20120805 人間をとる漁師に2012年08月05日

「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」             マタイの福音書4章19節

 イエス様は3年半におよぶ公生涯のはじめに、まず弟子たちを集められました。イエス様はやがて中心になる弟子たちを選び出され、イエス様と寝食を共にして伝道の働きを学ばせ、訓練することにしました。興味深いことは12弟子と呼ばれた中心的な弟子たちの多くがガリラヤ湖の漁師たちだったことです。上記の聖書箇所で、イエス様はガリラヤ湖畔で網を繕っていたペテロたち4人を「人間をとる漁師にしてあげよう」と呼びかけ、彼らを弟子として召し出されたことが記されています。イエス様が弟子たちを召し出されたことからいくつかのことを考えてみましょう。
 第一に、伝道の初めから、弟子を選び、公生涯の大半を彼らと共に過ごし、訓練されたことです。イエス様が大切にされたことは弟子づくりだったのです。イエス様はただ福音を広めることだけではなく、ご自分の後を引き継いで福音を広める働きをする人をつくり上げることに目を向けました。私たちも後継者をしっかり育てていかなければなりません。
 第二に、人間をとる漁師にすることです。すなわち多くの人々を罪から救い出し、イエス様のもとに勝ち取る働きをする者とすることです。イエス様がペテロたちを召し出したのはこの働きのためです。今日イエス様はガリラヤ湖畔でペテロたちを召し出されたように、私たちクリスチャンも救いに招き入れられただけではなく、人間をとる漁師になるように召し出されているのです。
 第三に、福音を広める働きには犠牲と勇気とが求められていることです。ペテロたちはこの時、網を捨てて、イエス様に従ったと記されています。他の人を神様の救いに招き入れるためには何の苦労も犠牲もなくできるものではありません。ひとりの人の救いのためにどれほどの祈りと労苦とが積み上げられていることでしょうか。私たちもその愛の労苦と犠牲によって救いに招き入れられたのです。

20120812 もっと他の人のことを考えるために2012年08月12日

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」
 ピリピ人への手紙2章3~4節

 私たちの人生は何のためにあるのかと問うとき、その答えの一つは自己中心な生き方から、もっと他の人のことを考える生き方をすることと言えます。その模範は救い主イエス様です。神様は私たちがイエス様のように他の人のことをもっと考える人になって欲しいと願っておられるのです。では一体どのようにしたらもっと他の人のことを考え、思いやることができるのでしょうか。そのためにはまず第一に、自分がどれほど罪深い者であるかを知ることです。「神様。私がどれほど自分のことばかりを考えているかを私に示してください。助けて、それに気づかせてください。」と神様に祈り求めることです。詩篇139篇23~24節にある通りです。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
 第二に、自分に示された神様の大きな恵みに焦点を合わせることです。私たちは自分の罪に直面するとき、失望しまた恐れおののく者です。しかし神様は大きな恵みによって私たちの罪を赦してくださいました。ダビデは姦淫の罪を犯したとき、神様の大きな恵みにすがり、助けを求めています。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。」(詩篇51篇1~2節)神様の恵みはダビデの罪を赦したように、私たちの罪をも赦してくださるのです。
 イエス様が私たちのために十字架で死んでくださったほどに、私たちの罪は大きく重いものでした。しかし神様は私たちに恵みを与えてくださったのです。私たちが自分の罪を認める時、神様はその罪を赦し、私たちの心に他の人を考える力を与えてくださるのです。

20120819 高ぶらず謙遜に歩むために2012年08月19日

「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」         コリント人への手紙第一4章7節

 ロンドンにおける4年に一度のオリンピックが終わり、日本は38個のメダルを獲得しました。競技者の戦う姿に私たちは大いに感動し、たくさんの声援を送りました。メダルを獲得した選手たちがインタビューを受けた時、必ず彼らの口から出てくる言葉はこの栄冠は自分ひとりのものではなく、これまで協力してくれたたくさんの人々の助けによるものですというものです。ひとりの選手がオリンピックという晴れの舞台に立ち、その上メダルを獲得すると言う栄誉に与かるために、たくさんの人々の献身的な協力無くして成し遂げられなかったことです。メダルを獲得するというすばらしい栄誉を受ける時、まず他の人々に感謝を表すことは自らを高ぶりから守る大切な態度と言えます。
 私たちが高ぶらず、また謙遜に歩むために、大切なことは感謝を身に着けることではないでしょうか。上記の聖書箇所において、「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか」と高ぶり易い私たちに語りかけています。高ぶる人はもらったものなのに、あたかももらっていないかのように振る舞っているのです。私たちの大きな勘違いは、自分が持っているものはみな自分で獲得したものだと思っていることです。しかし聖書は言います。私たちはすべてのものを神様からの贈り物としていただいているのですと。聖書は「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1章21節)と述べています。人が生まれること、また死ぬことは私たちの支配を越えた出来事であり、それは神様の支配の中に置かれたこと、神様の定められたことです。神様が私たちに命を与え、一瞬一瞬の時間を与えておられるのです。人生は神様からの贈り物です。私たちは高ぶらないでその時々を感謝して、神様の御心に適って良い行いに励みたいものです。

20120826 神様の祝福にあずかる者となる2012年08月26日

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
マタイの福音書5章3節

イエス様が弟子たちに山の上で教えられた「山上の垂訓」と呼ばれている教えの冒頭は、幸福、祝福の約束から始まっています。上記の一節はその幸いの教えの一番目のものです。これは幸いへの第一歩と言えます。私たちが驚かされるのは、幸いであると言われる内容が一般的に私たちが考えている幸いとは大きくかけ離れている点です。貧しい者や悲しむ者がどうして幸いであるのでしょうか。私たちはむしろお金持ちが幸いであると考えます。また健康な人、成功した人、力の強い人、頭の良い人、有名な人が幸いであると考えます。しかしイエス様は本当の幸いは私たちの周りの状況によって作り出されるものではなく、私たちの内側に神様の祝福が満ち溢れていることが私たちを幸いにするのだと教えているのです。
 イエス様の幸いの約束はイエス様を信じる者たちに対して語られているのです。なぜならば、幸いの源は神様ご自身であり、それは神様の御子イエス様を通してのみ与えられるものだからです。ここで用いられている幸いと言う言葉は神様が持つご性質を表しています。聖書が「祝福に満ちた神」(テモテへの第一の手紙1章11節)と神様を言い表すとき、この「祝福に満ちた」と言う言葉は山上の垂訓で用いられている「幸い」と同じ言葉だからです。私たちイエス様を信じる者は「神様のご性質にあずかる者となる」(ペテロの手紙第二1章4節)ことが約束されています。神様の内にある祝福に満ちたご性質は、イエス様を信じる私たちにも注がれているのです。私たちはたとえどのような状況の中に置かれていても、外面的なものに左右されない確かな、揺るぎない幸いと祝福を神様から受け継ぐことができるのです。
 私たちがこの祝福に満ちた神様のご性質にあずかるためには、心の貧しい者になることが条件です。本当に貧しい人は他の人に頼らなければなりません。そのようにただ神様に拠り頼むしか希望が無いという心が砕かれた人にこの祝福の約束がえられているのです。