福音書を読む(1)2018年12月02日

「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」         ヨハネの福音書 20章31節
          
 新約聖書には4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)があります。4つの福音書が一人の主人公であるイエス・キリストの生涯について記しています。福音書を書いた4人の著者はそれぞれに異なる読み手に対してイエス・キリストについて伝えようとしました。一般的にマタイの福音書はユダヤ人に対して、マルコの福音書はローマ人に対して、ルカの福音書はギリシヤ人に対して、そしてヨハネの福音書は全世界を対象に書かれたと言われています。マタイの福音書はアブラハムからの系図から始まり、数多くの旧約聖書からの引用と預言の成就について語っており、旧約聖書に精通するユダヤ人を対象としているのは明らかです。同時に、私たちにとっては旧約聖書の預言とイエス・キリストとの関係を学ぶのを助けます。一方で、ヨハネの福音書の「初めに、ことばがあった。」(ヨハネの福音書1章1節)から始まる最初の言葉は、創世記の初めの箇所を想像させるような表現を用いています。各福音書が読み手を想定し、読み手に配慮した表現と形式を用いていますが、各書に一貫していることは、イエス・キリストの生涯とイエス・キリストの教え(直接語られたことば)を記述していることです。そして福音書が書かれた共通の目的は、ヨハネの福音書20章31節に書かれている通り、読者が福音書を通して神の子イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得ることです。2000年前にイエス・キリストとの出会いを通して弟子たちが体験した新しい人生と永遠のいのち。福音書を通して私たちも体験させて頂きたいと思います。次回は福音書の中身について見ていきたいと思います。
(笠川路人)

福音書を読む(2)2018年12月09日

イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。  マタイの福音書 4章23節
         
 福音書はその読者をイエス・キリストの生涯の驚くべきストーリーの中に招き入れます。福音書を読むときに、私たちはまるで弟子の一人になったかのように、当時の場面を想像し、イエスさまの教えを学ぶことができます。今回は福音書を主に構成する5つの内容を見ていきたいと思います。
1.「誕生の物語」 マタイとルカの二つの福音書に記述されています。旧約聖書で預言されたメシヤ(救い主)誕生の成就が語られ、イエス・キリストの系図を通して、旧約聖書のイスラエルの民の歴史と救い主イエスさまの生涯が一つに繋がります。
2.「教え(新しい戒め)」 福音書の大きな部分を占めるのが、教え(新しい戒め)です。イエスさまは会堂をはじめとする様々な場所で群衆に教え、弟子たちや特定の人々に対して個人的にその教えを話されました。時にはたとえ話を用いて、神の国の真理を語られました。イエスさまの教えは、旧約聖書の戒め(律法)を守ることに縛られていた人々にとって新しい戒めとなりました。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネの福音書15章12節)イエスさまの教えは、私たちの信仰生活の規範となり、弟子としてどのように生きるべきかを教えています。
3.「奇跡と癒し」 イエスさまは数多くの奇跡と癒しを行われました。これらは神の子としての権威の現れであり、神の国の到来を証明するものでした。ヨハネの福音書では多くの奇跡の中から、7つをイエスさまの栄光を現わすものとして書いています。
4.「十字架での死」 福音書のクライマックスである十字架での死については、四福音書の全てが詳細について書いています。全人類の罪を背負って十字架の上で苦しみ、その贖い(身代わり)として凄惨な死を遂げられました。イザヤ書53章の預言の実現は、神ご自身が人となり、全人類の罪を赦すために十字架の死の犠牲を経験することでした。
5.「復活と昇天」 十字架の死の3日後に復活されたイエスさまは、弟子たちに現れ、天に昇られる前に大宣教命令と聖霊を受ける約束を与えられます。イエスさまの復活は、弟子たちに永遠のいのちに生きる希望を与えました。イエスさまの昇天後の弟子たちの歩みについては、ルカが記した「使徒の働き」に引き継がれます。
 今回は福音書を構成する5つの内容を確認しました。次回は、福音書の二つの大きなテーマである「受肉」と「贖い」について紹介させて頂きます。  (笠川路人)

福音書を読む(3)2018年12月16日

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。                ヨハネの福音書 1章14節         

 神である方が人間になられた。イエス・キリストが人間となられたことを受肉(incarnation)という言葉で表現します。無限である方が、限界のある人間となり、永遠に存在する方が、いつかは「死」を経験する者としてこの世界に誕生されたことは驚くべきことです。福音書を読むと、イエスさまは神としての権威と力の現れである多くの奇跡を行ったと同時に、私たちと何ら変わらない一人の人間としてのご性質も持っておられたことを知ることができます。喜びや悲しみを素直に表現し、時には怒り、さらには友人の死に涙を流されたイエスさま。福音書を読むときに、私たちは人間として歩まれたイエスさまを身近に感じ、人間である私たちに同情し、とりなしてくださるイエスさまの存在を覚えることができます。人間として歩まれたゆえに、イエスさまは私たちの人生の目標となり、行動の規範となります。生涯に渡って罪を犯すことがなく、弟子たちや関わった一人一人に愛を示し、謙遜に仕えられました。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」のヨハネの言葉の通り、私たちは福音書を通して、受肉されたイエスさまを間近に感じ、その教えや働きから多くを学ぶことができます。
 イエスさまが人間となり、この世界に来られた究極の目的は、十字架上での身代わりの死をもって、全人類の贖罪(atonement)を成し遂げることでした。この「身代わり」は聖書の中で繰り返し語られるテーマであり、神さまの愛のご性質の現れでもあります。イエスさまが受肉されなければ、十字架の死による贖罪は完了しませんでした。限りある命と身体を持つ人間として生まれたイエスさまは、死の苦しみを経験され、全人類の罪の処罰を身代わりに受けられました。福音書の十字架の箇所から、私たちは何を学び、受け取ることができるでしょうか。それは私たち一人一人を罪の滅びから救い出したいという神さまの大きな愛が注がれた時であり、その使命を全うするために十字架上での死を受け入れられた、イエスさまの謙遜な姿です。この「受肉」と「贖罪」の二つのテーマを持って福音書を読んでいく時に、神さまがイエスさまを通して、私たちに与えて下さったその大きな愛を深く知ることができるのです。     (笠川路人)

手紙(書簡)の読み方とは2018年12月23日

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもっ
て、神の栄光を現わしなさい。     コリント人への手紙第一 6章20節         

手紙(書簡)は1世紀当時の教会もしくは個人に書かれたもので、新約聖書の後半に置かれています。教会そして個人のクリスチャンに宛てて書かれたものだけに、私たちにとっても身近に感じられる多くの具体的な教えと勧めが含まれています。しかし、具体的であるがゆえに、現代の私たちの状況にそのまま適用することが難しい教えが存在するのも事実であり、慎重な解釈が必要になります。例えば、コリント人への手紙第一11章で、パウロはコリントの教会の女性に対して、頭に「かぶり物」を着けるように教えていますが、現代の教会でこの教えを忠実に実践する教会は稀でしょう。手紙(書簡)を読む時には、数多く書かれている具体的な教えの中から、1世紀当時の教会に使徒を通して語られた神さまのことばが、21世紀の私たちに何を教えているのか解釈し、適用することが必要になります。
 手紙を解釈するために必要なことは、手紙には「読者」が存在し、「読者」の特定の状況があったことを理解することから始まります。そうすれば、手紙を慎重に読み進めていく時に、(ディボーショナル聖書注解や聖書ハンドブックも参考になります)2000年前の読者の抱えている課題と、著者が教えている内容の詳細について理解することができます。聖書の中心的なメッセージである「福音」や「救い」についての教えは現代も変わらない普遍的な内容ですが、1世紀当時の文化や風習に関わる内容については、その教えが本質的に意味することは何かを考えます。先程の「かぶり物」については、当時の(かぶり物を着けるという)慣習を破ることによって、礼拝において神さまから注意をそらすことはすべきではないという原則を見ることができるでしょう1。私たち自身の存在と行動を通して、神さまの栄光を現わすことができることは何か、手紙から学ばせて頂きたいと思います。(笠川路人)
ゴードン・D・フィー、ダグラス・スチュワート「聖書を正しく読むために[総論]」130頁

聖書が教える人間関係2018年12月30日

神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。          創世記 1章27節                   

 今回からバルナバコースの5回目である「聖書が教える人間関係」の内容に入ります。私たち誰もが良い人間関係を持ちたい、維持したいと願います。しかし、人間関係ほど複雑で難しいものはありません。表面上はうまくいっていると思っていても(見えていたとしても)、私たちの心の中では他の人との関係の中でわだかまりを持ったり、ストレスを感じたりします。特に日本人は「はい」ではなく「いいえ」もしくは「違います」と言うのが苦手だと言われていますが、事を荒立てないために人間関係で我慢することがしばしば起こると思います。家族の中で、友人関係の中で、そして教会の人間関係の中で起こってくる様々な課題に対して、私たちはどのように対応したらよいでしょうか。書店に行けば、例えば、「人付き合いをうまくする方法」や「誰にでも好かれる生き方」のような人間関係に関する本を見つけることができます。しかし、クリスチャンは聖書が教え、聖書の中に語られていることから人間関係について学ぶことができます。
 創世記1-3章には天地創造から人間の堕落までのストーリーが書かれていますが、人間とはそもそも何者なのか、そして何が人間にとっての問題となったのかが説明されている箇所でもあります。まず、最初に、人間は神さまのかたちとして創造された(創世記1章27節)存在であり、「見よ。それは非常に良かった。」(創世記1章31節)と評価される存在だったことを知ることが大切です。さらに1章26節で神さまご自身が「われわれ」と複数形で語られていることから、神さまのかたちとして創造された人間も当然のことながら、関係の中で生きる存在として生み出されたことが分かります。それでは次回は創世記2-3章から、関係性を持つ存在として創られた人間について聖書から詳しく見ていきましょう。
(笠川路人)