ヨブの苦悶 ― 2024年12月29日
ヨブは答えた。ああ、私の苦悶の重さが量られ、私の破滅が、ともに秤にかけられたらよいのに。きっと海の砂よりも重いだろう。だから、私のことばは激しかったのだ。
ヨブ記6章1~3節
ヨブ記6章に記されているヨブのことばは、テマン人エリファズへの返答です。ヨブは、ヨブ記3章で自ら語ったことばが「激しかった」と反省の気持ちを表しつつも、その理由を明らかにしています。それは、「海の砂よりも重い」「苦悶」でした。財産を失い、子ども失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患う。しかもそのような苦しみを背負わなければならない理由、意味も分からない。そのような中での「苦悶」です。
テマン人エリファズは、ヨブが苦しみを背負った理由、意味を次のように説明していました。
さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。
ヨブ記4章7~8節
つまりテマン人エリファズの主張は、ヨブの中に「不法」「害悪」があったから、その苦しみを刈り取っているというものでした。
しかし私たちは、ヨブ記1章~2章を通して、ヨブが苦しみを背負うことになった理由を知っているため、テマン人エリファズの主張が間違っていることがわかります。ところが、ヨブはその苦しみの理由を知らないからこそ、ヨブの苦悶は続いているのです。
私たちも、ヨブほどではないにしても、今、背負っている、また直面している「苦しみ」の意味が分からないために「苦悶」することがあります。その時の解決は、親に聞くことでもなく、また友人知人に聞くことでもなく、またこの世で地位の高い人や、社会的に力のある人に聞くのでもありません。そうではなく、すべてを知っておられ、すべての源である神さまに聞くことです。
2024年に直面した苦しみの意味を神さまに問いかけつつ、新しく迎える2025年も神さまに一つ一つの意味を教えていただきながら、「地の塩」「世の光」としての歩みを重ねていきましょう。 (吉持日輪生)
ヨブ記6章1~3節
ヨブ記6章に記されているヨブのことばは、テマン人エリファズへの返答です。ヨブは、ヨブ記3章で自ら語ったことばが「激しかった」と反省の気持ちを表しつつも、その理由を明らかにしています。それは、「海の砂よりも重い」「苦悶」でした。財産を失い、子ども失い、そして自らの身体に重い皮膚病を患う。しかもそのような苦しみを背負わなければならない理由、意味も分からない。そのような中での「苦悶」です。
テマン人エリファズは、ヨブが苦しみを背負った理由、意味を次のように説明していました。
さあ、思い出せ。だれか、潔白なのに滅びた者があるか。どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪を蒔く者が、自らそれらを刈り取るのだ。
ヨブ記4章7~8節
つまりテマン人エリファズの主張は、ヨブの中に「不法」「害悪」があったから、その苦しみを刈り取っているというものでした。
しかし私たちは、ヨブ記1章~2章を通して、ヨブが苦しみを背負うことになった理由を知っているため、テマン人エリファズの主張が間違っていることがわかります。ところが、ヨブはその苦しみの理由を知らないからこそ、ヨブの苦悶は続いているのです。
私たちも、ヨブほどではないにしても、今、背負っている、また直面している「苦しみ」の意味が分からないために「苦悶」することがあります。その時の解決は、親に聞くことでもなく、また友人知人に聞くことでもなく、またこの世で地位の高い人や、社会的に力のある人に聞くのでもありません。そうではなく、すべてを知っておられ、すべての源である神さまに聞くことです。
2024年に直面した苦しみの意味を神さまに問いかけつつ、新しく迎える2025年も神さまに一つ一つの意味を教えていただきながら、「地の塩」「世の光」としての歩みを重ねていきましょう。 (吉持日輪生)
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