神さまの業、人の業2021年12月12日

私たちは、必ず死ぬ者です。私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです。しかし、神はいのちを取り去らず、追放されている者が追放されたままにならないように、ご計画を立ててくださいます。
                        サムエル記第二14章14節

 上記聖書個所の「私たちは地面にこぼれて、もう集めることができない水のようなものです」は、日本語の「覆水盆に返らず」と似た言葉です。
 さてダビデ王の罪によってダビデ王の家に流れ始めた「わざわい」は、まだまだ続いていきます。ただ今回のサムエル記第二14章は、その「わざわい」を、「人の業」でなんとか修復しようとする取り組みが記されています。ダビデ王の軍団の長であり、ダビデ王のおいにあたるヨアブが、知恵をしぼり、また「知恵のある女」(サムエル記第二14章2節)を用いて、ダビデ王の中にあるアブサロムへの怒りに気付かせ、和解へ導こうとしています。まさに「ダビデの家の中からダビデの上にわざわいを引き起こす」と言われた「神さまの業」に、ダビデ王の軍団の長ヨアブの「人の業」が挑みますが、結果は、すっきりしたものではありませんでした。

アブサロムはヨアブに答えた。「ほら、私はあなたのところに人を遣わし、ここに来るように言ったではないか。私はあなたを王のもとに遣わし、『なぜ、私をゲシュルから帰って来させたのですか。あそこにとどまっていたほうが、まだ、ましでした』と言ってもらいたかったのだ。今、私は王の顔を拝したい。もし私に咎があるなら、王に殺されてもかまわない。」 ヨアブは王のところに行き、王に告げた。王はアブサロムを呼び寄せた。アブサロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブサロムに口づけした。 サムエル記第二14章32~33節

 このようにダビデ王とアブサロムは口づけし、和解したかのように見えますが、次週取り扱うサムエル記第二15章では、「神さまの業」であるわざわいの流れが、力強く流れていることを知らされます。
 アドベントを歩んでいる私たちは、「神さまの業」に対して、マリアの思い「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」(ルカの福音書1章38節)という受諾の思いの大切さを覚えつつ歩みましょう。                        (吉持日輪生)

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