「誓い」ではなく「みことばの実践」2021年01月03日

「誓い」ではなく「みことばの実践」
イスラエルの人々はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンに妻として与えない」と誓っていた。                    士師記21章1節

あの残った者たちに妻を迎えるには、どうすればよいだろうか。私たちは主によって、自分たちの娘を彼らに妻として与えないと誓ってしまったのだ。」 
                             士師記21章7節

しかし、自分たちの娘を彼らに妻として与えることはできない。イスラエルの子らは『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と誓っているからだ。」           士師記21章18節

 彼らが立てたこの「誓い」によって「ベニヤミン族存亡の危機」が訪れていて、そのことでイスラエル人は悩んでいました。
 さらに士師記21章にはもう一つの「誓い」が記されています。それが5節です。

イスラエルの子らは、「イスラエルの全部族のうち、だれが、集団の一員として主のもとに上って来なかったのか」と言った。これは彼らが、ミツパの主のもとに上って来なかった者について、「その者は必ず殺されなければならない」と堅く誓いを立てていたからである。                                 士師記21章5節

 この「誓い」の結果、ヤベシュ・ギルアデの住民は剣で討たれ、その町の処女400人が、ベニヤミン族に渡されます。人間的な思いや感情の中で立てる「誓い」が、様々な悲劇を生み出すことを、ここから教えられます。だからでしょうか、福音書に次のようなイエスさまのお言葉が記されています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。
                        マタイの福音書5章34節a

「誓う」のではなく、神さまのみことばの実践を心がけて、2021年の歩みを進めていきましょう。     (吉持日輪生)

粛々と救いの御業は進んでいる2021年01月10日

さばきつかさが治めていたころ、この地に飢饉が起こった。そのため、ユダのベツレヘム出身のある人が妻と二人の息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。                      
                ルツ記1章1節

 士師記を読み終え、今週からルツ記です。上記聖書箇所ルツ記1章1節から、ルツの時代背景をいくつか読み取ることができます。冒頭に「さばきつかさが治めていたころ」とありますが、この「さばきつかさ」とは「士師」のことです。ですからルツ記は、士師時代の出来事ということになります。また飢饉の中、ベツレヘムからモアブの野へ移動していますが、「モアブの野」とは、モアブ人が住んでいた場所と考えられます。そうであるならば士師の時代、イスラエル人とモアブ人は敵対関係(士師記3章12~14節)にありましたので、飢饉を逃れるためとはいえ、敵の住む場所へと移動していることになります。まさに士師記後半の「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(士師記21章25節)状況の一つと言えます。
 しかし、ルツ記を読む時、士師記後半の混沌とした混乱の時代にあっても、神さまは救いのご計画を、粛々と進めておられた、そのことを私たちは教えられます。

 新約聖書冒頭に記されているイエス・キリストの系図には、次のようにルツが登場しています。

アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図。(中略)サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、(中略) ヤコブがマリアの夫ヨセフを生んだ。キリストと呼ばれるイエスは、このマリアからお生まれになった。
                 (マタイの福音書1章1~16節抜粋)

 2020年を終え、2021年に入りましたが、まだまだ新型コロナウイルスの問題を抱え続けています。しかし、神さまの救いのご計画は、今も、このような状況の中にあっても、変わることなく粛々と進められていることを信じましょう。今週も、私たちを救ってくださる神さまを信じて歩みましょう。(吉持日輪生)

神さまとの強くて濃いつながり2021年01月17日

さて、ナオミには、夫エリメレクの一族に属する一人の有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった。             ルツ記2章1節

 「ボアズ」という名前の意味には、「強さ、濃さ」などの意味があるようです。まさにルツ記2章を読んでいるとボアズの「強さ、濃さ」に気づかされます。
 冒頭に引用した1節に「有力な親戚」とありますが、まさにナオミにとって「濃い」親戚でした。そのことは、次の個所からも見えてきます。

ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」ナオミは、また言った。「その方は私たちの近親の者で、しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」    ルツ記2章20節

 ここにある通り「ボアズ」は、「近親の者」で、「買い戻しの権利のある親類」という「濃い」親戚でした。しかも「買い戻しの権利がある」だけでなく、ボアズには、買い戻すことのできる「強い」経済力もあったことが、ルツに対する対応から伝わってきます。
 またこのような「ボアズ」との出会いを神さまが導かれたことを思う時、そこにナオミとルツに対する神さまとの「強い、濃い」つながりが現わされているようにも思えます。

強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身があなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。           申命記31章6節
 
 旧約聖書の時代から聖書の神さまと私たちの関係は、上記聖書箇所の通りです。神さまは、いつも私たちにとって「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」神さまです。
 今週も、そのような神さまとの「強い、濃い」絆で結ばれていることを覚えつつ、平安をもって歩みましょう。    (吉持日輪生)

ルツとマリア2021年01月24日

ルツは姑に言った。「おっしゃることは、みないたします。」こうして、彼女は打ち場に下って行き、姑が命じたことをすべて行った。
 彼(ボアズ)は言った。「あなたはだれだ。」彼女(ルツ)は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。あなたは買い戻しの権利のある親類です。」 
    ルツ記 3章5~6節、9節

 ルツ記3章に記されているルツの姿は、どこかイエスさまの母となったマリアの姿と重なります。

 マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。              ルカの福音書 1章38節

 ルツも、マリアも、自らを「はしため」と認め、かつルツにとっては、日々の生活の困難さという厳しい現実を受け入れ、またマリアにとっては突然の妊娠という、やはり予想もしていない厳しい現実を受け入れています。神さまの恵みは、そのような厳しい現実にあらがうのでもなく、受容し、あきらめるのでもなく、前に進んでいくところに注がれていくのでしょう。
 そしてこのような信仰者の姿が、イエスさまの系図の中に、ルツは異邦人として、マリアはユダヤ人として、組み入れられていることも大きな意味を感じます。
 2021年を歩んでいる私たちも、今、厳しい現実の中に置かれています。しかし、この現実、この現状を受け入れつつも、あきらめるのではなく、祈りつつ、知恵を出し合いつつ、前に進んでいくところに、神さまの豊かな恵みが注がれていくのです。今週も、その神さまに期待して歩んでいきましょう。                       (吉持日輪生)

隣人愛で考えよう2021年01月31日

ボアズは、その買い戻しの権利のある親類に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここに座っている人たちと私の民の長老たちの前で、それを買ってくださいと言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。けれども、もし、それを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたを差し置いてそれを買い戻す人はいません。私はあなたの次です。」彼は言った。「私が買い戻しましょう。」  ルツ記4章3~4節

 上記個所にある通り「買い戻しの権利のある親類」は、ナオミの夫エリメレクの土地を買い戻すと語っていますが、5節で「死んだ人の名を相続地に存続させるために、死んだ人の妻であったモアブの女ルツも引き受けなければなりません」と聞くと、「買い戻します」との言葉を翻して、6節で「私は買い戻すことができません」と語っています。何が、この「買い戻しの権利のある親類」の思いを翻させたのでしょうか。その理由について6節には次のように記されています。

私には、その土地を自分のために買い戻すことはできません。自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから。  ルツ記4章6節前半

 異邦人であり、敵対関係ある「モアブの女」を引き受けるのが嫌だったのかもしれませんが、はっきりと語っている理由は「自分自身の相続地を損なうことになるといけませんから」という理由でした。つまりモアブの女ルツを引き受け、ルツとの間に子どもを授かり、その子どもに「エリメレク」の名前を残させ、その土地を継がせることが嫌だったのです。「買い戻しの権利のある親類」は、自分の土地が増えることは良いけれども、それを近い将来失う可能性があることを嫌がったのです。そこには、隣人愛ではなく、損得勘定しかなかったということです。

そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。  マルコの福音書12章33節

 今週も、イエスさまが語られているように、私利私欲ではなく、隣人愛をもって歩みましょう。                    (吉持日輪生)