この日本でも「その日」が必ず来ると信じる2024年09月01日

彼らはその日、数多くのいけにえを献げて喜んだ。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜んだので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。
      ネヘミヤ記12章43節

 ネヘミヤ記12章も、「神の宮をないがしろにしない」取り組みが進められていきます。様々な人的な手当ても進んでいく中、賛美が献げられていきます。「賛美をして感謝をささげた」(24節)、「感謝の歌を歌い、喜びをもって」(27節)、「感謝の歌をささげる二つの賛美隊」(40節)と、「賛美」と「感謝」の言葉が続きます。
 その最高潮の状況が、冒頭引用したネヘミヤ記12章43節です。「その日、数多くのいけにえを献げて喜んだ」とありますが、「献げる」ことで喜びを現わす姿、「女も子どもも喜んだ」とある通り、その「喜び」は男性だけ、女性だけ、子どもだけという一部の人たちの喜びではありませんでした。そして「エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」とあるように、その「喜び」は、近くにいる人たちにだけ届く「喜び」ではなく、また、ただ「遠くまで聞こえた」のでもなく、「はるか遠くまで聞こえた」喜びでした。
 このエルサレムでの「喜び」は、むかしむかしの話ではなく、今も、このような「喜び」に包まれることがあると信じます。今、茨木聖書教会は、雨漏りがあったり、病に苦しんでおられる方、入院しなければならない方もおられます。しかし、私たちも、ここに記されている「喜び」にあずかることができるのです。なぜならこの時代の人たちと同じ神さまを信じ、同じ神さまへの礼拝を献げているからです。この茨木聖書教会で、この日本で、ここに記されているような「その日」を経験できると信じ、これからも共に礼拝を献げていきましょう。

彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。主よ、あなたを恐れず、御名をあがめない者がいるでしょうか。あなただけが聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが明らかにされたからです。」
                  ヨハネの黙示録15章3~4節

                                  (吉持日輪生)

「祈り」で始まり、「祈り」で終わるネヘミヤ記2024年09月08日

私は異教的なもの一切から彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めにしたがって職務に就かせ、定められた時に行う薪のささげ物と、初物についても規定を定めた。私の神よ、どうか私を覚えて、いつくしんでください。   

                 ネヘミヤ記13章30~31節

 ネヘミヤ記は、今回取り扱う13章で終わります。冒頭に引用した「祈り」が、ネヘミヤ記最後の言葉となっています。この「祈り」を読みながら思い出すのは、ネヘミヤ記が「涙の祈り」から始まっていたことです。

 このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。 「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。どうか、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください。私は今、あなたのしもべイスラエルの子らのために、昼も夜も御前に祈り、私たちがあなたに対して犯した、イスラエルの子らの罪を告白しています。まことに、私も私の父の家も罪を犯しました。(中略)ああ、主よ。どうかこのしもべの祈りと、喜んであなたの名を恐れるあなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。どうか今日、このしもべに幸いを見させ、この人の前で、あわれみを受けさせてくださいますように。」

                ネヘミヤ記1章4~11節(抜粋)

 ネヘミヤ記を読んでいると、ネヘミヤは何度か「総督」という肩書とともに紹介されています(8章9節、10章1節、12章26節)。いつの時代であっても、リーダーが、天地万物を造られた神さまの前に祈りつつ歩む姿勢はとても大切です。
 日本のリーダー、地域のリーダーとして、天地万物を造られた神さまを恐れ、神さまに祈りつつ歩む人が立てられるように祈りましょう。またあなた自身が、リーダーとして立たされているのであれば、あなたも祈りを大切にして日々歩みましょう。                            
                        (吉持日輪生)

怒りのコントロール2024年09月15日

しかし、王妃ワシュティは宦官から伝えられた王の命令を拒み、来ようとはしなかった。そのため王は激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った。そこで王は時を熟知している、知恵のある者たちに言った──このように、法令と裁判に詳しいすべての者に諮るのが、王の慣わしであった。    エステル記1章12~13節

 今回から「エステル記」です。この場面は、ペルシアのクセルクセス王が、王妃ワシュティの容姿のすばらしさ、美しさを民と首長たちに見せるため、王冠をかぶり、王の前に出るように伝えるのですが、王妃ワシュティは、その命令を拒みます。そのような行動をとった王妃ワシュティに対するクセルクセス王の感情、「激しく怒り、憤りが燃え立つ」状況がここに記されています。
 クセルクセス王は、当時インドからクシュ(エチオピア)に至る地域の127州を治めていました。そのような権力のあるクセルクセス王でしたが、「激しい怒り」「憤り」に身を任せて感情的に行動するようなことはしませんでした。クセルクセス王は、「時を熟知している、知恵のある者たち」に相談します。
 「怒り」をコントロールするために大切なことは、相談です。心の中にある「怒り」を言語化することで、「怒り」を客観的にとらえられるようになります。クセルクセス王は、127州の王として、誰にも相談せず、怒りに任せて、感情的に行動することもできましたが、彼はさすが王として「時を熟知している、知恵のある者たち」に相談しています。
 さて私たちにとって最高最善の相談相手は誰でしょうか。それは牧師でもなく、副牧師でもありません。イエスさまです。

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。                    イザヤ書9章6節

 「不思議な助言者」と呼ばれるイエスさまこそが、私たちにとって最高最善の相談相手です。「怒り」を覚えた時、「辛い時」「寂しい時」、イエスさまに相談しつつ、今週も前にと進みましょう。                  (吉持日輪生)

時を支配される神さま2024年09月22日

エステルが王宮のクセルクセス王のもとに召し入れられたのは、王の治世の第七年の第十の月、すなわちテベテの月であった。 
               エステル記2章16節

 先週取り扱ったエステル記1章で起こった王妃ワシュティの王の命令を拒む出来事は、クセルクセス王の治世第三年のことでした。

クセルクセス王がスサの城で、王座に着いていたころ、その治世の第三年に、彼はすべての首長と家臣たちのために宴会を催した。それにはペルシアとメディアの有力者、貴族たち、および諸州の首長たちが出席した。王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ。この期間が終わると、王は、スサの城にいた身分の高い者から低い者に至るまでのすべての民のために、七日間、王宮の園の庭で宴会を催した。             エステル記1章2~5節

 冒頭の引用個所と比べるとエステル記1章の出来事は、エステルが王妃として召し入れられる4年前のことになります。聖書は、エステルの年齢を記していません。しかし「未婚の娘たち」(2章2節)にとって4年という月日は、心身が大きく変化する時期です。ですから、もし王が王妃ワシュティの代わりの王妃を、エステル記1章の出来事からすぐ後に選んでいたら、エステルは王妃に選ばれなかったかもしれません。ここにも「時を支配される神さま」の臨在を覚えます。
 そしてエステル記2章は、エステルが王妃となったことだけを記すのではなく、その最後にモルデカイの功績を記しています。その内容は、このような出来事が起こりましたと、淡々と記しているように読めますが、エステル記を読み進めていくと、この出来事がやはり「時を支配される神さま」の御業の中で、大事な出来事につながっていくこともわかります。
 私たちも「時を支配される神さま」の御手の中で日々歩んでいます。私たちからすると突然のことと思える出来事も、全て神さまのご計画の一コマです。私たち人間がそのことに気付くのには時間がかかりますが、そのことがわかると「時を支配される神さま」の御名を、心からほめたたえることにつながります。
 今週も「時を支配される神さま」に信頼し、期待し歩みましょう。
                        (吉持日輪生)

クセルクセス王とハマンの違い2024年09月29日

ハマンはモルデカイが自分に対して膝もかがめず、ひれ伏そうともしないのを見て、憤りに満たされた。しかし、ハマンはモルデカイ一人を手にかけるだけでは満足しなかった。モルデカイの民族のことが、ハマンに知らされていたのである。それでハマンは、クセルクセスの王国中のすべてのユダヤ人、すなわちモルデカイの民族を根絶やしにしようとした。             エステル記3章5~6節

 2週間前、エステル記1章を取り上げた時、クセルクセス王の「怒りのコントロール」について触れました。クセルクセス王は「激しく怒り、その憤りは彼のうちで燃え立った」(エステル記1章12節後半)にもかかわらず、その怒りに身を任せて感情的な行動をとる前に、「時を熟知している、知恵のある者たち」(エステル記1章13節)に相談して行動しました。
 一方、エステル記3章では、王に重んじられていた「ハマンの怒り」が記されています。ハマンは、自分に「膝もかがめず、ひれ伏そうともしない」モルデカイに対して「怒り」、その「怒り」は、モルデカイ一人を手にかけるだけでは満足せず、モルデカイの民族を根絶やしにしようとする行動へと広がっていきます。まさにハマンは、誰にも相談せず、感情に身を任せた行動をとっています。ここにクセルクセス王とハマンの「怒り」への対処の違いが明らかにされます。
 私たちも日々の生活の中で、「怒り」から解放された日々を歩みたいと思いつつも、やはり様々な状況の中で「怒り」を抱いてしまいます。だからこそ「怒り」を覚えた時の対処の仕方を身につけておくことが大切です。2週間前にも触れましたが、「怒り」を覚えたら、まず神さまに祈ること、イエスさまに聞いてもらうことです。その次に信頼できるクリスチャンに話して共に祈ってもらうことです。
 今週、「怒り」を覚えたらぜひ実践してみましょう。
                             (吉持日輪生)