神さまの言葉への従順さ2022年07月10日

ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王(アハブ王)に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」       列王記第一 20章28節

 聖書の神さまの寛容さ、寛大さを知ることのできる聖書箇所です。なぜなら、神さまが助けようと手を差し伸べた相手は、あのアハブ王です。

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。                列王記第一 16章30~31節

 このようなアハブ王が、「聖書の神さまこそ主であることを知る」ようにと、神さまは関わられています。しかし、アハブ王のベン・ハダドに対する対応を読む時(列王記第一20章31~34節)、神さまの御業を自分の手柄のように考え、とても偉そうにしています。

(アハブ)王は言った。「行って、彼を連れて来なさい。」ベン・ハダドが王のところに出て来ると、王は彼を戦車に乗せた。     列王記第一 20章33節後半

 アハブ王の勝利は、聖書の神さまによるものでした。しかしアハブ王は、自分の力で勝利した偉大な王のようにベン・ハダドに接しています。ゆえに神さまは、アハブ王に語られます。

彼(預言者)は王に言った。「主はこう言われる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたので、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」            列王記第一 20章42節

 私たちも、神さまからの「あふれる恵み」を自分の手柄のように思い違いをしないで、神さまの言葉に従順に歩みましょう。 (吉持日輪生)

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