20150104 神さまからの祝福に対する貪欲さ ― 2015年01月04日
イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえ(エサウ)が来る前に、私はみな食べて、彼(ヤコブ)を祝福してしまった。それゆえ、彼(ヤコブ)は祝福されよう。」 創世記27章33節
創世記27章は、イサクとリベカに与えられた双子の息子、兄エサウと弟ヤコブの話です。特に上記聖書箇所は、父イサクが双子の弟ヤコブにだまされ、本来兄エサウに献げるべき祝福の祈りを弟ヤコブにしてしまったこと、そのことが分かった時のことばです。イサクは、妻リベカとヤコブにだまされ、エサウが受けるはずの「祝福の祈り」をヤコブにしてしまったのです。
私たちの感覚からすると、だまされ、間違えて、祝福の祈りを兄エサウではなく弟ヤコブにしてしまったのですから、その祈りは、間違い、無効になると考えます。けれどもイサクの時代の信仰は違いました。上記聖書箇所最後に「それゆえ、彼は祝福されよう」とある通り、だまされ、間違えて献げられた祝福の祈りでも有効でした。だからこそイサクの妻リベカは、夫イサクをだましてでも祝福の祈りをヤコブが受けられるようにしたのでしょう。ここにイサクの妻リベカの内に秘めた貪欲なほどまでに神さまからの祝福を求める思いを感じます。「貪欲」とは決してよいものではありませんが、神さまからの祝福を求めることにおいては「貪欲」でもいいのではと思わされる箇所です。さらに新約聖書でイエスさまもこのように語られています。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11章12節)。ここにも天の御国を得ることに対する強い思い、「貪欲」なまでの思いを感じます。
私たちも、新しい年、神さまからの祝福をリベカのように、また天の御国を激しく攻める者のように「貪欲」に祈り求め、神さまからの祝福をたくさんいただく一年としましょう。
創世記27章は、イサクとリベカに与えられた双子の息子、兄エサウと弟ヤコブの話です。特に上記聖書箇所は、父イサクが双子の弟ヤコブにだまされ、本来兄エサウに献げるべき祝福の祈りを弟ヤコブにしてしまったこと、そのことが分かった時のことばです。イサクは、妻リベカとヤコブにだまされ、エサウが受けるはずの「祝福の祈り」をヤコブにしてしまったのです。
私たちの感覚からすると、だまされ、間違えて、祝福の祈りを兄エサウではなく弟ヤコブにしてしまったのですから、その祈りは、間違い、無効になると考えます。けれどもイサクの時代の信仰は違いました。上記聖書箇所最後に「それゆえ、彼は祝福されよう」とある通り、だまされ、間違えて献げられた祝福の祈りでも有効でした。だからこそイサクの妻リベカは、夫イサクをだましてでも祝福の祈りをヤコブが受けられるようにしたのでしょう。ここにイサクの妻リベカの内に秘めた貪欲なほどまでに神さまからの祝福を求める思いを感じます。「貪欲」とは決してよいものではありませんが、神さまからの祝福を求めることにおいては「貪欲」でもいいのではと思わされる箇所です。さらに新約聖書でイエスさまもこのように語られています。「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイ11章12節)。ここにも天の御国を得ることに対する強い思い、「貪欲」なまでの思いを感じます。
私たちも、新しい年、神さまからの祝福をリベカのように、また天の御国を激しく攻める者のように「貪欲」に祈り求め、神さまからの祝福をたくさんいただく一年としましょう。
20150111こここそ神の家 ― 2015年01月11日
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」 創世記28章17節
上記のことばは、ヤコブがパダン・アラムへ向かう旅の途中、神さまがヤコブに届けられたおことばです。この旅は、イサク一族がいたベエル・シェバから直線距離で北東に約1000キロ。目指すパダン・アラムは、母リベカの兄ラバンがいるところでした。ヤコブにとって見知らぬ地。当然様々な不安が心にあったことでしょう。不安を抱えつつ眠りについたヤコブに、神さまは夢を通して語りかけます。しかもその時のヤコブの状況は、一つの石を枕にして寝たと記されています。「彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」(11節b)と。このようにひとりで、心細い中、眠りについたヤコブに、神さまは夢の中で語りかけられました。その神さまのことばが、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28章15節)でした。
なんと力強い、励ましに満ちたことばでしょうか。ひとり、石の枕で寝るヤコブに神さまは「わたしがともにある」と語り、1000キロの旅を迷わず目的地へ行けるのか、またその途中にどのような部族、民族が住んでいるのかわからない不安の中、神さまは「あなたがどこへ行っても、あなたを守り」と語られました。そして目的地パダン・アラムに着いた後、妻を見つけることができるのか、そしてもう一度、イサクのいる場所に戻ることができるのか、そのような不安を抱えるヤコブに、神さまは「あなたをこの地に連れ戻そう」と約束してくださったのです。
「神さまがともにおられ」「神さまが守ってくださり」「神さまが必ず約束の地に連れ戻してくださる」この約束のある場所、そここそが「ベテル」「神の家」「天の門」であり、私たちの教会も「神の家」「天の門」となるように祈り求めましょう。
上記のことばは、ヤコブがパダン・アラムへ向かう旅の途中、神さまがヤコブに届けられたおことばです。この旅は、イサク一族がいたベエル・シェバから直線距離で北東に約1000キロ。目指すパダン・アラムは、母リベカの兄ラバンがいるところでした。ヤコブにとって見知らぬ地。当然様々な不安が心にあったことでしょう。不安を抱えつつ眠りについたヤコブに、神さまは夢を通して語りかけます。しかもその時のヤコブの状況は、一つの石を枕にして寝たと記されています。「彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」(11節b)と。このようにひとりで、心細い中、眠りについたヤコブに、神さまは夢の中で語りかけられました。その神さまのことばが、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28章15節)でした。
なんと力強い、励ましに満ちたことばでしょうか。ひとり、石の枕で寝るヤコブに神さまは「わたしがともにある」と語り、1000キロの旅を迷わず目的地へ行けるのか、またその途中にどのような部族、民族が住んでいるのかわからない不安の中、神さまは「あなたがどこへ行っても、あなたを守り」と語られました。そして目的地パダン・アラムに着いた後、妻を見つけることができるのか、そしてもう一度、イサクのいる場所に戻ることができるのか、そのような不安を抱えるヤコブに、神さまは「あなたをこの地に連れ戻そう」と約束してくださったのです。
「神さまがともにおられ」「神さまが守ってくださり」「神さまが必ず約束の地に連れ戻してくださる」この約束のある場所、そここそが「ベテル」「神の家」「天の門」であり、私たちの教会も「神の家」「天の門」となるように祈り求めましょう。
20150118 神さまと出会う泉となり、水路となろう ― 2015年01月18日
ふと彼が見ると、野に一つの井戸があった。そしてその井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していた。その井戸から群れに水を飲ませることになっていたからである。その井戸の口の上にある石は大きかった。 創世記29章2節
創世記29章は、いよいよヤコブが自分の妻となる女性と巡り会う場面です。その舞台となるのが、上記に記されている通り「野にあった一つの井戸」でした。思い返すとヤコブの母リベカがイサクの妻として選ばれていく場面も、「水」のほとりでした。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう」(創世記24章13節)。
日本でも「井戸端会議」ということばがあるように、昔も今も「井戸」「泉」と水のあるところが人々との出会い、またコミュニケーションの舞台となるのでしょう。そしてイエスさまを信じる私たちについて聖書はこのように書いています。「しかし、わたし(イエス・キリスト)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたし(イエス・キリスト)が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章14節)。また「わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章38節)とあります。
「教会」、そして「キリスト者」は、このいのちへの水が湧く「泉」となり、また生ける水が流れる「水路」となれるのです。ですから私たちは、家庭の中、学校の中、職場の中、地域の中で、人と人が出会う「泉」「水路」となるだけでなく、神さまと出会う「泉」「水路」となれるのです。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1篇2~3節)。このみことばが、あなたの周りで、教会の周りで実現していくように祈り求めていきましょう。
創世記29章は、いよいよヤコブが自分の妻となる女性と巡り会う場面です。その舞台となるのが、上記に記されている通り「野にあった一つの井戸」でした。思い返すとヤコブの母リベカがイサクの妻として選ばれていく場面も、「水」のほとりでした。「ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう」(創世記24章13節)。
日本でも「井戸端会議」ということばがあるように、昔も今も「井戸」「泉」と水のあるところが人々との出会い、またコミュニケーションの舞台となるのでしょう。そしてイエスさまを信じる私たちについて聖書はこのように書いています。「しかし、わたし(イエス・キリスト)が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたし(イエス・キリスト)が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4章14節)。また「わたし(イエス・キリスト)を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7章38節)とあります。
「教会」、そして「キリスト者」は、このいのちへの水が湧く「泉」となり、また生ける水が流れる「水路」となれるのです。ですから私たちは、家庭の中、学校の中、職場の中、地域の中で、人と人が出会う「泉」「水路」となるだけでなく、神さまと出会う「泉」「水路」となれるのです。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」(詩篇1篇2~3節)。このみことばが、あなたの周りで、教会の周りで実現していくように祈り求めていきましょう。
20150125 神さまはここにもおられる ― 2015年01月25日
神はラケルを覚えておられた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
創世記30章22節
創世記29章後半~30章は、ヤコブの妻、レアとラケル、さらにはそれぞれの女奴隷ジルパとビルハを巻き込んだ、ドロドロとした人間の姿が記されています。レアはヤコブの思いを自分に向けさせるためにヤコブとの間に①ルベン、②シメオン、③レビ、④ユダを出産します。その後ラケルは、自分が不妊であるため自分の女奴隷ビルハをヤコブに妻として与え、ヤコブとの間に⑤ダン、⑥ナフタリが誕生します。その後レアも自分の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与え、その間に⑦ガド、⑧アシェルが誕生します。その後も出産は続き、レアがヤコブとの間に⑨イッサカル、⑩ゼブルンを出産し、ラケルとの間に⑪ヨセフが誕生します。ではいったい神さまは、このようなドロドロとした人間模様にどのように関わられているのでしょうか。
29章31節を読むと「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」とある通り、嫌われているレアに目を留められ、上記聖書箇所にある通り不妊であったラケルのことを覚えておられたとあります。私たちは、この世のドロドロとした人間模様の中に神さまは住まわれない、そこから遠く離れてしまうのではと感じますが、聖書の神さまはそうではありません。ドロドロとした人間模様の中に住んでいてくださるお方です。それだけではありません、神さまはこのヤコブと4人の女性を通して誕生した12人の子どもたちを基本にイスラエル12部族をお造りになり、イスラエルの歴史を進められました。
その同じ神さまが、今日も、そして今週も、あなたがどんなにドロドロとした人間関係の中で生きていようと、そのようなことに左右されることなく、あなたのことをご覧になり、覚えていてくださいます。だからこそ私たちも、どのような状況の中にあっても、この神さまをしっかりと覚え、見上げ、少しでも神さまに喜ばれる歩みができるように祈りつつ、歩ませていただきましょう。
創世記30章22節
創世記29章後半~30章は、ヤコブの妻、レアとラケル、さらにはそれぞれの女奴隷ジルパとビルハを巻き込んだ、ドロドロとした人間の姿が記されています。レアはヤコブの思いを自分に向けさせるためにヤコブとの間に①ルベン、②シメオン、③レビ、④ユダを出産します。その後ラケルは、自分が不妊であるため自分の女奴隷ビルハをヤコブに妻として与え、ヤコブとの間に⑤ダン、⑥ナフタリが誕生します。その後レアも自分の女奴隷ジルパをヤコブに妻として与え、その間に⑦ガド、⑧アシェルが誕生します。その後も出産は続き、レアがヤコブとの間に⑨イッサカル、⑩ゼブルンを出産し、ラケルとの間に⑪ヨセフが誕生します。ではいったい神さまは、このようなドロドロとした人間模様にどのように関わられているのでしょうか。
29章31節を読むと「主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた」とある通り、嫌われているレアに目を留められ、上記聖書箇所にある通り不妊であったラケルのことを覚えておられたとあります。私たちは、この世のドロドロとした人間模様の中に神さまは住まわれない、そこから遠く離れてしまうのではと感じますが、聖書の神さまはそうではありません。ドロドロとした人間模様の中に住んでいてくださるお方です。それだけではありません、神さまはこのヤコブと4人の女性を通して誕生した12人の子どもたちを基本にイスラエル12部族をお造りになり、イスラエルの歴史を進められました。
その同じ神さまが、今日も、そして今週も、あなたがどんなにドロドロとした人間関係の中で生きていようと、そのようなことに左右されることなく、あなたのことをご覧になり、覚えていてくださいます。だからこそ私たちも、どのような状況の中にあっても、この神さまをしっかりと覚え、見上げ、少しでも神さまに喜ばれる歩みができるように祈りつつ、歩ませていただきましょう。
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