主の御業を自分の業と思う罪2022年02月20日

ヨアブは王に言った。「あなたの神、主が、この民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王の目が、親しくこれをご覧になりますように。ところで、わが主、王は、なぜこのようなことを望まれるのですか。」 サムエル記第二24章3節

 上記聖書箇所と同じ内容を記している個所が、下記です。

ヨアブは言った。「主が、御民を百倍にも増やしてくださいますように。わが主、王よ。彼らはみな、わが主のもの、そのしもべではないでしょうか。なぜわが主は、このようなことをお求めになるのですか。なぜイスラエルに罪過をもたらされるのですか。」                       歴代誌第一21章3節

 サムエル記第二も、歴代誌第一も、「主」ということばが複数登場していますが、それぞれ冒頭の「あなたの神、主が」と「主が、御民を」の「主」は、新改訳2017では太字になっています。つまり聖書の神さまの固有名詞を表す「ヤハウェ」というヘブル語が使われています。それ以外は、ダビデ王のことを「主」と表現しています。
 ダビデ王の指示で民を数えたことが、なぜ罪とされたのか、なぜ災いを受けねばならなかったのか、明確な理由を聖書は記していません。しかし、ダビデ王自身が、「良心のとがめを感じ」「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました」(サムエル記第二24章10節)と告白しているので、やはりそこには「罪」があったのでしょう。
 ダビデ王が犯した「罪」を推測するのに参考になるのが、冒頭引用箇所のヨアブのことばです。「あなたの神、主が、この民を百倍にも増やしてくださいますように」(3節)。民を数えようとしているダビデ王へのヨアブなりのメッセージです。民が増えたのは、ダビデ王の業ではなく、神さまの御業であると気付いてほしかったのでしょう。私たちも良く陥る罪ですが、主(神さま)の御業を、自分の手柄のように考えてしまうことです。あなたが携わっている仕事の祝福も、家庭の祝福も、そして集っているこの教会の祝福も、人の手の業ではなく、100%神さまの御業です。ですから私たちにできることは、その主の御業を共に喜び、共に主に感謝することです。
 いよいよ来月末で2021年度が終わろうとしています。この一年の歩みをふりかえりつつ、ただただ神さまの御業に感謝と賛美を献げ、主の御業を共に喜びましょう。                            (吉持日輪生)

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