知恵と工夫 ― 2023年07月02日
門衛の組分けについて。コラ人ではアサフ族のコレの子メシェレムヤ。
歴代誌第一 26章1節
歴代誌第一25章では、「シンバル、琴、竪琴、歌」を奏でる賛美グループの組み分けについて記されていました。今回、歴代誌第一26章では、冒頭引用箇所に「門衛の組分け」とある通り、「門衛の組分け」について記されています。
「賛美を奏でるグループ」と「門衛のグループ」では、その働きは違うでしょうが、グループの構成には似たところがありました。先週のところでは取り上げませんでしたが、「賛美を奏でるグループ」について、「その子たち、兄弟たち」という言葉が、毎回繰り返されていました。そして今回の「門衛のグループ」においても、「子ども」「兄弟たち」という言葉が繰り返し記されています。つまり「賛美を奏でるグループ」も、「門衛のグループ」も、「家族」ごとに担われていたのでしょう。
しかし違いもあります。「賛美を奏でるグループ」について、1グループの人数は必ず「12人」(歴代誌第一25章9~31節)でしたが、「門衛のグループ」には、固定した人数の決まりを読み取ることはできません。「オベデ・エドムに属する者は62人」(8節)、「彼らは勇者で、18人」(9節)、「ホサの子ども、兄弟たちは合計13人」(11節)となっています。つまり「賛美を奏でるグループ」については、グループの人数が12人と固定していたのに対して、「門衛のグループ」には固定した人数の定めはなかったのでしょう。けれどもその先を読み進めると、「門衛」として配置される場所の人数は、しっかり決められていました。
東方には六人のレビ人、北方には毎日四人、南方には毎日四人、倉には二人ずつ、
西方の前庭には、大路に四人、前庭に二人であった。
歴代誌第一 26章17~18節
聖書の記述だけでは、十分に読み取れないところもあります。けれども確実に歴代誌第一25章の「賛美グループ」と26章の「門衛グループ」のあり方には違いがありました。当時の人たちも、神さまに祈りつつ、神さまから知恵をいただきつつ、それぞれの働き、役割を考え、様々な工夫を行っていたのでしょう。
私たちも、コロナを経験したクリスチャンとして、祈りつつ、知恵をいただきつつ、この時代にキリストのからだなる教会を共に建て上げていきましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第一 26章1節
歴代誌第一25章では、「シンバル、琴、竪琴、歌」を奏でる賛美グループの組み分けについて記されていました。今回、歴代誌第一26章では、冒頭引用箇所に「門衛の組分け」とある通り、「門衛の組分け」について記されています。
「賛美を奏でるグループ」と「門衛のグループ」では、その働きは違うでしょうが、グループの構成には似たところがありました。先週のところでは取り上げませんでしたが、「賛美を奏でるグループ」について、「その子たち、兄弟たち」という言葉が、毎回繰り返されていました。そして今回の「門衛のグループ」においても、「子ども」「兄弟たち」という言葉が繰り返し記されています。つまり「賛美を奏でるグループ」も、「門衛のグループ」も、「家族」ごとに担われていたのでしょう。
しかし違いもあります。「賛美を奏でるグループ」について、1グループの人数は必ず「12人」(歴代誌第一25章9~31節)でしたが、「門衛のグループ」には、固定した人数の決まりを読み取ることはできません。「オベデ・エドムに属する者は62人」(8節)、「彼らは勇者で、18人」(9節)、「ホサの子ども、兄弟たちは合計13人」(11節)となっています。つまり「賛美を奏でるグループ」については、グループの人数が12人と固定していたのに対して、「門衛のグループ」には固定した人数の定めはなかったのでしょう。けれどもその先を読み進めると、「門衛」として配置される場所の人数は、しっかり決められていました。
東方には六人のレビ人、北方には毎日四人、南方には毎日四人、倉には二人ずつ、
西方の前庭には、大路に四人、前庭に二人であった。
歴代誌第一 26章17~18節
聖書の記述だけでは、十分に読み取れないところもあります。けれども確実に歴代誌第一25章の「賛美グループ」と26章の「門衛グループ」のあり方には違いがありました。当時の人たちも、神さまに祈りつつ、神さまから知恵をいただきつつ、それぞれの働き、役割を考え、様々な工夫を行っていたのでしょう。
私たちも、コロナを経験したクリスチャンとして、祈りつつ、知恵をいただきつつ、この時代にキリストのからだなる教会を共に建て上げていきましょう。 (吉持日輪生)
神さまの約束を信じて歩もう ― 2023年07月09日
ダビデは二十歳以下の者は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のように多くすると言われたからである。ツェルヤの子ヨアブが数え始めたが、終わらなかった。しかし、このことで御怒りがイスラエルの上に下った。それでその数はダビデ王の年代記の統計には載らなかった。 歴代誌第一 27章23~24節
上記聖書箇所に「主がイスラエルを天の星のように多くすると言われたから」とありますが、この「天の星のように多くする」の原点は、恐らく創世記15章のことです。
そして主は、彼(アブラム)を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
創世記 15章5~6節
ここには、神さまがアブラムに語られた約束とその約束を信じたアブラムのことが記されています。そしてこのアブラムの時代から約1000年後がダビデ王の時代です。ダビデ王は、約1000年前の神さまの約束を忘れていませんでした。しかし、その約束を確かめようと考えたのか、イスラエルの人口を調べた出来事が、サムエル記第二24章に記されています。冒頭に引用した内容とサムエル記第二24章とでは大きな違いがありますが、今回の歴代誌第一27章の記述から、神さまの怒りの根拠が見えてきます。それは「天の星のように多くする」という神さまとの約束を信じることができず、人口を数えようとしたことに神さまは怒られたのです。つまり創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるように、ダビデ王をはじめ、ツェルヤの子ヨアブは、その信仰に立つことができず、人口を調べようとしたからこそ、神さまは怒られたのです。
さて私たちは、どうでしょうか。私たちも、聖書に記されている神さまの約束を信じる者として歩んでいます。私たちもアブラムのようにまっすぐに「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」の立場に立ちたいものです。
神さまの約束が、昨日のことであっても、また数千年前の約束であっても、神さまは必ず約束を果たしてくださることを信じること、それが神さまの前の義(正しさ)であることを覚えて今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
上記聖書箇所に「主がイスラエルを天の星のように多くすると言われたから」とありますが、この「天の星のように多くする」の原点は、恐らく創世記15章のことです。
そして主は、彼(アブラム)を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
創世記 15章5~6節
ここには、神さまがアブラムに語られた約束とその約束を信じたアブラムのことが記されています。そしてこのアブラムの時代から約1000年後がダビデ王の時代です。ダビデ王は、約1000年前の神さまの約束を忘れていませんでした。しかし、その約束を確かめようと考えたのか、イスラエルの人口を調べた出来事が、サムエル記第二24章に記されています。冒頭に引用した内容とサムエル記第二24章とでは大きな違いがありますが、今回の歴代誌第一27章の記述から、神さまの怒りの根拠が見えてきます。それは「天の星のように多くする」という神さまとの約束を信じることができず、人口を数えようとしたことに神さまは怒られたのです。つまり創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるように、ダビデ王をはじめ、ツェルヤの子ヨアブは、その信仰に立つことができず、人口を調べようとしたからこそ、神さまは怒られたのです。
さて私たちは、どうでしょうか。私たちも、聖書に記されている神さまの約束を信じる者として歩んでいます。私たちもアブラムのようにまっすぐに「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた」の立場に立ちたいものです。
神さまの約束が、昨日のことであっても、また数千年前の約束であっても、神さまは必ず約束を果たしてくださることを信じること、それが神さまの前の義(正しさ)であることを覚えて今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
「主の励ましは変わらない」 ― 2023年07月16日
それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる。見よ。神の宮のあらゆる奉仕のために祭司とレビ人の各組がいる。どんな仕事でも、あらゆる奉仕のために知恵をもって進んで事に当たる者がみな、あなたとともにいる。首長たちとすべての民は、あなたの命令すべてに従う。」 歴代誌第一 28章20~21節
上記引用箇所にある「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず…」とは、本当に心強いおことばです。
同じような励ましが、エジプトを脱出する時のリーダーとなったモーセからヨシュアにも語られています。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。
ヨシュア記 1章9節
丁寧に読むならば、上記ヨシュア記1章9節において、ヨシュアは、直接神さまから励ましを受けているのに対して、ソロモンは、ダビデ王から励ましを受けています。しかしダビデ王自身が、ヨシュアと同じように神さまから直接励ましを受け続けてきたからこそ、神さまの励ましと似ているのでしょう。そしてこの神さまの励ましの根拠、大前提は「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア記1章9節)であり、「神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず」(歴代誌第一28章20節)です。
「主(神さま)がともにおられる」「神がともにいてくださる」。これは時代が変わろうと、状況が変わろうと変わることのない神さまからのメッセージであり、約束です。今週も、その神さまを信じ、励ましをいただき、力強く歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
上記引用箇所にある「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず…」とは、本当に心強いおことばです。
同じような励ましが、エジプトを脱出する時のリーダーとなったモーセからヨシュアにも語られています。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから。
ヨシュア記 1章9節
丁寧に読むならば、上記ヨシュア記1章9節において、ヨシュアは、直接神さまから励ましを受けているのに対して、ソロモンは、ダビデ王から励ましを受けています。しかしダビデ王自身が、ヨシュアと同じように神さまから直接励ましを受け続けてきたからこそ、神さまの励ましと似ているのでしょう。そしてこの神さまの励ましの根拠、大前提は「あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにいるのだから」(ヨシュア記1章9節)であり、「神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず」(歴代誌第一28章20節)です。
「主(神さま)がともにおられる」「神がともにいてくださる」。これは時代が変わろうと、状況が変わろうと変わることのない神さまからのメッセージであり、約束です。今週も、その神さまを信じ、励ましをいただき、力強く歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
直ぐな心で、自ら進んで献げる ― 2023年07月23日
すると、一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊と百人隊の長たち、さらに王家の執務の長たちは、自ら進んで、神の宮の奉仕のために、金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントを献げた。
歴代誌第一 29章6~7節
民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
歴代誌第一 29章9節
このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。
歴代誌第一 29章14節
わが神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が、自ら進んであなたに献げるのを、私は喜びのうちに見ました。
歴代誌第一 29章17節
これら上記聖書箇所に共通していることばは「自ら進んで…献げ…」です。
聖書の神さまのために最初に建てられた神殿が、「直ぐな心で、自ら進んで献げた」ものによって建て上げられたことが記されています。私たちも、先週現在の礼拝堂が建てられて30年の節目を迎えました。この会堂を50年は使いたいと考えていますが、そろそろ次なる会堂のための準備をしていく時期に来ていることも感じます。
ダビデ王は、自ら「私は全力を尽くして、私の神の宮のために準備をしてきた」(歴代誌第一29章2節前半)とあるように、私たちも、ダビデ王のように、またその時代の信仰者たちのように「直ぐな心で、自ら進んで献げる」姿勢をもって、次なる礼拝堂の備えをしていきましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第一 29章6~7節
民は、長たちが自ら進んで献げたことを喜んだ。彼らが全き心をもって、自ら進んで主に献げたからである。ダビデ王も大いに喜んだ。
歴代誌第一 29章9節
このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。
歴代誌第一 29章14節
わが神よ。あなたは心を試される方で、真っ直ぐなことを愛されるのを私はよく知っています。私は直ぐな心で、これらすべてを自ら進んで献げました。また今、ここにいるあなたの民が、自ら進んであなたに献げるのを、私は喜びのうちに見ました。
歴代誌第一 29章17節
これら上記聖書箇所に共通していることばは「自ら進んで…献げ…」です。
聖書の神さまのために最初に建てられた神殿が、「直ぐな心で、自ら進んで献げた」ものによって建て上げられたことが記されています。私たちも、先週現在の礼拝堂が建てられて30年の節目を迎えました。この会堂を50年は使いたいと考えていますが、そろそろ次なる会堂のための準備をしていく時期に来ていることも感じます。
ダビデ王は、自ら「私は全力を尽くして、私の神の宮のために準備をしてきた」(歴代誌第一29章2節前半)とあるように、私たちも、ダビデ王のように、またその時代の信仰者たちのように「直ぐな心で、自ら進んで献げる」姿勢をもって、次なる礼拝堂の備えをしていきましょう。 (吉持日輪生)
神さまからの恵みが先行する ― 2023年07月30日
ソロモンは、そこに、すなわち会見の天幕におられる主の前にある青銅の祭壇に上り、その上で千匹の全焼のささげ物を献げた。その夜、神はソロモンに現れて仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」
歴代誌第二 1章6~7節
上記聖書箇所の神さまとソロモン王とのやり取りを読むと、ソロモン王が「千匹の全焼のささげ物を献げた」結果、神さまが「あなた(ソロモン王)に何を与えようか。願え」と語っているように読み取れます。そうだとするならば、聖書の神さまは「たくさんのささげ物に反応する神さま」ということになります。
そのような誤解が生まれないためにもう少し神さまとソロモン王とのやりとりに注目しましょう。
ソロモンは神に言った。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。そして、父に代わって私を王とされました。
歴代誌第二 1章8節
ここでソロモン王は、告白しています。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました」と。つまりソロモン王が献げた「千匹の全焼のささげ物」は、ソロモン王が神さまに願いを聞いてもらうための「ささげ物」ではなく、これまで父ダビデが神さまから受けた「大いなる恵み」に対する、ソロモン王の応答としての「ささげ物」でした。
同じような誤解が生じやすい個所に出エジプト記20章に記されている「十戒」があります。「十戒」の第一戒から読み始めると、
(第一戒)あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
(第二戒)あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
出エジプト記 20章3~4節
この後にも続く十の「戒め」を「十戒」と呼びますが、神さまは、これらの「戒め」を守れば、あなたがたを祝福するので、「戒め」を守りなさいと教えているように読めてしまいます。しかし聖書は、そのような誤解が生じないように、この「十戒」には「前文」を記しています。
わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
出エジプト記 20章2節
このように「ささげ物」にも、「戒め」にも、神さまからの恵みが先行しています。今週も、先行的な神さまの恵みに目を留め、その恵みに応答して日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第二 1章6~7節
上記聖書箇所の神さまとソロモン王とのやり取りを読むと、ソロモン王が「千匹の全焼のささげ物を献げた」結果、神さまが「あなた(ソロモン王)に何を与えようか。願え」と語っているように読み取れます。そうだとするならば、聖書の神さまは「たくさんのささげ物に反応する神さま」ということになります。
そのような誤解が生まれないためにもう少し神さまとソロモン王とのやりとりに注目しましょう。
ソロモンは神に言った。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました。そして、父に代わって私を王とされました。
歴代誌第二 1章8節
ここでソロモン王は、告白しています。「あなたは、私の父ダビデに大いなる恵みを施されました」と。つまりソロモン王が献げた「千匹の全焼のささげ物」は、ソロモン王が神さまに願いを聞いてもらうための「ささげ物」ではなく、これまで父ダビデが神さまから受けた「大いなる恵み」に対する、ソロモン王の応答としての「ささげ物」でした。
同じような誤解が生じやすい個所に出エジプト記20章に記されている「十戒」があります。「十戒」の第一戒から読み始めると、
(第一戒)あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。
(第二戒)あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。
出エジプト記 20章3~4節
この後にも続く十の「戒め」を「十戒」と呼びますが、神さまは、これらの「戒め」を守れば、あなたがたを祝福するので、「戒め」を守りなさいと教えているように読めてしまいます。しかし聖書は、そのような誤解が生じないように、この「十戒」には「前文」を記しています。
わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。
出エジプト記 20章2節
このように「ささげ物」にも、「戒め」にも、神さまからの恵みが先行しています。今週も、先行的な神さまの恵みに目を留め、その恵みに応答して日々歩みましょう。 (吉持日輪生)
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