愛による契約、契約による愛 ― 2021年11月07日
ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」
サムエル記第二9章1節
王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」
サムエル記第二9章3節
上記聖書箇所の「ヨナタンの息子で足の不自由な方」は、メフィボシェテと言い、サムエル記第二9章13節では「彼は両足がともに萎えていた」とあり、彼が抱えていた障害の状況をより具体的に知ることができます。
ダビデ王が、障害のあるメフィボシェテを受け入れ、共に食事をするようにしたのは、メフィボシェテの父ヨナタンとダビデ王との契約、約束によるものでした。
ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
サムエル記第一18章3節
ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。
サムエル記第一20章16~17節
そして、そのヨナタンとダビデ王との契約の根底には、上記にある通り「愛」がありました。この形は、聖書全体に流れている「神さまと人との契約」と同じです。神さまは、愛のゆえに私たち人間と契約を結ばれました。そしてその「契約」は、私たちの側に問題課題があっても、障害があっても変わることはありません。ダビデ王のこの歩みから、私たちはそのことを確認することができます。
そして、イエスさまもこのように語られています。
だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
ヨハネの福音書12章47節
私たち人間を愛するがゆえに神さまが結んでくださった「契約」、それが聖書です。神さまとの愛の契約を思い出しつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
サムエル記第二9章1節
王は言った。「サウルの家の者で、まだ、だれかいないか。私はその人に神の恵みを施そう。」ツィバは王に言った。「まだ、ヨナタンの息子で足の不自由な方がおられます。」
サムエル記第二9章3節
上記聖書箇所の「ヨナタンの息子で足の不自由な方」は、メフィボシェテと言い、サムエル記第二9章13節では「彼は両足がともに萎えていた」とあり、彼が抱えていた障害の状況をより具体的に知ることができます。
ダビデ王が、障害のあるメフィボシェテを受け入れ、共に食事をするようにしたのは、メフィボシェテの父ヨナタンとダビデ王との契約、約束によるものでした。
ヨナタンは、自分自身のようにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。
サムエル記第一18章3節
ヨナタンはダビデの家と契約を結んだ。「主がダビデの敵に血の責めを問われますように。」ヨナタンは、ダビデに対する愛のゆえに、もう一度ダビデに誓わせた。ヨナタンは、自分を愛するほどにダビデを愛していたからである。
サムエル記第一20章16~17節
そして、そのヨナタンとダビデ王との契約の根底には、上記にある通り「愛」がありました。この形は、聖書全体に流れている「神さまと人との契約」と同じです。神さまは、愛のゆえに私たち人間と契約を結ばれました。そしてその「契約」は、私たちの側に問題課題があっても、障害があっても変わることはありません。ダビデ王のこの歩みから、私たちはそのことを確認することができます。
そして、イエスさまもこのように語られています。
だれか、わたしのことばを聞いてそれを守らない者がいても、わたしはその人をさばきません。わたしが来たのは世をさばくためではなく、世を救うためだからです。
ヨハネの福音書12章47節
私たち人間を愛するがゆえに神さまが結んでくださった「契約」、それが聖書です。神さまとの愛の契約を思い出しつつ、今週も歩みましょう。 (吉持日輪生)
愛と真実さのある人間関係 ― 2021年11月14日
この後、アンモン人の王が死に、その子ハヌンが代わって王となった。
サムエル記第二10章1節
今回は、上記聖書箇所に登場する「アンモン人」に目を留めたいと思います。聖書に最初に登場する「アンモン人」は、創世記19章です。
こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。
創世記19章36~38節
このことから「アンモン人」は、アブラハムの甥ロトの子どもですから、アブラハムの親族となります。けれどもイスラエル人とアンモン人との歴史は、対立の歴史で、そのことが、鮮明に現われていくのが士師記の時代です。
しかし、そのような歴史を経ながらも、ダビデ王の時代、アンモン人との関係は、良いものでした。
ダビデは、「(アンモン人)ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と言った。 サムエル記第二10章2節前半
ここに、前回取り扱ったサムエル記第二9章とのつながりが見えてきます。それは、「真実」です。
ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」 サムエル記第二9章1節
ダビデ王は、命を狙われ続けたサウル王の息子ヨナタンと真実な関係を築き、同じ真実さをもって障害のあるヨナタンの息子を受け入れ、同じ真実さをもって敵対関係にあったアンモン人との真実な関係も築き上げていったのです。
私たちの人間関係も、「愛」だけでなく、「真実さ」が必要です。今週も、神さまからの「愛」と「真実さ」をいただいて、互いに愛し合い、互いに赦し合う関係を作り上げていきましょう。 (吉持日輪生)
サムエル記第二10章1節
今回は、上記聖書箇所に登場する「アンモン人」に目を留めたいと思います。聖書に最初に登場する「アンモン人」は、創世記19章です。
こうして、ロトの二人の娘は父親によって身ごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアンモン人の先祖である。
創世記19章36~38節
このことから「アンモン人」は、アブラハムの甥ロトの子どもですから、アブラハムの親族となります。けれどもイスラエル人とアンモン人との歴史は、対立の歴史で、そのことが、鮮明に現われていくのが士師記の時代です。
しかし、そのような歴史を経ながらも、ダビデ王の時代、アンモン人との関係は、良いものでした。
ダビデは、「(アンモン人)ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたように」と言った。 サムエル記第二10章2節前半
ここに、前回取り扱ったサムエル記第二9章とのつながりが見えてきます。それは、「真実」です。
ダビデは言った。「サウルの家の者で、まだ生き残っている人はいないか。私はヨナタンのゆえに、その人に真実を尽くしたい。」 サムエル記第二9章1節
ダビデ王は、命を狙われ続けたサウル王の息子ヨナタンと真実な関係を築き、同じ真実さをもって障害のあるヨナタンの息子を受け入れ、同じ真実さをもって敵対関係にあったアンモン人との真実な関係も築き上げていったのです。
私たちの人間関係も、「愛」だけでなく、「真実さ」が必要です。今週も、神さまからの「愛」と「真実さ」をいただいて、互いに愛し合い、互いに赦し合う関係を作り上げていきましょう。 (吉持日輪生)
罪は目から、だからイエスさまに目を向けよう ― 2021年11月21日
朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、それをウリヤに託して送った。彼は、その手紙に次のように書いた。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が討たれて死ぬようにせよ。」
サムエル記第二11章14~15節
「年が改まり」(サムエル記第二11章1節)で始まる、この章で、ダビデ王についての記述内容が大きく変わります。これまでダビデ王の良い面が記されてきましたが、ここでダビデ王の罪、弱さが記されていきます。その罪の始まりは次のようなものでした。
ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
サムエル記第二11章2節
ダビデ王の罪の始まりは、創世記のアダムとエバの時と同様「目」からでした。
そこで、女(エバ)が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3章6節
エバだけでなく、またダビデ王だけでなく、私たちも目から入ってくる情報によって、罪に引き寄せられていくことがあります。ですから聖書は次のように教えています。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 へブル人への手紙12章2節
イエスさまから目を離さないこと。そしてそのイエスさまがあなたの罪のために十字架にかかってくださったゆえに、その罪は赦されることを、今週も覚えつつ歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
サムエル記第二11章14~15節
「年が改まり」(サムエル記第二11章1節)で始まる、この章で、ダビデ王についての記述内容が大きく変わります。これまでダビデ王の良い面が記されてきましたが、ここでダビデ王の罪、弱さが記されていきます。その罪の始まりは次のようなものでした。
ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。
サムエル記第二11章2節
ダビデ王の罪の始まりは、創世記のアダムとエバの時と同様「目」からでした。
そこで、女(エバ)が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 創世記3章6節
エバだけでなく、またダビデ王だけでなく、私たちも目から入ってくる情報によって、罪に引き寄せられていくことがあります。ですから聖書は次のように教えています。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。 へブル人への手紙12章2節
イエスさまから目を離さないこと。そしてそのイエスさまがあなたの罪のために十字架にかかってくださったゆえに、その罪は赦されることを、今週も覚えつつ歩ませていただきましょう。 (吉持日輪生)
「罪の報酬は死です」(ローマ人への手紙6章23節) ― 2021年11月28日
ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」ナタンはダビデに言った。「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。あなたは死なない。しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる息子は必ず死ぬ。」 サムエル記第二12章13~14節
サムエル記第二12章は、新約聖書の恵みと重なる点が、いくつかちりばめられています。預言者ナタンがたとえ話からダビデ王に話し始めている姿は、福音書でたとえ話をもって群衆に語られたイエスさまと重なります。また冒頭で引用した個所にある通り、ダビデ王の犯した罪が取り去られるのと引き換えに、息子の死がもたらされていること。これも、私たちの罪を取り去るために十字架に掛かり死んでくださったイエスさまと重なります。
また、しばらく前の礼拝説教でローマ人への手紙6章23節「罪の報酬は死です」の個所を取り扱いましたが、ダビデ王の罪の報酬も、まさに息子の死でした。このようなことを思い巡らしていくと、旧約聖書創世記22章のアブラハムがひとり息子イサクを献げようとする場面も、また今回のダビデ王が経験した息子の死の場面も、「息子の死」に直面する父の姿がとても印象に残ります。そしてその父アブラハムの思いや、父ダビデ王の思いから、私たちは、父なる神さまがひとり息子イエスさまを十字架の死へと向かわせる時の思いを想像することができます。
ちょうど今年は本日11月28日から、父なる神さまがひとり息子イエスさまをこの世に誕生させてくださったことを喜び、お祝いするクリスマスを待ち望む待降節が始まります。私たちにとっては喜びのクリスマスですが、父なる神さまにとってはひとり息子を十字架に付け、死に至らせる歩みの始まりです。その父なる神さまの思いを想像しながら、そこに神さまの大きな愛があることを覚えつつ、待降節を歩み始めましょう。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 ヨハネの手紙第一4章11節
(吉持日輪生)
サムエル記第二12章は、新約聖書の恵みと重なる点が、いくつかちりばめられています。預言者ナタンがたとえ話からダビデ王に話し始めている姿は、福音書でたとえ話をもって群衆に語られたイエスさまと重なります。また冒頭で引用した個所にある通り、ダビデ王の犯した罪が取り去られるのと引き換えに、息子の死がもたらされていること。これも、私たちの罪を取り去るために十字架に掛かり死んでくださったイエスさまと重なります。
また、しばらく前の礼拝説教でローマ人への手紙6章23節「罪の報酬は死です」の個所を取り扱いましたが、ダビデ王の罪の報酬も、まさに息子の死でした。このようなことを思い巡らしていくと、旧約聖書創世記22章のアブラハムがひとり息子イサクを献げようとする場面も、また今回のダビデ王が経験した息子の死の場面も、「息子の死」に直面する父の姿がとても印象に残ります。そしてその父アブラハムの思いや、父ダビデ王の思いから、私たちは、父なる神さまがひとり息子イエスさまを十字架の死へと向かわせる時の思いを想像することができます。
ちょうど今年は本日11月28日から、父なる神さまがひとり息子イエスさまをこの世に誕生させてくださったことを喜び、お祝いするクリスマスを待ち望む待降節が始まります。私たちにとっては喜びのクリスマスですが、父なる神さまにとってはひとり息子を十字架に付け、死に至らせる歩みの始まりです。その父なる神さまの思いを想像しながら、そこに神さまの大きな愛があることを覚えつつ、待降節を歩み始めましょう。
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。 ヨハネの手紙第一4章11節
(吉持日輪生)
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