神さまは、あなたの名を呼ばれる方 ― 2023年03月05日
①ベニヤミンの子はベラ、ベケル、エディアエルの三人。
歴代誌第一 7章6節
②ベニヤミンが生んだのは、その長子ベラ、次男アシュベル、三男アハラフ、四男ノハ、五男ラファ。
歴代誌第一 8章1~2節
③ベニヤミンの子はベラ、ベケル、アシュベル、ゲラ、ナアマン、エヒ、ロシュ、ムピム、フピム、アルデ。
創世記 46章21節
上記①~③の聖書箇所冒頭に記されているベニヤミンは、ヤコブ(イスラエル)の末っ子のベニヤミンです。そして、その子どもたちの名前が記されていますが、①~③全てに登場するのは、長子「ベラ」だけで、①と③に登場するのは「べケル」です。それ以外の名前は、日本語のカタカナ表記上、似ても似つかないものとなっています。そうなると私たちの疑問は、「いったいベニヤミンの子どもは何人いたの?」となります。
その問いに対する一つの答えは、「歴代誌」の書名にあります。「ギリシャ語名を直訳すると『省略された記録第一巻』『省略された記録第二巻』となる」と2023年1月22日の「恵泉」に書きました。まさに「省略された記録」ですから、これまで「省略」されていた子どもたちの名前ということなのかもしれません。
もしそうであるならば、そこにも神さまのご性質が現れています。私たちは、神さまの前に忘れられているように思える時がありますが、神さまはそういうお方ではありません。
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。…」
イザヤ書43章1節
神さまは「あなたの名を呼ぶ」ことのできるお方であり、「あなたの名を呼ばれる」お方です。ですから私たちは、「神さまは、私のことなど覚えていないし、忘れてしまったのだろう」と嘆きたくなることがあっても、聖書を通して「わたしの名を呼ぶ」神さまを信じています。
今週も、「わたしの名を省略することなく、覚えていてくださり、呼んでくださる」神さまと共に歩みましょう。
(吉持日輪生)
歴代誌第一 7章6節
②ベニヤミンが生んだのは、その長子ベラ、次男アシュベル、三男アハラフ、四男ノハ、五男ラファ。
歴代誌第一 8章1~2節
③ベニヤミンの子はベラ、ベケル、アシュベル、ゲラ、ナアマン、エヒ、ロシュ、ムピム、フピム、アルデ。
創世記 46章21節
上記①~③の聖書箇所冒頭に記されているベニヤミンは、ヤコブ(イスラエル)の末っ子のベニヤミンです。そして、その子どもたちの名前が記されていますが、①~③全てに登場するのは、長子「ベラ」だけで、①と③に登場するのは「べケル」です。それ以外の名前は、日本語のカタカナ表記上、似ても似つかないものとなっています。そうなると私たちの疑問は、「いったいベニヤミンの子どもは何人いたの?」となります。
その問いに対する一つの答えは、「歴代誌」の書名にあります。「ギリシャ語名を直訳すると『省略された記録第一巻』『省略された記録第二巻』となる」と2023年1月22日の「恵泉」に書きました。まさに「省略された記録」ですから、これまで「省略」されていた子どもたちの名前ということなのかもしれません。
もしそうであるならば、そこにも神さまのご性質が現れています。私たちは、神さまの前に忘れられているように思える時がありますが、神さまはそういうお方ではありません。
だが今、主はこう言われる。ヤコブよ、あなたを創造した方、イスラエルよ、あなたを形造った方が。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。…」
イザヤ書43章1節
神さまは「あなたの名を呼ぶ」ことのできるお方であり、「あなたの名を呼ばれる」お方です。ですから私たちは、「神さまは、私のことなど覚えていないし、忘れてしまったのだろう」と嘆きたくなることがあっても、聖書を通して「わたしの名を呼ぶ」神さまを信じています。
今週も、「わたしの名を省略することなく、覚えていてくださり、呼んでくださる」神さまと共に歩みましょう。
(吉持日輪生)
神さまの約束(預言)はすごい ― 2023年03月12日
彼らの所有地である彼らの町々に戻って来て最初に住みついたのは、イスラエルの人々、祭司たち、レビ人および宮のしもべたちであった。エルサレムには、ユダ族、ベニヤミン族、エフライムおよびマナセ族の者が住んだ。アミフデの子ウタイ。アミフデはオムリの子、オムリはイムリの子、イムリはバニの子。バニはユダの子ペレツの子孫である。
歴代誌第一 9章2~4節
上記引用箇所冒頭の「彼らの所有地である彼らの町々に戻って来て最初に住みついた」とは、バビロンへの捕囚からイスラエルの地に戻って来た時のことを指していると考えられています。ちょうど旧約聖書ネヘミヤ記の時代です。
また今日の引用箇所にも、私の一押しの人「ペレツ」の名前が登場します。そして今回取り上げている歴代誌第一9章と同じことが記されているネヘミヤ記の個所にはこのようにあります。
エルサレムに住んだペレツの子孫は合計四百六十八人の勇士であった。
ネヘミヤ記 11章6節
このネヘミヤ記を読むとバビロンからイスラエルに帰還し、エルサレムに住んだユダ族の中には、最低でも468人のペレツの子孫の勇士がいたことになります。
ではなぜ聖書は、エルサレムにユダ族が戻ったことを記すのでしょうか。歴代誌第一だけでなく、ネヘミヤ記でも記すのでしょうか。その一つの理由が、創世記49章のヤコブが、子どもたち一人ひとりの名前を挙げて献げた預言の祈りにあります。
ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。
創世記 49章9~10節前半
ユダ族がエルサレムに戻ったことを記す理由、それは創世記49章の預言が、しっかりと成就していることを明らかにするためです。そして私たちは、その預言が、マタイの福音書1章に記されている系図を通して、イエス・キリストにつながることを知る時、神さまの預言のすごさに圧倒されます。今週も、神さまの約束は必ず成就することを覚えつつ、神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第一 9章2~4節
上記引用箇所冒頭の「彼らの所有地である彼らの町々に戻って来て最初に住みついた」とは、バビロンへの捕囚からイスラエルの地に戻って来た時のことを指していると考えられています。ちょうど旧約聖書ネヘミヤ記の時代です。
また今日の引用箇所にも、私の一押しの人「ペレツ」の名前が登場します。そして今回取り上げている歴代誌第一9章と同じことが記されているネヘミヤ記の個所にはこのようにあります。
エルサレムに住んだペレツの子孫は合計四百六十八人の勇士であった。
ネヘミヤ記 11章6節
このネヘミヤ記を読むとバビロンからイスラエルに帰還し、エルサレムに住んだユダ族の中には、最低でも468人のペレツの子孫の勇士がいたことになります。
ではなぜ聖書は、エルサレムにユダ族が戻ったことを記すのでしょうか。歴代誌第一だけでなく、ネヘミヤ記でも記すのでしょうか。その一つの理由が、創世記49章のヤコブが、子どもたち一人ひとりの名前を挙げて献げた預言の祈りにあります。
ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。雄獅子のように、雌獅子のように、うずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こせるだろうか。王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。
創世記 49章9~10節前半
ユダ族がエルサレムに戻ったことを記す理由、それは創世記49章の預言が、しっかりと成就していることを明らかにするためです。そして私たちは、その預言が、マタイの福音書1章に記されている系図を通して、イエス・キリストにつながることを知る時、神さまの預言のすごさに圧倒されます。今週も、神さまの約束は必ず成就することを覚えつつ、神さまと共に歩みましょう。 (吉持日輪生)
主に信頼し、主のことばを守り、主に尋ねつつ歩む ― 2023年03月19日
このように、サウルは主の信頼を裏切った不信の罪のゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。
歴代誌第一 10章13~14節
歴代誌第一10章の内容は、サムエル記第一31章とほぼほぼ同じです。例えば歴代誌第一10章3節を比べてみるとこのようになります。
歴代誌第一10章3節:攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえに傷を負った。
サムエル記第一31章3節:攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。
歴代誌第一10章では「傷を負った」が、サムエル記第一31章では「ひどい傷を負った」となっています。これくらいの差異しかない歴代誌第一10章とサムエル記第一31章ですが、明確に違うところは、歴代誌第一10章には、冒頭のことばが最後に記されていますが、サムエル記第一31章にこの内容は記されていないところです。
まさにそこに「省略された記録第一巻」(「歴代誌」という書物名のギリシア語直訳)としての「歴代誌第一」の使命が果たされているのです。
しかしこの「歴代誌」に記されているサウル王に対する総括は、とても厳しい内容です。もしこのような内容で「死」がもたらされるならば、私たちもサウルと同じく「死」しかないと思わされます。「主の信頼を裏切った不信の罪」も、「主のことばを守らず、(中略)主に尋ねることをしなかった」罪も、私たちの内には幾度もあるからです。しかし、まだ「死」を迎えることなく、生かされているのは、ただただイエスさまの十字架による「罪の贖い」があるからです。
今週も、神さまのあわれみの中、生かされている恵みを朝ごとに思い返し、主に信頼し、主のことばを守り、主に尋ねつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第一 10章13~14節
歴代誌第一10章の内容は、サムエル記第一31章とほぼほぼ同じです。例えば歴代誌第一10章3節を比べてみるとこのようになります。
歴代誌第一10章3節:攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえに傷を負った。
サムエル記第一31章3節:攻撃はサウルに集中し、射手たちが彼を狙い撃ちにしたので、彼は射手たちのゆえにひどい傷を負った。
歴代誌第一10章では「傷を負った」が、サムエル記第一31章では「ひどい傷を負った」となっています。これくらいの差異しかない歴代誌第一10章とサムエル記第一31章ですが、明確に違うところは、歴代誌第一10章には、冒頭のことばが最後に記されていますが、サムエル記第一31章にこの内容は記されていないところです。
まさにそこに「省略された記録第一巻」(「歴代誌」という書物名のギリシア語直訳)としての「歴代誌第一」の使命が果たされているのです。
しかしこの「歴代誌」に記されているサウル王に対する総括は、とても厳しい内容です。もしこのような内容で「死」がもたらされるならば、私たちもサウルと同じく「死」しかないと思わされます。「主の信頼を裏切った不信の罪」も、「主のことばを守らず、(中略)主に尋ねることをしなかった」罪も、私たちの内には幾度もあるからです。しかし、まだ「死」を迎えることなく、生かされているのは、ただただイエスさまの十字架による「罪の贖い」があるからです。
今週も、神さまのあわれみの中、生かされている恵みを朝ごとに思い返し、主に信頼し、主のことばを守り、主に尋ねつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)
神さまの祝福は何に現れるか ― 2023年03月26日
ダビデはますます大いなる者となり、万軍の主が彼とともにおられた。
歴代誌第一 11章9節
上記のことばは、サムエル記第二にも記されています。
ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。
サムエル記第二 5章10節
興味深いのは、その後の記述です。サムエル記第二5章では、上記10節以降に「ダビデのために王宮が建てられたこと」(11~12節)、「エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎え、子どもが生まれたこと」(13~16節)が記されています。それに対して歴代誌第一11章は、冒頭引用の9節以降に「勇士たち」のことが記されています。
ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。 歴代誌第一 11章10節
サムエル記は、ダビデ王の祝福を「王宮が建てられ」「側女や妻たちが増え、子どもが増えたこと」として記しているのに対して、歴代誌は違いました。歴代誌は、ダビデ王が、王として祝福されたのは、「勇士たち」によってであることを記しています。勇士たちが、「ダビデ王の王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした」のです。
神さまの祝福は、人の私利私欲を満たすためのものではありません。神さまの祝福は、回りに「勇士たち」など、必要な「人材」が備えられていくことです。
神さまは、今も「キリストのからだなる教会」を祝福し、神さまがともにいてくださることを証しする人々を教会に送ってくださいます。
神さまによって呼び集められた私たち一人ひとりが、勇士であり、教会の祝福となり、この世での神さまの主権をより強固にしていくのです。今週も、私たち一人ひとりが、その役割をになって歩みましょう。 (吉持日輪生)
歴代誌第一 11章9節
上記のことばは、サムエル記第二にも記されています。
ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。
サムエル記第二 5章10節
興味深いのは、その後の記述です。サムエル記第二5章では、上記10節以降に「ダビデのために王宮が建てられたこと」(11~12節)、「エルサレムで、さらに側女たちと妻たちを迎え、子どもが生まれたこと」(13~16節)が記されています。それに対して歴代誌第一11章は、冒頭引用の9節以降に「勇士たち」のことが記されています。
ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、ダビデとともにその王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした人々である。 歴代誌第一 11章10節
サムエル記は、ダビデ王の祝福を「王宮が建てられ」「側女や妻たちが増え、子どもが増えたこと」として記しているのに対して、歴代誌は違いました。歴代誌は、ダビデ王が、王として祝福されたのは、「勇士たち」によってであることを記しています。勇士たちが、「ダビデ王の王権を強固にし、全イスラエルとともに、イスラエルについての主のことばのとおり、彼を王とした」のです。
神さまの祝福は、人の私利私欲を満たすためのものではありません。神さまの祝福は、回りに「勇士たち」など、必要な「人材」が備えられていくことです。
神さまは、今も「キリストのからだなる教会」を祝福し、神さまがともにいてくださることを証しする人々を教会に送ってくださいます。
神さまによって呼び集められた私たち一人ひとりが、勇士であり、教会の祝福となり、この世での神さまの主権をより強固にしていくのです。今週も、私たち一人ひとりが、その役割をになって歩みましょう。 (吉持日輪生)
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