おおい包む神さまの愛2020年11月01日

エフタはイスラエルを六年間さばいた。ギルアデ人エフタは死んで、ギルアデの町に葬られた。                       
                      士師記12章7節
 
 士師記12章は、士師記13章から始まる、士師の中で最も有名なサムソンのお話しの前段階がどのような状態、状況であったかを教えてくれる個所です。
 士師記11章から、イスラエルの混沌とした状況は伺えますが、士師記12章も引き続き混沌としています。
 冒頭引用個所にある通り、エフタは6年間イスラエルをさばきましたが、その後の士師たちも、短い期間であったことが記されています。

彼(イブツァン)は七年間イスラエルをさばいた。     
                      士師記12章9節b
ゼブルン人エロンがイスラエルをさばいた。彼は十年間イスラエルをさばいた。
                      士師記12章11節b
彼(ピルアトン人ヒレルの子アブドン)は八年間イスラエルをさばいた。
                      士師記12章14節b

 このようにこの時代の士師たちは、6年、7年、10年、8年と、短期間で目まぐるしく移り変わっています。そのような時代に誕生したのが、サムソンでした。

サムソンは二十年間イスラエルをさばいた。       士師記16章31節b

 サムソンをはじめ、士師一人ひとり様々な弱さ、課題を持っていますが、神さまは、それをおおい包んで用いてくださっています。
 今週も、「愛は多くの罪をおおう」(ペテロ第一4章8節)神さまの愛におおわれ、包まれ、神さまのお導きに従って行きましょう。(吉持日輪生)

不思議な物語のはじまり2020年11月08日

主の使いは彼(マノア)に言った。「なぜ、あなたはそれを聞くのか。わたしの名は不思議という。」                     士師記13章18節

 いよいよサムソンのお話が始まります。サムソンの父はマノア、そしてサムソンの母は、「彼(マノア)の妻は不妊で、子を産んだことがなかった」(2節)と紹介されています。その不妊の女性に「神の使い」が現れ、サムソン誕生の約束をします。その「主の使い」に名前を尋ねているのが、上記聖書個所です。
 「わたしの名は不思議という」と「主の使い」が話していることから、この「主の使い」の名前が「不思議」と分かります。そして、その「不思議」という名前の由来と読み取れるのが19節に記されています。

そこでマノアは、子やぎと穀物のささげ物を取り、それを岩の上で主に献げた。主のなさる不思議なことを、マノアとその妻は見ていた。
                               士師記13章19節

 マノアとその妻に、「主のなさる不思議なこと」を届ける「主の使い」だからこそ「不思議」と名乗ったのでしょう。
 そして、これから始まるサムソン物語自体も、まさに「主のなさる不思議なこと」に満ちたお話しです。その初回、今回の士師記13章における「主のなさる不思議なこと」は、「不妊で、子を産んだことがなかった」マノアの妻の妊娠、出産ですが、さらなる「不思議」は、妊娠中の過ごし方への指示です。

今後あなたは気をつけよ。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。         士師記13章4節

ぶどうからできる物はいっさい食べてはならない。ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。汚れた物はいっさい食べてはならない。わたしが彼女に命じたことはみな守らなければならない。           士師記13章14節

あなたが経験する「主のなさる不思議なこと」の中にも、神さまは臨在されています。今週も主を覚えて歩みましょう。(吉持日輪生)

神さまの自由なお働き2020年11月15日

彼(サムソン)の父と母は、それ(無割礼のペリシテ人から妻を迎えること)が主によることだとは知らなかった。主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである。そのころ、ペリシテ人がイスラエルを支配していた。
                             士師記14章4節
 
 上記聖書個所で取り上げられている「無割礼のペリシテ人との結婚」は、現代の教会に当てはめると「クリスチャンとクリスチャンでない人との結婚」という感じでしょうか。
 コリント人への手紙第二6章14節前半で「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません」とあり、私たちの教会でも「クリスチャンとクリスチャンでない人との結婚」は、勧めない傾向にあります。
 しかし、サムソンの出来事を読む時、神さまの自由さを教えられます。神さまは、私たちが聖書の信仰に立ち、大切にしていることとは全く違う、全く正反対のことを、目的とご計画をもってなされるのです。そして士師記14章には、他にも神さまの自由さを感じさせる個所があります。それは、6節と19節です。

このとき、主の霊が激しく彼(サムソン)の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。サムソンは自分がしたことを父にも母にも告げなかった。                士師記14章6節

そのとき、主の霊が激しくサムソンの上に下った。彼はアシュケロンに下って行って、そこの住民を三十人打ち殺し、彼らからはぎ取って、謎を明かした者たちにその晴れ着をやり、怒りに燃えて父の家に帰った。      士師記14章19節

 上記聖書個所にある通り「主(神さま)の霊」も、自由にサムソンの上に下っています。
 今週も、神さまの自由なお働きに期待しつつ、ワクワクしながら、ドキドキしながら歩ませていただきましょう。   (吉持日輪生)

神さまの御業は前進し続ける2020年11月22日

こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間イスラエルをさばいた。
                            士師記15章20節

 サムソンが登場する前の時代は、士師がイスラエルを治めた期間は「6年、7年、10年、8年」と短期間でした。それを考えると「サムソンの20年」という数字は長いことがわかります。
 しかし、そのプロセスは、とても混沌としています。サムソンだけが混沌としているのではなく、ペリシテ人も、またユダヤ人も混沌としています。
 サムソンの混沌ぶりは、14章最後の所で「怒りに燃えて(妻を残したまま)父の家に帰った」後、15章1節で「子やぎを一匹持って自分の妻を訪ね」ていますが、そこには「謝罪」はありません。しかも、サムソンの妻の父、すなわちペリシテ人の対応もひどいものです。

彼女の父は言った。「私は、あなたがあの娘を嫌ったのだと思って、あなたの客の一人に与えた。妹のほうがきれいではないか。あれの代わりに妹をあなたのものにしてくれ。」                         士師記15章2節

 このようなちぐはぐな関係は、サムソンとペリシテ人、サムソンとイスラエル人の間において続きますが、私たちが目を止めるべきことは、その混沌とした状況でも、神さまは神さまの御業、神さまのご計画を進めてくださっていることです。
 新約聖書において、パウロはそのような神さまの御業を次のように記しました。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。
                       ローマ人への手紙8章28節

 2020年の教会の歩みにおいても、またそれぞれのキリスト者の歩みにおいても、同様に神さまの御業は、コロナウイルスの広がりの中でも、また自分自身の罪深さ、弱さから生じた混乱の中にあっても前進しています。
 今週も、そのような神さまに信頼して歩み続けましょう。   (吉持日輪生)

気をつけよう!2020年11月29日

ついにサムソンは、自分の心をすべて彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎にいるときから神に献げられたナジル人だからだ。もし私の髪の毛が剃り落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなって普通の人のようになるだろう。」 
                         士師記16章17節

 士師記16章に記されている「サムソンとデリラ」のやり取りに目をとめる前に、サムソン誕生の場面を振り返りましょう。

見よ。あなたは身ごもって男の子を産む。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから、神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」       
                         士師記13章5節

 士師記13章にも16章にも出てくる「神に献げられたナジル人」について民数記に次のように記されています。

「イスラエルの子らに告げよ。男または女が、主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、その人は、ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。…彼がナジル人としての聖別の誓願を立てている間は、頭にかみそりを当ててはならない。主のものとして身を聖別している期間が満ちるまで、彼は聖なるものであり、頭の髪の毛を伸ばしておかなければならない。」  
                         民数記6章2~5節(抜粋)

 サムソンの力の源は、ナジル人として「髪の毛にかみそりを当てない」ことにありました。そのことをふまえて「サムソンとデリラ」のやりとりを見ると、サムソンが少しずつ真実に近い話をしていくことに気付かされます。
 「干していない七本の新しい弓の弦」(6節)、「仕事に使ったことのない新しい綱」(11節)、「機の経糸と一緒に私の髪の毛七房を織り込み、機のおさで締めつけておくならば」(13節)となります。髪の毛のように細い「弓の弦」「新しい綱」、そして次に「髪の毛」に直接触れる内容となり、最後に冒頭17節へと至ります。
 サタンの歩み寄りは、本当に巧妙、わずかずつです。今週もサタンの働きに気を付けて歩みましょう。                    
                                (吉持日輪生)