20120715 近道への誘惑 ― 2012年07月15日
「 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』」 マタイの福音書4章8~9節
上記の聖書箇所はイエス様が荒野で悪魔から受けた第三番目の試みです。悪魔の誘惑の要点は近道を取るように勧めていることです。「神の子イエス様は王の王としてすべてのものを支配し、所有しているお方です。何も低く謙遜になり、多くの苦しみを受け、十字架にかかり、死んで後に栄光をお受けになるようなことをしなくても良いのではないでしょうか。私を拝めば、いますぐに栄光を手に入れることができるのです。その方が近道ではないでしょうか。」と悪魔はイエス様を誘惑したのです。しかしイエス様はご自分の願いではなく、父なる神様のご計画に委ねられ、人に仕える道、すなわち十字架の道を選択したのです。イエス様は近道への誘惑を退けられたのです。
犬の調教の話です。犬の目の前に肉のかたまりを置くと、犬はすぐにその肉に飛びつこうとします。調教する人はすぐに「ダメ」と大声でしかりつけ、同時にぴしゃんと犬の背を叩くのです。それを何度も繰り返すうちに、犬はだんだん「ダメ」と叩かれることとが結びつき始めます。最後に、肉のかたまりを目の前に置かれても、すぐに飛びつかず、まず調教する人に目を向け、その指示を待つようになるというのです。
私たちが直面する誘惑は犬の目の前に置かれた肉のかたまりのようなものです。私たちはすぐに飛びつき、手に入れたいという衝動に駆られます。しかし聖書に「 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあるようにイエス様から目を離さないことです。誘惑が来たと思う時、すぐにそれに飛びつくのではなく、まずイエス様に目を向けることです。イエス様が荒野の誘惑において、どのように悪魔の誘惑を退けられたかを思い起こすことです。そしてイエス様が神様の時とその方法に信頼して委ねられたように、私たちも近道を退け忍耐をして神様の導きを待つことです。
上記の聖書箇所はイエス様が荒野で悪魔から受けた第三番目の試みです。悪魔の誘惑の要点は近道を取るように勧めていることです。「神の子イエス様は王の王としてすべてのものを支配し、所有しているお方です。何も低く謙遜になり、多くの苦しみを受け、十字架にかかり、死んで後に栄光をお受けになるようなことをしなくても良いのではないでしょうか。私を拝めば、いますぐに栄光を手に入れることができるのです。その方が近道ではないでしょうか。」と悪魔はイエス様を誘惑したのです。しかしイエス様はご自分の願いではなく、父なる神様のご計画に委ねられ、人に仕える道、すなわち十字架の道を選択したのです。イエス様は近道への誘惑を退けられたのです。
犬の調教の話です。犬の目の前に肉のかたまりを置くと、犬はすぐにその肉に飛びつこうとします。調教する人はすぐに「ダメ」と大声でしかりつけ、同時にぴしゃんと犬の背を叩くのです。それを何度も繰り返すうちに、犬はだんだん「ダメ」と叩かれることとが結びつき始めます。最後に、肉のかたまりを目の前に置かれても、すぐに飛びつかず、まず調教する人に目を向け、その指示を待つようになるというのです。
私たちが直面する誘惑は犬の目の前に置かれた肉のかたまりのようなものです。私たちはすぐに飛びつき、手に入れたいという衝動に駆られます。しかし聖書に「 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」とあるようにイエス様から目を離さないことです。誘惑が来たと思う時、すぐにそれに飛びつくのではなく、まずイエス様に目を向けることです。イエス様が荒野の誘惑において、どのように悪魔の誘惑を退けられたかを思い起こすことです。そしてイエス様が神様の時とその方法に信頼して委ねられたように、私たちも近道を退け忍耐をして神様の導きを待つことです。
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