イエスさまから聞くことを学ぶ2019年07月04日

主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。                 イザヤ書 9章6節c                                    

 新約聖書の4つの福音書には、イエスさまと弟子たち、そして様々な人物との対話が書かれています。具体的には、ユダヤ人の指導者であったニコデモとの対話(ヨハネの福音書3章1~15節)、スカルの町の女性との出会い(ヨハネの福音書4章6~29節)、そして、主の弟子であったシモン・ペテロとの数々の対話を挙げることができるでしょう。話す相手の課題を明らかにする的確な問いかけをして、その人の人生を大きく変える助言を与えます。それはまさに、イザヤ書9章6節で預言された「不思議な助言者」(英語ではWonderful Counselor:素晴らしいカウンセラー)と呼ばれる姿を、イエスさまに見ることができます。クリスチャンカウンセリングの第一人者である、ゲリー・コリンズ博士は、その特徴について「イエスは、関わったすべての人に対して、完全に素直で、あわれみ深く、とても敏感で、霊的な成熟さを持っておられた。(1)」と説明しています。神の子であられる方が、目の前の一人一人の課題や弱さに寄り添い、霊的な励ましと解決を与えられたという事実に、私たちは希望を見出すことができます。
 イエスさまは、私たちにとってもカウンセラーです。今も聖霊なる神さまを通して、聖書のみことばから、霊的な励ましと課題の解決を与えてくださいます。人々がイエスさまと対話した各場面を黙想する時に、イエスさまご自身が私たちに質問を投げかけ、応答を求められます。さらにイエスさまは、聴く姿勢と関わり方についてのモデル(あるべき姿)を教えてくださいます。もちろん、イエスさまのような素晴らしいカウンセラーになることは簡単なことではありません。しかし、イエスさまのことばに真摯に向き合い、学んでいく時に、イエスさまの心と思いが私たちにも与えられ、よく聴くことができ、励ましと慰めの言葉をもって仕えることができるのです。次回は「慰めの子」と呼ばれたバルナバについて見ていきましょう。(笠川路人)
(1) Gary R. Collins, “Christian Counseling: A comprehensive Guide”, 30頁

「慰めの子」バルナバから学ぶ2019年07月07日

キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。       使徒の働き4章36~37節

 アンテオケ教会で活躍したバルナバの本名はヨセフであり、バルナバは、ヨセフの賜物であった「慰める」(原語では、ことばを持って励ます、勧める)行為が、そのまま呼び名となりました。次にバルナバが登場するのは、使徒の働き9章27節以降です。エルサレムの教会の仲間に加わることができなかった、回心直後のサウロ(パウロ)を引きうけて、使徒たちにパウロの回心を説明し、受け入れてもらうという重要な役割を担いました。この「引き受ける」という行為は、「助けるためにしっかりとつかむ、握る」という意味を持ち、恐らく時間をかけてパウロの過去をしっかりと聞き、何が起こったかを理解し、その回心を受け止めたのでしょう。このバルナバの「聴く力」によって、パウロは初代教会の中で、宣教の働きを始めることができました。
 異邦人に対する宣教を始めたアンテオケ教会に対して、エルサレム教会はお目付け役としてバルナバを派遣しました(使徒の働き11章19節以降)。バルナバは、回心した異邦人たちに対する偏見を持つことなく、救いの御業を喜び、ありのままを受け止めて、救いにとどまるように励ましました。「彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。」(使徒の働き11章24節)バルナバの性格と人格が、アンテオケ教会のさらなる成長に貢献したことが書かれています。さらに、回心した多くの異邦人たちの教育のために、パウロを教師として採用し、共に弟子の教育に励んだ姿に、バルナバの謙遜さと知恵深さを見ることができます。
 最初の伝道旅行において、途中で離脱してしまったマルコにセカンドチャンスを与えたのもバルナバでした。マルコの処遇についてパウロと激しく反目した結果、パウロと別行動を取ることになったバルナバですが、失敗者を受け入れて、立ち直るための機会を与える心の広さを見ることができます。彼は、人のマイナス部分だけではなく、その人の成長の可能性を見出し、期待して信じる心を持っていました。マルコは後に、パウロも認めるほどに弟子として活躍し、マルコの福音書を著すこととなりました。「慰めの子」バルナバは、教会において、人を励まし、成長させるモデルです。バルナバの人々に関わる姿から学び、教会において共に生きる祝福を頂きましょう。(笠川路人)

聴くことの実践について 12019年07月14日

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。                   へブル人への手紙 4章16節

 今回から2回に渡って、聴くことの実践について見ていきます。まず、聴く人の心構えとして、私たちの真の牧者はイエス・キリストであるという理解が必要です。聖霊なる神さまが、交わされる言葉の中に、祈りの中に働いて下さり、聴いてもらう立場の人と、聴く立場の人の両方を導いて下さることを信じることが重要です。その上で、聴く立場の人は、聖書的な人間観を持って臨むことが大切になります。元々は、「非常に良かった」と言われる、「神のかたち」に創造された私たちですが、罪の影響により「神のかたち」を棄損した状態であり、イエスさまの十字架の贖いによって、罪が赦され、神さまとの関係が回復しており、そして、この救いを頂いた者には、聖霊なる神さまの臨在と新生(新しく生まれ変わること)の約束が与えられています。
 次に聴くことの実践として、聴く側の態度や姿勢は、相手が心を開いて話すことができるかどうかの大きな要因となります。具体的には、共感力を持って聴くことができているか。無関心ではなく、温かさをもってしっかり関わろうと思っているか。機械的に質問するのではなく、自然にかつ純粋な心を持って聴こうとしているか。そして相手に対して尊敬の心を持って(たとえどんな話の内容になったとしても)臨むことが出来ているかが重要になります。もし、聴く側が過度に緊張していたり、厳しい表情をしてしまっていたら、話す側はリラックスして、自然に話すことが難しくなります。同時に姿勢や身体の角度、そして適切な相槌(あいづち)も大切です。
 クリスチャンが祈りを持って、聖霊の力により頼みながら「聴く」時、それはたましいの牧者であるイエスさまのもとにその人をお連れする時であり、神さまの恵みの御座に近づく経験でもあると言えます。もちろん、すぐに「聴く」という働きに慣れることはできません。時間と機会を持ち続けて、試行錯誤を繰り返しながら、少しずつ自然に「聴く」ことができるようになっていくでしょう。次回はより深く聴くための方法と質問について学びましょう。(笠川路人)

聴くことの実践について 22019年07月21日

香油と香料は心を喜ばせ、友の慰めはたましいを力づける。          箴言 27章9節

今回は、聴くことの実践として、相手の話を深く聴くための方法と質問について考えます。最初に、相手の状況を的確に把握することから始めます。抱えている問題は何か、どの程度深刻なものなのかを確認します。その問題が、その人自身がコントロールできるものなのか、できないものなのかを判別することは大切です。同時に、クリスチャンであればその人の霊的な状態についても知ることが重要です。信仰を通して神さまから希望を受けることができる状況か、もしくは、信仰の励ましや回復が必要な状況かによって、聴き手として話すべき内容を変える必要があります。
 次に、深く聴き出すための質問に進みます。まず初めに「気持ち」について聴くことが重要です。怒り、悲しみ、失望、不安など、感じていることを一通り聞いていきます。この時に、「怒り」についての学びや、家族の背景を知る学びで得た知識を、状況の分析や理解に用いることができます。その人の気持ちや感情を、時間をかけて十分に聴き出した後で、次に「考え」について聞いてみます。感情が強く出る時には、主観的な意見が多い傾向がありますが、感情を吐き出した後で、客観的にその問題について、どう思うのかについて聞いていきます。最後に、問題に対して、その人が「実際に行った行動」について聴きます。ここでのポイントは、聴き手が、その行動が合っていたのか、間違っていたのかについての判断をすぐにしないということです。そして、問題に対して、今後「どのような対処をするのか」、「どう対応したいのか」については、本人に聞くことが大切です。もし、アドバイスを求められたならば、決して枠にはめることをせずに、ことばを選びながら、真実に思ったことを語るようにします。もし答えが分からない時には、分かったふりをせずに、「分かりません」と話すことも大切です。時に、沈黙が続くことが起こりますが、沈黙を恐れることなく、沈黙の中にも神さまが語ってくださることに期待します。
聴くことの霊的な備えとして、相手のために祈り、聴き手である自分のために(口がきよめられるように、平安が与えられ、恐れが取り除かれるように)祈る必要があります。聴く時間全体が、聖霊なる神さまの働きによって、導かれることを願い、祈っていきましょう。次回は、教会における聴く奉仕について考えます。(笠川路人)

聴くことの働きについて2019年07月28日

牧会ケアと教会外での対応
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
                 ヤコブの手紙 5章16節                                    
教会の中での聴く働きを「牧会ケア」とも言います。牧会という言葉は、牧師や伝道師といった教師に限られた働きのように聞こえますが、実際には信徒の立場で牧会ケアに関わるケースもあります。下の図は牧会ケアと呼ばれる、聴くことの働きの種類と、牧会ケアの範囲を超える心理療法のような対応について整理したものです。
(1)の助け手(聴き手)は、時間を取って相手の話を聴くことをする人のことを指します。聴くことについては得手不得手あると思いますが、助け手はクリスチャン誰もが携わることのできる奉仕です。その次は、(2)霊的な導き(メンタリングとも言います)という奉仕です。相手と定期的に会って、話を聴き、そして祈りを通して導いていく働きです。助け手としての「聴く」経験を積んでいく中で、霊的な導きに携わる資質が備えられて行きます。霊的な導きは、聴く働きに召された信徒リーダーや教職者によって提供されます。(3)牧会カウンセリングは、専門的な学びやカウンセリングの経験を持つ信徒や教職者によって提供されます。緊急かつ危機的な状況に対して、牧会カウンセリングは3か月や半年といった時間をかけて、その人の危機に関わっていくことになります。牧会カウンセリングでは対応しきれない、依存症や精神的な課題については、教会外の(4)心理療法の専門家に委ねることになります。
 「よい聴き手になるために」の著者である蔡香師は牧会ケアについてこのように説明します。「神に聴くこと、一人ひとりの魂に聴くこと。この二つが共に働くときに、初めて牧会ケアが成立します。どちらが欠けたとしても、牧会的な性質が失われてしまいます。神に聴くことがなければ、牧会ケアではなく、心理的ケアになります。魂に聴かない聖書談義は、牧会ケアではなく、一方的な講義になってしまいます。1」神さまの導きを求め、祈りを持って相手の話を親身に聴いていく牧会ケアの働きによって、神さまのいやしの御業が教会の中に広がっていくことを期待します。まず、私たち一人ひとりが「助け手」として、隣人の声に耳を傾けていくことができるようにと願います。(笠川路人)

1 蔡香 著「よい聴き手になるために」80頁