「知る」と「ヤダア」2016年06月12日

サムエルはまだ、【主】を知らず、【主】のことばもまだ、彼に示されていなかった。                       サムエル記第一3章7節

前々回から、ヘブライ語と日本語で意味合いの異なる言葉を紹介しています。前回は、「愛/恵み」と訳される「ヘセド」でした。今回は、「知る」と「ヤダア」について見ていきましょう。
日本語で「知る」とはどのような時によく使われるでしょうか。「友達が元気でいることを知る」とか「カレーの作り方を知る」など、情報を得ることや、新たな知識を身につけることを指してよく使われます。
一方で、ヘブライ語の「ヤダア」はどうでしょうか。「ヤダア」も情報を得ることや、新たな知識を身につけることを指して使われることがありますが、「ヤダア」には、日本語と異なるある重要な特徴があります。
上記の箇所をご覧ください。サムエルは、エリという人物の元で主の宮で働き、「主に仕えていた」(サムエル記第一3:1)と言われています。しかし、その数節後である上記の箇所では、「主を知らない」と記されているのです。サムエルはこの後、主と言葉をかわします。つまり、その主と言葉を交わすことで初めて、主を「ヤダア」「知った」のです。サムエルは、主の宮に仕えていたということから、もちろん主という方がどのような人物かを知識として持っていたでしょうし、主の名前である聖4文字(YHWH)も知っていたでしょう。しかし、その状態ではまだ「ヤダア」「知っている」状態ではなかったのです。このことから、「ヤダア」には「体験的に知る」という重要な特徴があることが分かります。
また、旧約聖書では夫婦が性的関係を持つことを「ヤダア」「知る」という表現で表すことがあります。ここにも、「ヤダア」「知る」ということが、単なる知識ではなく、体験的に知ることであり、全人格的な知であるということが示唆されています。
預言書を読むと、主を知識としては知っているが、体験的に主を「ヤダア」していない「知ら」ないという表現がよく出てきます。キリスト者も、イエス・キリストという方の名前も物語も知っているが、体験的に、そして全人格的に知っているのかということを問わなければならないかもしれません。(吉持尽主伝道師)