のために、「栄誉も、昇進も」忘れられていたのでしょう。
私たちの視点からすると、「眠れないこと」も、「忘れてしまうこと」も、決して「良いこと」ではありませんが、神さまは、そのようなことも「益」に変えてくださるのです。今週、「眠れないこと」があっても、また「忘れてしまうこと」があっても、私たちは、神さまがこのことをどのように「益」にしてくださるのだろうかと、神さまに期待しつつ歩むことができます。そのような神さまが「私の神」として関わってくださることを感謝しつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
エステル記6章1節
エステル記6章は、「すべてのことがともに働いて益とする」(ローマ人への手紙8章28節)神さまを深く思わされる内容となっています。例えば冒頭引用個所に記されている王さまが眠れなかったことも、神さまは用いておられます。
その(記録の書、年代記の)中に、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタナとテレシュが、クセルクセス王を殺そうとしていることをモルデカイが報告した、と書かれているのを見つけた。
エステル記6章2節
この出来事は、以下の通りです。
そのころ、モルデカイが王の門のところに座っていると、入り口を守っていた王の二人の宦官ビグタンとテレシュが怒って、クセルクセス王を手にかけようとしていた。このことがモルデカイの知るところとなり、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。このことが追及され、その事実が明らかになったので、彼ら二人は木にかけられた。このことは王の前で年代記に記録された。
エステル記2章21~23節
この通り、「年代記に記録され」ますが、このことでモルデカイには何の「栄誉も、昇進も」ありませんでした。ある意味忘れられていました。しかし、それも「このような時のためかもしれない」(エステル記4章14節後半)とあるように、ハマンが、モルデカイを殺害しようとする時のために、「栄誉も、昇進も」忘れられていたのでしょう。
私たちの視点からすると、「眠れないこと」も、「忘れてしまうこと」も、決して「良いこと」ではありませんが、神さまは、そのようなことも「益」に変えてくださるのです。今週、「眠れないこと」があっても、また「忘れてしまうこと」があっても、私たちは、神さまがこのことをどのように「益」にしてくださるのだろうかと、神さまに期待しつつ歩むことができます。そのような神さまが「私の神」として関わってくださることを感謝しつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
悪人ハマンの姿と私たち ― 2024年10月27日
エステルは言った。「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです。」ハマンは王と王妃の前で震え上がった。
エステル記7章6節
冒頭引用箇所の「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです」は、勧善懲悪の主人公や、戦隊ヒーローのセリフのような、存在感のあることばです。
悪人ハマンは、まさにそのことばを前にして、冒頭引用箇所では「震え上がった」とあり、さらに8節では「ハマンの顔は青ざめた」とあります。そしてこのエステル記7章の勧善懲悪的な展開は、次のように終わります。
そのとき、王の前にいた宦官の一人ハルボナが言った。「ちょうど、王に良い知らせを告げたモルデカイのためにハマンが用意した、高さ五十キュビトの柱がハマンの家に立っています。」すると王は命じた。「彼をそれにかけよ。」こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りは収まった。
エステル記7章9~10節
悪人ハマンは、モルデカイを吊るして殺し、さらにさらすために用意した50キュビト(約22メートル)の柱にかけられて、ハマン自身がさらされてしまいます。
しかし、この悪人ハマンの姿は、私たちの姿でもあります。私たちも神さまの前に立つならば、「震え上がり」「顔は青ざめる」しかないほどの罪人です。そのような私たちが、神さまの前で平安に歩めるのは、神さまの右の座に着き、私たちのことをとりなしてくださるイエスさまがおられるからです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ人への手紙8章34節
今週も、イエスさまのとりなしの恵みにあずかり、その恵みを覚え、イエスさまに感謝しつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
エステル記7章6節
冒頭引用箇所の「迫害する者、敵とは、この悪人ハマンです」は、勧善懲悪の主人公や、戦隊ヒーローのセリフのような、存在感のあることばです。
悪人ハマンは、まさにそのことばを前にして、冒頭引用箇所では「震え上がった」とあり、さらに8節では「ハマンの顔は青ざめた」とあります。そしてこのエステル記7章の勧善懲悪的な展開は、次のように終わります。
そのとき、王の前にいた宦官の一人ハルボナが言った。「ちょうど、王に良い知らせを告げたモルデカイのためにハマンが用意した、高さ五十キュビトの柱がハマンの家に立っています。」すると王は命じた。「彼をそれにかけよ。」こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。それで王の憤りは収まった。
エステル記7章9~10節
悪人ハマンは、モルデカイを吊るして殺し、さらにさらすために用意した50キュビト(約22メートル)の柱にかけられて、ハマン自身がさらされてしまいます。
しかし、この悪人ハマンの姿は、私たちの姿でもあります。私たちも神さまの前に立つならば、「震え上がり」「顔は青ざめる」しかないほどの罪人です。そのような私たちが、神さまの前で平安に歩めるのは、神さまの右の座に着き、私たちのことをとりなしてくださるイエスさまがおられるからです。
だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
ローマ人への手紙8章34節
今週も、イエスさまのとりなしの恵みにあずかり、その恵みを覚え、イエスさまに感謝しつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
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