神さまの選びの確かさ2020年06月07日

ヘブロンの名は、かつてはキルヤテ・アルバであった。これは、アルバがアナク人の中の最も偉大な人物であったことによる。こうして、その地に戦争はやんだ。                  ヨシュア記14章15節

 上記聖書個所では、町の名前が「キルヤテ・アルバ」から「ヘブロン」に変わったことが記されています。歴史を振り返る時、町の名前は、時の権力者によって時々変えられます。
 それでは、このヨシュア記14章の時代から約3400年後の現代においてこの町の名前はどうなっているのでしょうか。インターネットで検索すると、この町「ヘブロン」が今も存在すること、しかも2017年には世界遺産に登録されたことなどがわかります。かつての町の名「キルヤテ・アルバ」は、「アナク人の中で最も偉大な人物の名前」に由来したようですが、その町の名前は、消えたままです。しかし、「ヘブロン」の名前は残り続けているのです。
 さらにイスラエルの中心地「エルサレム」は、「ヘブロン」よりも長い歴史がありますが、今も存在し続けています。なぜこのように町の名前が、そのまま残り続けているのでしょうか。そこに聖書が記している神さまの存在を覚えます。

今、聞け。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。
                                 イザヤ書44章1節

 聖書の神さまが選んだイスラエルだから、その町の名前も残り続けているのでしょう。そして私たち一人一人に対しても、その聖書の神さまは、次のように語られています。

わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。 
                               イザヤ書43章1節b

 私たちは、パレスチナ問題で心痛めることもありますが、神さまは、「神さまの選び」の確かさ、変わらなさを、いつの時代の人々にも証しするために、イスラエルの町を守り、残し続けておられるのでしょう。
 こんな私にも「あなたは、わたしのもの」と目を留め、関わってくださる神さまと今週も、今月も共に歩みましょう。             (吉持日輪生)

境界線をひかれる神さま2020年06月14日

南の境界線は…。東の境界線は…。その境界線は…。さらに境界線は…。
                     ヨシュア記15章2~7節(抜粋)
 
 聖書の神さまは、人知でははかり知ることのできないほどに雄大な存在です。けれども、同時に「境界線」をしっかりとひかれる神さまです。島国日本は、隣人との関係をより良く保つためにあえて「境界線」をひかない傾向があると言われますが、そのような私たちには、「境界線」をしっかりひかれる聖書の神さまに戸惑いを覚えることがあります。
 日本の文化では、尊敬されるべき存在をすぐに神さまにしてしまいます。しかし聖書は、神さまは創造者であって、神さまに似せて造られた私たち「人」と、はっきり区別します。ですから私たち被造物が、神さまになることは決してありえません。またこのような神さまと人との間の「境界線」をはっきり理解できないと、その「境界線」を超えて「人」として現れてくださった「ひとり子イエスさま」の愛の尊さも正しく理解できません。
 ヨハネの福音書21章でイエスさまが、ペテロにこれから先起こるであろう受難について預言された時、ペテロは、イエスさまとこのようなやり取りをしています。

ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
                    ヨハネの福音書21章21~22節

 ここでの「彼」は、ヨハネの福音書を執筆したイエスさまの弟子ヨハネと言われています。イエスさまは、「ペテロ」と「ヨハネ」の間に、はっきりとした境界線を持っておられたからこそ、「あなたに何の関わりがありますか」と言われたのです。
 私たちも、隣人を見て「なんで?」と思えることが多々ありますが、しっかりと「境界線」をひいて、イエスさまがペテロに「あなたは、わたしに従いなさい」と言われたように、神さまが用意してくださっている私の人生を、しっかりと歩みましょう。                   (吉持日輪生)

報いてくださる神さま2020年06月21日

マナセとエフライム
ヨセフ族はヨシュアに告げた。「あなたはなぜ、私にただ一つのくじによる相続地、ただ一つの割り当て地しか分けてくださらないのですか。これほど数の多い民になるまで、主が私を祝福してくださったの
に。」(中略)ヨセフ族は言った。「山地は私たちに十分ではありません。しかし、平地に住んでいるカナン人はみな、(中略)鉄の戦車を持っています。」
ヨシュアはヨセフの家、すなわち、エフライムとマナセに言った。「あなたは数の多い民で大きな力がある。あなたには、くじによる割り当て地が一つだけではいけない。
山地もあなたのものとしなければならない。それが森だとしても切り開いて、その隅々まであなたのものとしなさい。カナン人が鉄の戦車を持っていても、強くても、あなたは彼らを追い払わなければならない。」
                ヨシュア記 17章14~18節(抜粋)

 ヨシュア記16章17章は、ヤコブの12人の子どものひとりヨセフの二人の息子「マナセ」と「エフライム」のことが記されています。そして上記の聖書個所にある通り、12部族の中でも大きな所有地を持つことになりました。
 創世記37章から創世記最後の50章にわたり記されている「ヨセフ物語」を読む時、この祝福にうなずけます。
 聖書の神さまは、私たちを正しくさばかれるお方であり、正しく報いを与えられるお方です。その報い、祝福は、この地上で与えられるとは限りませんが、必ず正しく報いてくださいます。

神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。忍耐をもって善を行い、栄光と誉れと朽ちないものを求める者には、永遠のいのちを与え、(中略)善を行うすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。                       ローマ人への手紙 2章6~10節

 今週も、報いてくださる神さまの前で、忍耐をもって善を行い続けましょう。神さまは、必ず報いてくださいます。        (吉持日輪生)

先延ばししない2020年06月28日

ヨシュアはイスラエルの子らに言った。「あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。                       ヨシュア記18章3節 
 
 私は、親子の会話の中で、今しなければならないこと、または今できることに対して「明日する」と言う子どもに、私が良く言い聞かせてきたことは、「『明日する』って言っていると、結局明日になっても『明日する』になって、いつまでたっても始まらないから、『今する』に言い換えなさい」というやり取りでした。
 ここに記されているイスラエルの民の状況も、まさにそのような状況だったのでしょう。「あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えられた地を占領しに行くのを」、「明日する」「いつかする」そういう思いで先延ばししていたイスラエルの民に、神さまは「いつまで延ばしているのか」と言われているのです。

 イエスさまも、このテーマに関して次のように語られています。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。 
                            マタイの福音書6章34節

 「苦労はその日その日に十分ある」とは、「今できること」「今日すべきこと」が十分あるからこそ、それらを「明日のこと」を考えて先延ばししなくてよいということです。
 さてあなたはどうでしょうか。神さまとのやり取りの中で「あなたはいつまで延ばしているのか」と問われていることはないでしょうか。もしあるならば、「明日する」ではなく、「今する」「今日する」と言い換えて、日々神さまとともに歩ませていただきましょう。        (吉持日輪生)