私たちの恵みを噛みしめよう2025年07月06日

もし彼のそばに、一人の御使いが、千人に一人の仲介者がいて、その方が彼に代わって彼が誠実であることを告げてくれるなら、神は彼をあわれんで仰せられる。「彼を救って、滅びの穴に下って行かないようにせよ。わたしは身代金を見出した」と。
                         ヨブ記33章23~24節

 ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばが、ヨブ記33章も続きます。彼の「怒りに燃えた」ことばの中には、これまでのヨブの友人達と同様、様々な間違いがありますが、興味深いことは、冒頭で引用した「仲介者」の存在への思いです。これまでもヨブ記に様々な表現で登場してきた内容です。

私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。(ヨブの発言)
                         ヨブ記9章33節

今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が、高い所に。(中略)その方が、人のために神にとりなしてくださいますように。(ヨブの発言)
                         ヨブ記16章19~21節抜粋

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには、土のちりの上に立たれることを。(ヨブの発言)   
                         ヨブ記19章25節

 そして今回は、冒頭でも引用している通り、エリフの発言の中で「仲介者」ということばが登場しています。イエス・キリストが誕生する何百年も前のイスラエル人の中に、イエスさまのような存在が希求されていたことが伝わってきます。そしてヨブの中に、またヨブ記執筆者の中に、イエスさまのような存在のイメージがしっかりできていたことを感じます。
 イエスさまご自身がこのように語っています。

まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。   
                        マタイの福音書13章17節

 私たちは「聖書」を通して、また聖霊なる神さまの助けによって、イエスさまをはっきりと知ることができることを、大きな恵みとして感謝しつつ今週も歩みましょう。            (吉持日輪生)

私たちの神理解の限界と希望2025年07月13日

だから、あなたがた良識のある人々よ、私に聞け。神が悪を行うなど、全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない。神は、人の行いに応じて報いをし、それぞれをその道にしたがって取り扱われる。神は決して悪を行わない。全能者はさばきを曲げない。                     
               ヨブ記34章10~12節

 ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記34章も続きます。ヨブ記32章から始まったエリフの「怒りに燃えた」発言は、ヨブに対してだけでなく、ヨブの友人三人にも向けられています。しかしエリフの発言を32章、33章、34章と読み進めて感じることは、エリフの怒りに燃えた発言は、これまでのヨブの友人三人の発言とあまり大差がないことです。
 冒頭で引用した通り「全能者が不正をするなど、絶対にあり得ない」という神理解と、「神は、人の行いに応じて報われる」という因果応報的な理解。この理解に立つ時、正しい神さまが、ヨブの罪を認め、ヨブの罪の報いとして災いを与えられたとなります。一方ヨブの方は、自覚的に正しく歩んできたという自負があるからこそ、友人から、ヨブ自身の中に罪があるから災いを受けたのだと責められると納得がいかないという状況でした。エリフもこの思考から脱却できていません。
 これが、私たち人間の神理解の限界でしょう。私たちは、神さまのことを表面的にしか、一面的にしか理解できないのです。しかし、三位一体の神さまは、多面的であり、多層的な存在です。けれども、このような私たちに、神さまは一つの希望も備えていてくださいます。それは、聖書が語る神さまを信じる一人ひとりがその表面的、一面的神理解を互いに認め合うことです。お互いの神理解をさばき合うのでもなく、批判し合うのでもなく、否定し合うのでもありません。互いに認め合い、受け入れ合い、愛し合うのです。そこに豊かな神理解が生まれていきます。
 けれどもそのような取り組みを通しても、私たちの神理解には限界があります。聖書が語る神さまの豊かさは、私たちの神理解をはるかに超えていますが、それでも様々なキリスト者の存在を通して、私たちは神さまを多面的に、多層的に理解することができるのです。
 この希望をもって、今週も、お互いの神理解を認め合い、語り合い、私たちの神理解をさらにより多面的に、多層的にしていきましょう。     (吉持日輪生)

「知識もなしに」語らない2025年07月20日

ヨブは空しい口を開き、知識もなしに、自分の言い分を並べ立てている。
                            ヨブ記35章16節

 ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記35章も続きます。そして冒頭で引用したことばも、当然エリフのことばです。ここでエリフが使っている「知識もなしに」ということばですが、エリフは34章でもヨブに対して使っていました。

「ヨブは知識もなしに語る。彼のことばは聡明さに欠けている」と。
                            ヨブ記34章35節

 そしてこのエリフがヨブに対して使う「知識もなしに」という表現は、ヨブ記38章では、主(神さま)がヨブに語ることばの最初に登場します。

主は嵐の中からヨブに答えられた。知識もなしに言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。                   ヨブ記38章1~2節

 このエリフがヨブに語る「知識もなしに」と、主(神さま)がヨブに語る「知識もなしに」の間には、ことばは同じでも、読み手が感じる印象には大きな違いが生じます。主(神さま)が、ヨブだけでなく、誰に対しても「知識もなしに」と語られることに対しては、当然のこととして聞くことができますが、エリフが「知識もなしに」と語ると、「エリフはどないやねん」と言い返したくなります。
 ヨブ記42章に主(神さま)が、ヨブの友人に語っている箇所がありますが、そこにエリフの名前は登場しません。

主がこれらのことばをヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかったからだ。…」 
                    ヨブ記42章7節

エリフは、神さまについて確かなことを語ったので名前が登場しないのか、エリフは箸にも棒にもかからなかったので名前が登場しないのか、それは私にはわかりませんが、「知識もなしに」高慢になって語ることのないように、今週もお互いに気をつけましょう。                      (吉持日輪生)

聖書のみ2025年07月27日

しばらく待て。あなたに示そう。まだ神のために言い分があるからだ。
                             ヨブ記36章2節

 ラム族ブズ人、バラクエルの子エリフのことばは、ヨブ記36章も続きます。そして冒頭で引用した個所には、エリフの発言の立ち位置が滲み出ています。「神のために言い分がある」。このエリフの発言からは、神の代弁者としての立ち位置が見えてきます。
 しかし、エリフが語り始めた時の立ち位置は違いました。

すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼は、ヨブが神よりも自分自身のほうを義としたので、ヨブに向かって怒りを燃やしたのである。彼はまた、その三人の友に向かっても怒りを燃やした。彼らがヨブを不義に定めながら、言い返せなかったからである。          
                             ヨブ記32章2~3節

 ここに記されている通り、エリフが語り始めた時の原動力、立ち位置は、「怒り」でした。「ヨブに向かって怒りを燃やし」(2節)、「三人の友に向かっても怒りを燃やし」(3節)とある通りです。しかしそれがいつの間にか、神さまの代弁者的な立ち位置に変わっていったのです。
 このようなエリフの変化は、エリフだけのことではありません。私たちも気をつけなければ、「神さまについて」「イエスさまについて」「聖霊なる神さまについて」聖書に記されている知識が増し加えられていく時、知らないうちに高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまいやすいのです。
 エリフのように高慢になり、自分を神の代弁者と位置付けてしまわないように、「聖書」に記されていることだけを、神のことばとして語ることが大事です。そして下記の通り、「膝をかがめ」「イエス・キリストは主です」と告白することが大事です。

それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
                              ピリピ人への手紙2章10~11節

 今週も膝をかがめ、「イエス・キリストは主です」と告白しつつ歩みましょう。 (吉持日輪生)