忠実な老人ヨシュア2020年08月02日

ヨシュアは全イスラエル、その長老たち、かしらたち、さばき人たち、つかさたちを呼び寄せて彼らに言った。「私は年を重ねて老人になった。…」                          ヨシュア記23章2節 

 上記聖書個所に「私は年を重ねて老人になった」とあるが、ヨシュアは、老人になっても、神さまに対して忠実に自分の役割を担い、リーダーたちに語り掛けています。
 その内容は、「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主であること」(ヨシュア記23章3節、10節)。またヨシュア記23章6節では「モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れ」てはいけないことなどを語っています。これらのことをリーダーとして忠実に語ることの大切さ、すばらしさを感じますが、私が感銘を受けるのは、12節以降です。

しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、主がお与えになったこの良い地から滅び失せる。 
                          ヨシュア記23章12~13節

 このようにヨシュアは、言いにくいことも、しっかりリーダーたちに伝えています。年を重ね老人になれば、波風立てず、聞きやすい言葉だけを伝える道を選びたくなるものです。しかし老人ヨシュアは、最後まで神さまに忠実で、伝えるべきことを、しっかりと伝えています。

死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。              ヨハネの黙示録2章10節(後半)

 私たちも、老人ヨシュアのように、また黙示録に書かれているように、「死に至るまで忠実であり」ましょう。        (吉持日輪生)

♪ヨシュアのように♪2020年08月09日

主に仕えることが不満なら、あの大河の向こうにいた、あなたがたの先祖が仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のアモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、今日選ぶがよい。ただし、私と私の家は主に仕える。                  ヨシュア記24章15節 
 
 ヨシュア記も、今日の24章で終わりです。そして上記聖書個所の最後「私と私の家は主に仕える」を読むと、「聖歌584番 新しき地に」または「新聖歌398番 新しき地に」の歌詞を思い出すのは私だけではないと思います。その賛美の「くりかえし」の歌詞が次のものです。

 ♪ヨシュアのごとく われも言わん
  「わが家(や)とわれは 主に仕えん」♪

 私たちの教会が使っている「教会福音讃美歌」にも同じ曲はあり、「教会福音讃美歌460番 約束の地に」です。この曲での同じ部分の歌詞は「ヨシュアのように われもまた わが家(や)とともに 主に仕えん」となっています。

 ヨシュアは、ヨシュア記23章では民のリーダーたちに語り掛けていましたが、今回のヨシュア記24章では、民全体に語り掛けています。その締めくくりの言葉、それが15節の「私と私の家は主に仕える」という決意表明でした。
 99%以上がクリスチャンでないこの日本に生きる私たちにとって、このヨシュアの決意表明は、日々なされていく必要があります。今週も、日々「私と私の家は主に仕える」と告白しつつ歩みましょう。    (吉持日輪生)

私たちの罪深さ2020年08月16日

エルサレムに住んでいるエブス人に関しては、ベニヤミン族がこれを追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族とともにエルサレムに住んでいる。                             士師記1章21節

 士師記1章を読んでいて気になるのが「追い払わなかった」という言葉です。「追い払わなかった」という意味合いの言葉も含めると、19節、21節、28節、29節、30節、31節、32節、33節に出てきます。
 そしてこの今から数千年前の出来事が、今日の「パレスチナ問題」につながっていることを知る時、「パレスチナ問題」の根の深さを感じます。けれども私たち聖書に親しむ者は、さらに知るべきことがあります。それが、ヨシュア記23章12~13節とのつながりです。

しかし、もしも、あなたがたが再び堕落して、これらの異邦の民の生き残っている者、すなわち、あなたがたの中に残っているこれらの者たちと親しく交わり、彼らと姻戚関係に入り、あなたがたが彼らの中に入って行き、彼らもあなたがたの中に入って来ることがあれば、あなたがたは、このことをしっかりと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはやこれらの異邦の民をあなたがたの前から追い払われない。彼らはあなたがたにとって、罠となり、落とし穴となり、あなたがたの脇腹にむちとなり、あなたがたの目にとげとなる。そして、あなたがたは自分たちの神、主がお与えになったこの良い地から滅び失せる。 
               ヨシュア記23章12~13節

 つまり今日までイスラエルの民が、「パレスチナ問題」で苦しむのは、「異邦の民」を追い払わなかった結果、姻戚関係に入った結果だということです。
 神さまの命令を守ることの大切さを覚えられると共に、私たち人間が、神さまの命令を守ることのできない罪深い人間であることを教えられます。それゆえ神さまは、愛するひとり子イエスさまを私たちの罪の償いとする「救いの道」を用意するしかなかったのです。
 今週も、そのイエスさまによる救いに感謝し、またそれを喜びつつ、私たちにできる精一杯の思いと行動で応えていきましょう。    (吉持日輪生)

「さばき」と「救い」2020年08月23日

そのとき、主はさばきつかさを起こして、略奪する者の手から彼らを救われた。                            士師記2章16節

主が彼らのためにさばきつかさを起こしたとき、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさが生きている間、彼らを敵の手から救われた。これは、圧迫し、虐げる者を前にして彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。                  士師記2章18節
 
 上記聖書個所に記されている「さばきつかさ」とは、「士師」のことで、それが「士師記」の書名にも使われています。ちなみに上記聖書個所の新共同訳とリビングバイブルは「さばきつかさ」を「士師」と訳しています。特にリビングバイブルでは「士師」の後に次のような説明も加えています。「王国設立までの、軍事的・政治的指導者」。まさにそのような存在が士師でした。
 さて上記士師記2章16節冒頭の「そのとき」とは、「イスラエルの民が主を捨て」(12節)、「主の怒りがイスラエルに向かい」(14節)、「略奪する者の手に渡し」「周りの敵の手に売り渡し」(14節)ていく「そのとき」です。
 「そのとき」神さまは、「さばきつかさ(士師)」を起こされました。聖書の神さまは、神さまに聞き従わない人々をさばかないではいられないが、同時にさばきの中で届く民の「祈り」「うめき」にも、あわれみをもって応えられるお方です。
 今も、神さまは、「さばき」と「救い」の両方を、聖書を通して私たちに与えてくださっています。神さまに聞き従わず「永遠のさばき」に入れられるのか、神さまがあわれみをもって備えてくださったイエスさまの十字架を受け入れ、「永遠のいのち」に入れられるのかです。また新型コロナウイルスの試みの中においても、私たちが神さまにうめき、叫ぶとき、神さまはあわれみをもって、この困難からの救いを必ず与えてくださいます。今週も、神さまに祈りつつ、歩みましょう。
                               (吉持日輪生)

様々な士師、様々な賜物2020年08月30日

イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。それはカレブの同族ケナズの子オテニエルである。                士師記 3章9節

イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主は彼らのために、一人の救助者を起こされた。ベニヤミン人ゲラの子で、左利きのエフデである。イスラエルの子らは、彼の手に託してモアブの王エグロンに貢ぎ物を送った。       
                                士師記 3章15節
 
 上記2つの聖書個所に登場する「救助者」が、士師記の書名になった「士師(王国設立までの軍事的、政治的指導者)」を現しています。
 興味深いのは、士師記2章では「さばきつかさ」と表現され、士師記3章では「救助者」、さらに読み進めると士師記4章と6章では、士師のことを「預言者」と表現しています。また士師記4章では、「女預言者」として女性の士師も登場します。
 つまり「士師」とは、「さばきつかさ」であり、「救助者」であり、「預言者」であるということなのでしょう。「さばきつかさ」とは、善悪の判断を行い、悪を取り除き、善が行われるようにしていく働きを思わせます。また「救助者」は、様々な問題をかかえ、生き辛さに直面している人たちを「救助」する働きを思わせ、また「預言者」は、神さまの言葉を預かり伝える働きを思わせてくれます。
 これらの3つの働きは、士師の時代だけではなく、今の私たちの時代にも必要です。あなたにはどのような士師の役割が、賜物として与えられているでしょうか。

私たちは、与えられた恵みにしたがって、異なる賜物を持っているので、それが預言であれば、その信仰に応じて預言し、奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教え、勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれを行いなさい。           
                        ローマ人への手紙12章6~8節

 聖書の言葉に励まされつつ、今週も神さまから与えられている賜物を豊かに活用して歩みましょう。  (吉持日輪生)