主語は「主」2021年12月26日

王は言った。「ツェルヤの息子たちよ。これは私のことで、あなたがたに何の関わりがあるのか。彼が呪うのは、主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ。だれが彼に『おまえは、どうしてこういうことをするのだ』と言えるだろうか。」
                        サムエル記第二16章10節

 ダビデ王の信仰の特徴は、神さまの主権を認めていることです。それは、今回のタイトルにも使っているように、主語を「主」にして物事を捉えていることです。例えば上記聖書個所では「主が彼に『ダビデを呪え』と言われたからだ」と受け止めています。11節でもダビデ王は、「彼に呪わせなさい。主が彼に命じられたのだから」と語り、さらに「主は私の心をご覧になるだろう」、「主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう」と、すべて主語が「主」になっています。
 ちょうど今、私たちは2021年の最後の週を歩もうとしています。1年を振り返り、様々な出来事を思い出す時です。
 「私が、なんで○○という病気にならないといけないんだ」
 「私が、なんで××という失敗をしなければならないんだ」
 「私が、私の力で、私の努力で、△△という良い結果に導いたんだ」などなど…。
しかし、これらの表現の主語を「主」に代えるとどうなるでしょうか。
 「主が、○○という病気を私に与えられたんだ」
 「主が、××という失敗を私に経験させたんだ」
 「主が、△△という良い結果を私に備えてくださったんだ」となります。

 主語を「私」から「主」に入れ替えるだけで、こんなにも印象が変わるのかと感じます。ぜひ2021年の歩みを振り返りながら、すべての出来事の主語を主にして、心にしまうようにしましょう。
 その先に響く神さまのことばは、ローマ人への手紙8章28節です。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
                        ローマ人への手紙8章28節

 2022年も、主語を「主」にして歩みましょう。       (吉持日輪生)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://mikotoba.asablo.jp/blog/2021/12/26/9450958/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。