「神さまの厳格さ」を想う2020年05月17日

主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりに行った。主がモーセに命じられたすべてのことばを、彼は一言も省かなかった。                    ヨシュア記11章15節

 前回、ヨシュア記10章からは「神さまの憐れみ深さ」を取り扱いました。今回は、前回の「憐れみ深さ」とは真逆に見える「神さまの厳格さ」を取り扱います。
 ヨシュア記10章に引き続いて、ヨシュア記11章には「聖絶した」ということばが、度々登場します。ヨシュア記10章では、1節「聖絶し」、28節「聖絶し」、35節「聖絶した」、37節「聖絶した」、39節「聖絶し」、40節「聖絶した」とあります。ヨシュア記11章では、11節「聖絶した」、12節「聖絶した」、20節「聖絶するため」、21節「聖絶した」とあります。人が人を殺すということは、いつの時代にあっても人の心に痛みをもたらします。しかし、イスラエルの民は、その自分の心の痛みよりも、神さまの命令を重んじたのです。そこに「神さまの厳格さ」への忠実な、誠実な姿勢を覚えます。そしてその「神さまの厳格さ」を重んじる姿勢は、冒頭で引用している聖書個所を読むと、モーセからヨシュアに引き継がれていることが分かります。
 さて私たちは、どうでしょうか。イエスさまを通して「神さまの愛」「神さまの憐れみ深さ」に触れている私たちは、どこかで「神さまの厳格さ」を避け、触れないようにしていないでしょうか。聖書は、はっきりとこのように語っています。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。                  ローマ人への手紙6章23節

 「神さまの厳格さ」は、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」と表裏一体です。「神さまの厳格さ」があいまいになる時、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」もあいまいになってしまいます。私たちには罪があるからこそ、本来いつ死んでもおかしくない存在です。しかし、その存在が今日も生かされているのは、まさに「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」です。今週も、「神さまの厳格さ」を覚え、「神さまの憐れみ深さ」「神さまの愛」に育まれて歩みましょう。     (吉持日輪生)

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